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睡蓮ー陰と陽編ー

義徳:『……今日は、もう帰りなさい』


雨の動きがゆっくりに見えた。

義徳は火の消えた法具を見つめたまま続ける。


竜太:『話してください』


義徳:『これ以上は、今ここで軽々しく扱っていい話ではありませんので…』


竜太:『僕は輝さんの体がバラバラになったのを見…』


剛仁:『今日は帰ろう、竜太』


剛仁は竜太の話を遮るように笑顔で、そう言った。

竜太は剛仁の顔を見て、無理をした笑顔だと氣づいてしまった。

義徳は梅美を見た。


義徳:『梅美さん。あなたを今すぐ除霊するような事などしません。ですが、子供たちを危険に晒す行為を肯定した訳でもありません。……これ以上、誰か一人だけが犠牲になる形は許しません』


境内に義徳の静かな声が響いた。

義徳は剛仁を見た。


剛仁:『義徳さんも竜太も誤解してる。私、ちゃんとここに居る……。犠牲になった覚えはありません』


義徳:『剛仁さん。後で、私とゆっくりお話ししましょう』


竜太:『義徳さん、何か知ってるんですよね』


義徳:『…………』


竜太:『話してください。僕だけが何も知らないみたいなの耐えられません』


義徳は口を閉ざしたまま無表情で梅美を見つめ続けていた。

耐えられないのは知る苦しさだ。

それでも、竜太は自分に耐えられないものは当事者なのにもかかわらず、お前には関係ないと突き放し、透明人間のような扱いをされる事だと訴え、義徳に何度も隠し事をしないようにお願いした。


義徳:『剛仁さんは……、いえ…、織田輝さんは、あなたが思っている以上に、大きなものを背負っています。それも、その背負い方が、あまりにも残酷なものです』


竜太:『……』


義徳:『自分を削る事を躊躇っていない』


竜太は、かつて剛仁が織田輝だった最後の日に輝の身体がバラバラになった事を思い出した。

あの日、輝は自ら生贄になったと勘づいた。


梅美:『まさか、輝ちゃんは私の為に自ら犠牲になったの?』


竜太と義徳は梅美の言葉に大きく驚き、俯いたまま言葉を失った。


剛仁:『あり得ません。自己犠牲は相手に罪悪感を植え付ける凶器となる。それは輝がよく判ってるので、梅美さんを守るために輝が自分を削るような事はできせん』


義徳:『輝さんがそんな事をする訳ないと言ってる時点で、自分と輝さんを分離していると言っているようなもですよ。剛仁さんはまだ、自分が既に輝さんの続きを生きている事を完全統合できていないのではありませんか』


竜太:『分離している点ですが、魔王がそう言ってました。魂が二つにわかれたんだって。剛仁さん、自己防衛の嘘なんてやめましょう』


剛仁:『否定させてほしい。犠牲になったとか』


竜太:『切ないんだよ……』


剛仁:『絶対、ない!梅美さんを救いたいというのは変わりません。しかし、救済が誰かを壊してはいけない!』


剛仁は、はっきりと言い切った。

だが、義徳は剛仁が既に死を受け入れている人間の匂いを感じ取っていたが、確信するのを恐れていた。

自己犠牲は美徳ではないと理解した上で、自分だけ消える事まで受容している。

その上で、他人だけは壊したくない、誰にも罪を背負わせたくない、梅美を自分を犠牲にした女にしたくないとまで考えている。

義徳は剛仁の言葉を聞いて余計に辛くなった。

自己犠牲を否定しているのに、その否定の仕方そのものが、既に自己犠牲的だからだ。

剛仁は自分の死によって誰かが壊れたのを見ている顔をしている。

義徳は静かにそこを見抜いていた。


また、竜太は剛仁の言葉は自分は既に犠牲になった証明になっていると読み、梅美の顔を見る事ができなかった。

梅美が、剛仁が死にながらループしている事を知らないのは輝が意図的に隠していると勘付き、竜太は何も言えなくなってしまった。

梅美に全てを知られたら、梅美は確実に自分を責めるだろう。

剛仁は真実を隠し、自分だけが傷を抱え、相手には背負わせないという形を選び続けている。

竜太には、それがもう犠牲になっている人に見えていた。


梅美:『輝ちゃんは…、いえ、魔王は自分が犠牲になってでも世界を変える。剛仁ちゃんは、その犠牲で誰かが壊れるなら意味がない。まるで陰と陽ね』


雨が石畳を打っている。

誰もすぐに口を開けなかった。


竜太:『………陰と陽か』


今まで感じていた“違和感”が、その言葉で急に形を持ち始める。


輝は前へ進もうとする。

剛仁は止まろうとする。


輝は世界を変えようとする。

剛仁は誰か一人の痛みを見捨てられない。


竜太の中で全部、繋がってしまった。


竜太:『……だから、剛仁さんはあんなに犠牲って言葉を嫌がるのか……』


剛仁:『違います。そんな大層な話じゃありません。ただ私は、誰かが苦しむ結果を肯定したくないだけです』


梅美は静かに剛仁を見た。


梅美:『でも、それを一番自分に向けてるでしょう?』


剛仁:『……』


剛仁は何も返せなかった。


義徳は雨の中、静かに目を伏せた。


義徳:『陰陽……』


その呟きは思索に近いものがあった。

義徳は僧侶として、陰陽を単なる比喩で終わらせなかった。


義徳:『陽は外へ向かう力。陰は内へ抱える力。確かに、輝さんと剛仁さんには、その分かれ方があります。ですが、本来、陰と陽は優劣ではありません。片方だけでは成立しない』


梅美:『……だから、輝ちゃんは剛仁ちゃんを残したの……?』


空気が止まり、剛仁の目が揺れた。

義徳は、それを見逃さなかった。


魂の分離が意図的なら、魔王は自分の暴走を理解していた。

だから陰を残し、良心だけを切り離した。


義徳は、その危険な核心を感じ取るように、そう確信した。


竜太:『じゃあ…、輝さんは最初から自分が壊れるって分かってたんですか……?』


誰も答えられなかった。

雨音だけが、やけに響いている。


剛仁:『……やめましょう、その話は』


剛仁は、もう笑っていなかった。


剛仁:『陰とか陽とか、そんな綺麗なものではありませんから………』


梅美:『剛仁ちゃん……』


剛仁:『私は、誰かが壊れるのを見たくないだけです』


義徳の表情がさらに重くなった。


義徳:『あなたは、自分が壊れる可能性だけ、最初から計算に入れていないのですね』


剛仁は少しだけ目を伏せた。


剛仁:『……それで誰かが助かるなら』


その瞬間だった。


パァン!と乾いた音が境内に響いた。

雨音が止まったように感じた。


剛仁の顔が横へ流れ、頬が赤く染まり始めた。


義徳は、震えている。


義徳:『それを、軽々しく言うな』


剛仁:『……』


義徳:『誰かのためなら壊れてもいい? 消えてもいい? そんなものを覚悟とは呼びません』


ここで義徳が怒っているのは、自己犠牲そのものではなかった。

自分だけを勘定から外している事だ。

僧侶である義徳は、本来自己犠牲という概念を否定しきれない人間である。

修行や信仰には、自分を削って他者へ尽くす面もあるからこそ分かってしまう。

献身ではなく、自己消去に近いというものが。


義徳:『あなたは、自分が消えれば丸く収まるとでも思っているのですか』


剛仁:『そんな事は……』


義徳:『思っているでしょう!だから、自分だけを平然と切り捨てられるのではありませんか!』


義徳はここで、輝と同じ危うさを剛仁に見てしまった。


陽の輝は、世界のために自分を燃やす。

陰の剛仁は、誰かを傷つけないために自分を消そうとする。

方向が逆なだけで、どちらも自分を残そうとしない。


義徳は、それが耐えられず、剛仁に平手打ちをしたのだ。

竜太や梅美は、剛仁を特別な存在として見ている。


だが、義徳は剛仁を子供として見ている部分があった。

子供が、自分の死を静かに受容している事実に、強烈な拒絶反応を起こしていた。

消えていい存在じゃないという、義徳なりの悲鳴だった。


剛仁:『……ごめんなさい』


雨が静かに降っている。

義徳の肩が小さく震えた。


義徳:『自分が殴られる理由を理解して、私が怒っている理由も分かって……それでもなお、自分を後回しにして………あなたは…………』


義徳は剛仁の顔を見た。

その顔には、反発も怒りも不満すら無かった。

ただ、相手を困らせてしまった事への申し訳なさだけがあった。


義徳の呼吸が乱れ始めた。

理解してしまった。


この子は、自分が傷付く事を何も恐れていない。


それどころか、最初から自分を勘定に入れていない。


義徳:『……ぁ……』


視界が揺れた。

胸の奥が軋んだ。


剛仁の姿と、脳裏に浮かぶ輝の姿が重なっていく。


世界を変えようとする陽。

誰も壊したくない陰。


違う形をしているのに、どちらも自分を残そうとしていない。


義徳:『もう……、やめて……ください……』


小さな声だった。

それは懇願だった。


義徳:『そんな顔で……自分を消そうとしたりなんか……』


その瞬間、義徳の膝が崩れた。


竜太:『義徳さん!?』


法具が地面へ落ちた。


剛仁:『義徳さん!』


義徳は片手を地面についたまま、苦しそうに呼吸している。

雨が背中を濡らしていく。

義徳は、自分でも理解できなかった。

なぜこんなにも苦しいのか。

だが、心だけは理解していた。


これは、自己犠牲が危険だからではない。

子供が、自分の死を静かに受け入れている。


この事実が、耐え難かったのだ。

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