睡蓮ー氣編ー
義徳は、ゆっくりと立ち上がった。
雨が僧衣を濡らしている。
呼吸がまだ乱れていた。
確かに見えたのは迷いが消えた目だ。
境内に漂う湿った空気の中で、義徳は静かに火の消えた法具を拾い上げた。
そして、印を結び始めた。
剛仁:『義徳さん?』
低い読経が始まった。
その声は何か違う。
必死に押し留めようとする声である。
竜太:『何してるんですか』
義徳は答えなかった。
経文だけが、雨音に重なっている。
空気が重く沈み始める。
神社の地面に刻まれた見えない線が淡く発光し始めていた。
剛仁:『…………』
剛仁は無言で義徳を見つめた。
普通の人間では心臓を直接掴まれたような鋭い激痛が走る筈だ。
身体の奥底から何かを引き裂かれる感覚がする筈だ。
輪郭が微かに揺らぎ始める中、剛仁は無表情で立っていた。
義徳:『このままにはできません』
その声は異様なほど静かだ。
静かなのに押し殺し切れない感情が滲んでいる。
義徳:『剛仁さん、あなたは既に自分が消える事を受け入れ始めている』
剛仁:『それは違います』
義徳:『違いません。あなたは最初から自分を勘定に入れていない。誰かが助かるなら、自分が壊れても構わないと考えている。仏教において、自己を軽んじる行為は救済ではありません』
義徳の目は、誤魔化せないものを見る目だった。
それでも剛仁は、まっすぐ立ったまま義徳を見つめ続けている。
印が強く結ばれた。
その瞬間、境内に光が走った。
地面から現れた淡い結界が剛仁を包み込んだ。
剛仁:『………………』
剛仁は、身体の中へ直接杭を打ち込まれたような苦痛を受け入れるように合掌した。
輪郭が激しく揺らぎ始めている。
梅美:『やめて!義徳さん!きゃぁーっ!』
梅美が止めようとしたが、結界が拒絶し、弾かれたように後ろへ倒れ込んだ。
竜太:『梅美さん!』
義徳は止めなかった。
止められなかった。
脳裏に焼き付いていた。
どこかで会った事のある、ぼやけた記憶に遺る未来の輝。
輝が悟ったような、あの目。
全部を背負ったまま、誰にも助けを求めなかった横顔。
世界を壊そうとしていたのに最後まで他人だけは守ろうとしていた人間。
あの顔が剛仁と重なってしまった。
義徳の呼吸が乱れる。
嫌だった。
見たくなかった。
誰かが静かに自分を消していく瞬間を。
義徳:『分かれてはいけないものが、分かれたまま存在している……』
光が強まってきた。
剛仁は合掌したまま、義徳だけを見ている。
義徳:『陰と陽。魂の分離。人格の分割。このまま放置すれば、必ず更なる破綻を招きます』
声が掠れている。
義徳は印を解かなかった。
義徳:『私が責任を持って終わらせましょう』
竜太:『終わらせるって何ですか?』
雷のような怒声が境内へ響いた。
義徳:『これ以上、誰か一人だけが壊れる前に元へ戻すのです』
竜太:『元って何?剛仁さんは今ここに居るだろ。意思があるだろ』
義徳:『それでも、この状態は正常ではありません』
竜太:『正常じゃなきゃ勝手に消していいのかよ?』
義徳:『そういう話ではありません』
竜太:『そういう話にしてるのは、あんただろ。顔も名前も覚えたからな!』
空気が震えた。
義徳の表情が揺れる。
だが、止めない。
止めれば、取り返しがつかなくなる。
そう確信していた。
剛仁は一歩一歩、静かに丁寧に歩き、義徳の前に立った。
剛仁:『私が義徳さんを、ここまで追い詰めてしまったのですね。私は、どうすれば相手を壊さずに済むか、そればかり考えていました。誰かの苦しみをどうしても見過ごせなかった。でも、その優しさが、逆に周りへ重さを背負わせていたのかもしれませんね。自分だけが耐えればいいと思っていました。しかし、それは支え合うではなく、独りで抱え込む事でした。誰にも頼らない孤独、身近な人がこれを知った瞬間、責任感が強くて真面目な人ほど深く自分を責めてしまう。自分は、この人を一人にしていたのではないかと…。私は相手がそういう感覚に襲われる事まで考えてませんでした。もっと考え方を改めようと思います。苦しませてしまって、ごめんなさい』
義徳:『私が……苦しんでる………?…………?……………私が?……何を言って………』
義徳の呼吸が止まりかけた。
こんな状況でなお、剛仁は自分ではなく人を見ている。
それが義徳には耐えられなかった。
義徳:『私は剛仁さんが自分だけを人間として扱っていない事に怒っているんです!他人の痛みには敏感なのに、自分の痛みだけ最初から必要経費みたいに扱っているではないですか!』
初めて怒鳴った。
雨音を裂く声だ。
剛仁:『………………』
剛仁は何も言い返さず、じっと義徳の言葉を聞いた。
義徳:『私は何度でも言う!あなたは、自分を救う事を最初から放棄している!自分だけを救済対象から外している!そんなものを慈悲と呼ぶな!』
結界が激しく明滅している。
竜太は祭壇へ駆けた。
梅美:『どこへ行くの?竜ちゃん!?』
竜太は祭壇の奥に入り、古びた布に包まれていた剣を掴んだ。
その刹那、神社全体が震えた。
錆びているはずの刃が、淡く金色に光を帯びた。
三つの鏡と剣と勾玉が、この神社に隠されていた、
竜太は義徳へ刃を向けた。
竜太:『義徳さんは救うという名目で剛仁さんの存在を上書きしようとしていますよね。僕も嫌です。また目の前で誰かが壊れていくのを見るのが……。輝さんの時も勝手に一人で消えちゃって、なんなんだよってムカついたよ。義徳さんと同じだった。義徳さんが本気で剛仁さんを守ろうとしてるのと同じくらい、ふざけんなって思った。でも、輝さんが梅美さんを守りたいって言った時の顔が忘れられなかった。危険だから、壊れるから、普通じゃないから、そんな理由で人格を全否定するのは、あんまりです。命がけで守ろうと覚悟を決めてるんですよ。誰にも理解されず、勝手に決めつけられる苦しさ、義徳さんは耐えられますか?救済という正論の刃物で一方的に否定されながら壊される。お前のためだと言われながら消される。また自分は何もできず見ているだけになる。耐えられますか?地獄です、こんなの。本人の意思があるまま壊される瞬間だけは止めたい』
義徳:『……』
竜太:『守るとか救済とか言ってるけど、本人の意思を置いていくのが救いなんですか?人の心を踏みにじるなら、その正論は救済だとは思えません』
義徳:『私は剛仁さんが悲劇ぶらず、助けを求めず、自分を可哀想と思わず、誰も責めず、相手に罪悪感を持たせない事に怒っているんです!自分の消滅を美しく処理しようとしている献身が許せないんです!』
竜太:『献身が分るなら自己犠牲と自己消去の違いだって理解してますよね。義徳さんは怖いだけでしょう。剛仁さんを失うのが怖いから、だから封じ込めて自分の見える場所に置こうとしてるだけじゃあないですか』
義徳の呼吸が止まった。
図星だった。
竜太:『それって救いなんですか?相手を信じる事から逃げてるだけではないですか。正しさの陰で取り残される人間をちゃんと見てください。正論で相手を追い詰めてませんか?救済のつもりが圧迫してませんか?善意が暴力化してませんか?義徳さん、今の自分の顔を見てください』
義徳は動けなかった。
神器の剣に自分の顔が映っている。
義徳:『……』
暗い夜に雨。
濡れた僧衣。
吊り上がった目。
追い詰める顔。
逃げ場を与えぬ顔。
それは鬼だった。
義徳は命を守りたい。
竜太は心を守りたい。
剛仁は誰も傷つけたくない。
梅美は誰も自分のせいで壊れてほしくない。
全員が善意で動いている。
義徳の呼吸が止まり、脳裏に師の声が蘇る。
『正義に執着した僧から鬼になる。破邪とは相手を叩き潰す事ではない。救済を忘れた瞬間、僧は修羅へ堕ちる』
義徳:『…………』
初めて理解した。
自分が今、何をしていたのか。
守ろうとしていた。
救おうとしていた。
その筈だった。
竜太は怒っている。
梅美は怯えている。
剛仁は自分を責めている。
義徳自身が一番、相手を追い詰める存在になっていた。
義徳の指から、印が崩れ落ちた。
結界が霧散した。
剛仁は表情を変えず、合掌し続けていた。
雨音だけが残った。
義徳は呆然と刃に映る鬼の顔を見つめ続けた。
義徳:『………酷い顔。私は……何をしていたのでしょうか……。こんな顔で………剛仁さんに………竜太さんにも……梅美さんにも……私にも……尊重できず……最低だ………………。………!』
ふと義徳の脳裏に、かつて自分へ過剰な憧れを抱いていた僧侶の姿が過った。
あの日、彼は震える声で想いを打ち明けながら背後から義徳を抱き締めた。
義徳はその行為を強く戒めたが、今になって、その奥にあった孤独や救いを求める心が胸に重く残り始めていた。
彼がパワハラだと怒りを剝き出しにした理由を真剣に考えた事はなかった。
その時に先に見えたのは不敬と規律違反と修行の乱れだった。
煩悩は切るべきものだと、ずっと思っていた。
お寺の規律を守る事だけを貫き、苦しんでいる人間そのものを見失っていた。
執着と欲と恋の奥に救われたかった心があると、やっと氣づいた。
この一件が山内に広まったあの日、僧侶たちの間で噂になった時、殆どの僧侶が笑っていた。
だが、徳密だけは笑わなかった。
徳密は皆に真剣に煩悩即菩提の教えを説いていた。
『欲を無理に消そうとすると、かえって歪みます。人は迷うからこそ苦しみます。ですが、その苦しみを切り捨てるだけで本当に救いになるのでしょうか』
徳密の声は静かで、楓芽に恋を寄せた自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
義徳は当時、その言葉の意味を理解できなかった。
この時も外道めと心の中でつぶやいていた。
だが今になってようやく分かり始めていた。
徳密は誰かの煩悩を笑わず、苦しみを抱えながら生きる人間を見ていたのだと。
義徳:『……私を襲った僧侶にも、私は不敬しか見えていなかったのかもしれません……。私は間違いを正す事ばかりに囚われて、人の心を見ていなかった……。人の孤独や苦しみを見ようとしていなかった……』
雨が静かに降り続いている。
義徳:『私は正しさを示しているつもりで、人を追い詰めていたのですね……』
義徳は、神器に映る自分の顔を見つめた。
義徳:『煩悩即菩提……。煩悩とは、ただ切り捨てる為にあるものではなかった……。苦しみの中にいる人も、自分も見捨てない事だったのですね……。私は苦しんでいる人間から目を逸らしていました……』
声が、わずかに震えている。
義徳:『正義だけでは足りなかった……。相手の苦しみを自分の理屈で切り捨てない心……、慈悲が足りていなかった……』
竜太も、梅美も、剛仁も、静かに義徳の言葉を聞いていた。
雨は弱くなっていた。
激しく打ちつけていた雨粒は、いつの間にか細くなり、境内の石畳を静かに濡らしている。
結界は消えたが、空気だけがまだ張り詰めている。
義徳は、崩れ落ちた印のまま立ち尽くしていた。
神器の剣に映った自分の顔。
あの鬼のような表情が、まだ脳裏に焼き付いて離れない。
剛仁は静かに呼吸を整えていた。
結界の影響は完全には抜けていない。
輪郭が時折ぶれるように揺れて見える。
それでも、剛仁は何も言わなかった。
責めない、怒らない。
それが逆に、義徳の胸を締め付けていた。
竜太は剣を握ったまま動かなかった。
警戒している。
義徳は、その視線から逃げなかった。
義徳:『もう、封じません』
竜太:『…………』
義徳:『約束します。あなたの言う通り、私は守るという言葉で自分の恐怖を正当化していました』
雨音だけが静かに続いている。
義徳:『剛仁さんを失うのが怖かった。今ここにいる剛仁さんではなく、壊れる可能性ばかり見ていました』
言葉を口にする度に、義徳自身が傷付いていく。
僧侶として、導く側として、そして大人として。
自分の未熟さを認める事は、義徳にとって大きな氣づきである。
義徳は竜太へ視線を向けた。
義徳:『……剣を、下ろしてください』
竜太の手はまだ震えていた。
徐々に力が抜け始めている。
本当は恐かった。
義徳へ刃を向けた瞬間から、ずっと。
竜太:『また、消されると思った。また、何もできないまま終わると思った。……嫌だった。もう、自分だけ助かるの……嫌だ……』
剣先がゆっくり下がった。
同時に竜太の膝から力が抜けた。
義徳は反射的に前へ出ようとした。
竜太が肩を震わせた。
義徳は止まった。
どれだけ恐怖を与えてしまったか理解してしまった。
義徳の顔が苦く歪む。
義徳:『…………すみません』
恐らく義徳が人生で最も重く口にした謝罪だった。
竜太は俯いたまま、小さく首を横に振った。
梅美が静かに涙を流している。
梅美:『……私のせいで……』
剛仁:『誰も悪くありません』
剛仁は梅美を見つめた。
梅美:『でも……っ』
剛仁:『誰か一人のせいでもありません。誰か一人のせいにしたら、また同じ』
その言葉に、義徳の胸が深く抉られた。
また同じ。
それは、自分が今まさにやりかけた事だった。
正しさで切り分け、危険として処理し、誰か一人へ背負わせる。
義徳は静かに目を閉じた。
そして雨の中、ゆっくり剛仁の前へ歩いた。
剛仁は逃げなかった。
義徳は、その事が逆に苦しかった。
義徳:『……剛仁さん』
剛仁:『はい』
義徳:『私は、あなたを傷付けました』
剛仁は少し困ったように笑った。
剛仁:『義徳さんは、守ろうとしてくれたのでしょう』
その瞬間、義徳の表情が歪んだ。
義徳:『自分が傷付けられた側なのに、相手を庇うのをやめてください』
声が震えていた。
義徳:『あなたは、そうやって全部、自分の中で処理してしまう』
剛仁は黙った。
義徳:『怒っていいんです』
剛仁:『…………』
義徳:『苦しいと言っていいんです』
雨音が静かに響いている。
義徳:『もう、一人で背負わなくていい』
長い沈黙が流れた。
やがて義徳は、深く息を吐いた。
義徳:『竜太さん、梅美さん、剛仁さん……。鬼になりかけた私を止めてくださり、ありがとうございます』
義徳は、ゆっくりと頭を下げた。
そして、静かに梅美を見た。
義徳:『私も梅美さんを救います』
梅美:『ありがとう、義徳さん』
義徳:『私は年齢制限の結界に阻まれる為、皆さんと共に大正時代へ向かう事はできません。ですが、皆さんが無事に帰って来られるよう、祈り続けます』
その言葉に張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
竜太は剣をゆっくりと丁寧に元の場所に戻し、走って義徳に抱きついた。
梅美も駆け寄って義徳に抱きついた。
剛仁は1人で帰ろうと、鳥居へと静かに歩き始めた。
金龍さまも剛仁についていっている。
義徳は剛仁の本当の名前を読んだ。
すると、剛仁は義徳へと駆けてそっと抱きしめた。
金龍さまは皆の頭の上でくつろいでいた。
皆の温もりを受け止めながら、義徳は静かに目を閉じた。
そして、包み込むように、そっと抱きしめた。
義徳:『さぁ、帰りましょうか』
義徳はゆっくり顔を上げた。
その目には、もう指導者の圧が無かった。
義徳:『今日は、もうおしまい。私が家まで送ります』
竜太が顔を上げる。
義徳:『こんな時間に、子供だけで帰らせる訳にはいきません』
いつもの義徳らしい言い方だった。
だがもう、そこに冷たい顔は無かった。
義徳は法具を拾い、静かに歩き出した。
剛仁が最初に歩き、竜太が続き、梅美が小さく頭を下げた。
義徳は振り返った。
梅美は雨の中、微笑んでいた。
義徳は静かに合掌した。
苦しみの中にいる一人の人間へ向ける合掌であった。




