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睡蓮ー花まつり編ー

輝が家出しても、母上は何も心配しなかった。

それどころか、もう何日も顔を見ていない。


今日は4月8日。

弟、優樹の誕生日。

バキュラが移動している為、幼稚園も学校もお休みとなった。


輝:『おはよう』


優樹:『………』


返事がない。

優樹は顔を上げず、そのまま朝食を食べている。

まるで、そこに誰もいないみたいに。

輝は何も言わず、隣に座って朝食を食べた。

すると、優樹が輝にこう言った。


優樹:『僕のお父さま、僕と血が繋がってないんだって』


輝:『………?』


優樹:『僕の本当のお父さまは、お医者さんなんだって』


輝:『………え?』


優樹:『僕、不倫の子なんだって』


輝:『それ、誰から聞いた?』


優樹:『………お母さま』


優樹は涙目で、そう答えた。

優樹は、この家の全てを知っていた。

母上が離婚し、新しい生活が始まる事も、父親が変わる事も。

それを口にする事は、できなかった。

まだ、輝には知らせられないのだ。


輝:『そっか……。他に何て言ってた?』


優樹:『不倫した相手と再婚するから、離婚する………って………』


輝は一瞬、頭が真っ白になった。

時計の針の音がやけに大きく聞こえた。


輝:『………………え?』


優樹:『……話…聞いてないの?』


輝:『今、初めて知った』


優樹:『離婚が嫌で家出したんじゃないの?』


輝:『家出は色々理由があるが、離婚を知ってショックを受けたとかではなくて、本当に家族とどう向き合っていいか分からなくて遠くに旅したかったんだ』


優樹:『いなくなっちゃった時、離婚の事だと思ったよ』


輝:『それは、ごめん。私が勝手すぎた』


優樹:『離婚したら僕たち、……離れ離れになっちゃう。お兄ちゃんは絶対、お母さまを選ばないよね。………お父さまについていくんだよね』


輝:『優樹は、お父さまが私を愛していると思うか?』


優樹:『……いや……思わない』


輝:『お父さまは私を愛してなどいない。無抵抗な私の口という口にちんこをぶち込んできたクソ親だぞ。プレゼントで釣って性的虐待を繰り返したクソ親が私を愛しているわけないだろ。そんなクソ親でも私は愛しているがな』


優樹:『憎いとか思わないの?』


輝:『親を憎いとまでは思わないが、お父さまが元気に健康に楽しく暮らしているなら、それが私の幸せだ』


優樹:『僕は何度も殺そうと思ってたよ……。全員殺して……僕も死んだら…みんなが苦しみ続けなくて済むんだって……』


輝:『……………………』


優樹:『扉の隙間から見えたんだよ。やられてるの。……そしたら、白石さんに包丁を握ったのバレちゃって……、…白石さんもバール持ってたんだよ……。白石さんがここに居る理由……、多分、お兄ちゃんを守るためだよ……。高級料理もわざとだよ。この家庭の反発心で、わざと逆らった料理を作ってる。一人の時は米に味噌汁にたくあんを食べてる。それをそのまま出すとお母さまと同じになって僕たちに寂しい思いをさせるから、わざと真逆のものを作ってる。それにホテルマンをやりながら、ここで使用人もやってる……。本当は眠くて大変だと思う…』


輝:『…………そんな……白石は、お父さまの幼馴染だぞ……』


優樹:『……殺さなくてよかった。憎いなんて思ってないのに殺したら、お兄ちゃんも白石さんも……、もっと苦しくなっちゃうところだったね……』


輝:『気づけなくてごめん。優樹がここまで追い詰められているとか、白石がどんな思いで料理を作っているとか何も知らずに過ごしてた』


優樹:『……誰も悪くないよ。でも……、あんなに酷いお父さまでも愛してるなら、結局はお父さまの側に行くんだよね?』


輝:『お父さまのところには行かない』


優樹:『愛してるのにどうして?』


輝:『愛しているからこそ行かないのだよ。お父さまのところへ行ったら、お父さまは、お父さまではいられなくなる。私の心の中だけでも、お父さまは、いつまでも、お父さまでありたい。だから、行かない』


優樹:『………………』


輝:『………………』


優樹:『…………………』


輝:『………………』


輝:『優樹…』


優樹:『…………』


輝:『誰が何と言おうと誰に何をされても私は優樹のお兄ちゃんだ。ひとりにはしない』


優樹:『……僕のこと、いらないって……なるんじゃないかって……っ、ずっと思ってた………。いなくなっちゃうのが怖くて………それで……本当は大好きなのに、わざと冷たくした…………。こんな事したのに、まだ僕のお兄ちゃんでいてくれるの?』


輝:『当たり前だろ。優樹は私のたった一人しか居ない弟なのだぞ』


その一言で優樹は滝のように涙を流した。

輝は、こんなになるまで弟を守ってこれなかったのかと怒りに近い感情が生まれた。

優樹が追い詰められていた事、誰にも本音を言えなかった事、一人で殺すまで考えていた事。

それに気づけなかった自分への悔しさが同時に来た。

この家は壊れている。

父上は加害者で、母上は守らず、白石だけが歪んだ形で今も支えている。


輝は涙でぐしゃぐしゃになった優樹の顔を見て、優樹を守る決意をした。

見捨てられた者同士の連帯として、自分と同じ苦しみを終わらせたい意思である。

そして、自分は見捨てない側になるという決意でもあった。


輝:『今日は優樹の誕生日だな。今日は特別に望みを叶えよう』


優樹:『……じゃあ、剛徳寺の秘仏、見に行きたい。今日だけ公開なんだって』


輝:『うっ……、剛徳寺か……。ランチのカレーライスも今日だけらしいぞ。ではまず、白石に外出の話通さないとな』


家出した次の日に剛仁に会うのを回避したい輝は、剛仁と顔を合わせずに済むよう、半ば願掛けのような気持ちで、白石の部屋へ向かい、扉の前で足を止め、軽くノックした。

中から、掠れた声が返ってきた。


白石:『……はぁい』


明らかに寝起きの声だ。


輝:『私だ。少し話がある』


鍵の外れる音がし、扉が開いた。

輝は、そこで一瞬、言葉を失った。


白石が立っている。


だが、いつもの整ったスーツ姿ではなかった。


頭は妙に整ったおかっぱに、ちょんまげ。

そして、赤い腹掛け一枚のみ。


輝:『…………おぉっ!!!!』


優樹:『ぶっ!金太郎だ!!!』


豪快に吹き出す輝と優樹。


白石:『…………ん?』


白石が自分の格好に気づく。

視線が下に落ちた後、一時停止した。


白石:『…………失礼いたしました』


反射的に背筋を伸ばすが、状況は何も整っていない。


白石:『すぐに、着替えて参りますので……その、少々お待ちください』


見るからに油断した様子である。


輝:『そのままでいい。似合っているぞ。ありのままの白石が好きだ』


白石の頬が瞬時に赤く染まった。

だが、反射的に姿勢を正すでもなく、ただぎこちなく視線を逸らした。


白石:『……あ、ありがとうございます……』


輝:『今日、優樹と一緒に剛徳寺に丸一日行ってくる』


白石は少し照れながらも、そのままの格好で外出許可を出した。


優樹・輝:『いってきまーす』


白石:『いってらっしゃーい』


輝と優樹は、春の光を浴びながら、ゆるやかな坂道を歩いて剛徳寺へ向かった。

風が少し冷たく、暖かい日差しが二人を包んだ。

優樹は、ずっと胸に溜めていた言葉を吐き出すように、輝に幼稚園で友達と手作りの仮面を付けて遊んだ事と、夜中にゲームを開いた瞬間にパカッ!!!!と音がしてしまい、白石に叱られたエピソードなどを笑いながら話していた。

その時に輝がゲームを開いたときに音が鳴らない方法を伝授し、事前にイヤーフォンを差し込んで音バレ防止もセットでアドバイスした。

開いた音はクリアしても、スイッチを押した瞬間にデデーーーン!!!!という音で白石にゲーム機を取り上げられて男泣きした苦い思い出があると語っている。

防音部屋に改造したり鍵をくっつけたり工夫をしたところで、健康重視の白石にバールで扉をこじ開けられてしまう為、部屋をリフォームしても全く意味はない。

母上からも事前に子供たちが夜中にゲームをしていたら部屋を破壊してでも止めろと伝えていたようで、お手上げである。


そんなこんなで、二人は剛徳寺に到着した。

春の光に包まれた境内は、まだ朝の空気が澄んでいて、鳥のさえずりが静かに響いている。

参道の石畳は歩くたびに小さく軋み、遠くに鐘楼の音が聞こえた。


優樹:『わぁ……桜きれいだね、お兄ちゃん……』


輝:『桜、まだ咲いているのだな』


境内の奥に進むと、落ち着いた空気が漂う本堂が見えてきた。

その一角に、静かに例のスーパースターの銅像が安置されていた。


優樹:『最澄だ』


輝:『えっ?名前知ってるのか、凄い』


優樹:『この前、テレビで剛徳寺の特集やってたよ。平安時代に唐で天台数学を学んで日本に広めた人なんだって』


輝:『霊山と仏教が一体化した比叡山の伝説もあったな』


滋賀からは離れているが、剛徳寺のスーパースターの銅像、最澄の表情は穏やかで、長い年月を経ても変わらぬ慈悲の心を感じた。

優樹と輝は手を合わせ、静かに目を閉じた。


目を開けると、桜の花びらがひらひらと舞っていた。

春風に乗って舞う桜吹雪の先に、ひとりの小さな人影が見えた。


小さな僧衣をまとった、剛仁だった。


剛仁:『こんにちは』


優樹:『こんにちは』


輝:『…………こ、こんにちは』


輝は、家出をした直後だったため、気まずすぎて下を向いてしまった。


輝:『家出の件は、すまん……』


優樹:『お騒がせして、ごめんなさい』


剛仁はにこりと笑った。

怒っている様子はなく、むしろ二人が無事にお寺に来た事を嬉しそうにしていた。


剛仁:『よかった、無事で。ゆっくりお参りしていってね』


剛仁の声は、落ち着いていた。

二人は微笑み返しながら、境内へと足を進めた。


剛仁は、二人の様子をそっと見守っていた。


優樹:『剛仁さんって、なんか懐かしい何かを感じる』


輝:『そう感じるか。実は私と入れ替わった事があるのだ』


優樹:『えぇーっ!!!!!』


輝:『冗談さ、はっはっはっ』


実のところ、割と冗談ではない。


優樹:『お兄ちゃん、すごく静かで落ち着くね』


輝:『ああ、全ての四天王に睨まれている気がする』


優樹:『そうかなぁ?お兄ちゃんが家出したのを怒ってるんじゃないの?』


輝:『そ、その話は、ここでするのやめておきましょか……色んな仏像たちが反応してしまう……』


珍しく小さくなる輝であった。


二人は本堂の奥に進み、剛徳寺の秘仏を拝んだ。

扉の向こうに安置された像は、外の光を受けて穏やかに輝き、長い年月の中で培われた威厳と慈悲の心を感じた。


優樹は手を合わせ、そっと目を閉じた。

輝も同じく手を合わせ、呼吸を整えた。


春風が桜の花びらを舞わせ、境内に穏やかな時間が流れる。

優樹と輝は、秘仏の前で静かに心の奥でしっかりと祈りを捧げていた。


本堂を出ると、柱の影に剛仁が立っていた。

さっきと同じように背筋を伸ばしているが、どこかそわそわしている。


剛仁:『やぁ、また会ったね』


輝:『何が、やぁ、だよ。また会ったね、ではない、お前はストーカーか』


剛仁:『たまたまだよ。あのね……、よかったら、お昼……、一緒にどう?』


優樹が目を輝かせる。


優樹:『お昼?』


剛仁:『うん。今日は花まつりだから、みんなでご飯食べるの。カレーなんだけど、どう?』


輝:『遠慮する』


お寺の空気、僧侶たちの規律、形式ばった空間、思い出すだけで贅沢だが、輝は素直になれなかった。


剛仁は一瞬、言葉を失う。

だが、すぐにぎゅっと手を握りしめて、もう一度顔を上げた。


剛仁:『……あのね、今日……、来る予定だった僧侶が二人、お休みなの』


輝:『休み?』


剛仁:『うん……風邪で来られなくて……それで、ご飯が余っちゃって……。だから……もしよかったら……食べてほしいなって……』


優樹がそっと輝の袖を引く。


優樹:『……お兄ちゃん』


輝は剛仁を見下ろし、少しだけ口元を緩めた。


輝:『……仕方ない。そこまで言うなら付き合おう』


剛仁の顔がぱっと明るくなった。


剛仁:『ありがとう!じゃあ、さっそくご案内するね』


くるりと振り返り、小さな足で先に立って歩き出した。


剛仁:『こっちだよ。今日は人、いっぱい来てるから気をつけてね』


境内の奥へ進むと、普段よりも明らかに人が多い。

他のお寺から来た僧侶たちが行き交い、低い声で挨拶を交わしている。


どこか張り詰めた空気を感じた。

それでも、漂ってくるカレーの香りだけが不思議と参るほどマイルドで柔らかく、それはとてもスマイルになった。


本堂裏手の渡り廊下を抜けると、また空気が変わった。


さっきまでの春の柔らかさは消え、畳の匂いと、低く抑えられた読経の余韻だけが残っている。


広間にはすでに僧侶たちが集まっていた。

他寺から来た者も多いのだろう、年齢も装束も様々だが、共通しているのは、一切隙がない。

私語もない。

視線は鋭く、決して無駄に動かない。


その中に、一人だけ異質な緊張を纏った男がいた。

荒木田義徳。

伊勢の金剛龍寺の副住職だ。

背筋は糸のように張り、目だけで場を制している。


剛仁は、そこで立ち止まった。

そして、わずかに声を張る。


剛仁:『お父さん、輝が勝手に中に入ってきました』


一瞬だった。

空気が、明確に変わった。

複数の視線が一斉に輝へ向く。

音はない。

だが、その視線だけで圧がかかった。


規律を破った者というような悪魔でも見るような嫌な目。

優樹の指先がぴくりと動いた。


優樹:『…………』


優樹は歯を食いしばった。


優樹:『……この感じ……なんか懐かしい……』


怒りとも、嫌悪ともつかない感情が滲み、思わず声に出た。

剛仁は鋭い目つきで優樹を睨んでいた。

義徳は、無言で見つめていた。


だが、その中で輝は、一切反応を変えなかった。

視線を受けても、肩は揺れず、呼吸に乱れもない。

まるで、最初からこの場に属しているかのように、静かにその空気に溶け込んでいる。


義徳は、ただ剛仁から目を離さなかった。


沈黙が続いた。

普通なら、ここで弁明か謝罪が入る。

そうでなければ、場はさらに硬直する。


だが、輝は剛仁にデタラメを言われても冷静であった。


輝:『あのー』


場違いなほど軽い声が落ち、僧侶たちの眉が仁王像のように動いた。


輝:『カレー、まだかいな?』


笑顔だった。

沈黙。

一拍。

空気が、はっきりと歪む。


規律を乱した者。

空気を読まぬ者。

場を軽んじる者。


その役を、輝は自分から引き受けた。


視線の圧が強まっている。

今、向けられているのは全て輝だけ。


剛仁から、完全に逸れた。

優樹は息を呑む。


(わざとだ……)


それに氣づいた瞬間、胸の奥が熱くなる。


輝は、何も語らず、ただ、笑っている。

場の全ての悪意と視線を、受け止めたまま笑っている。


沈黙が落ち続けている。


誰も動かず、誰も口を開かない。

その中で、義徳がゆっくりと口を開いた。


義徳:『あなたが輝さんですか……』


輝:『ああ、輝だ。カレーの良いにおいがプゥーンとしたので食べに来たのだ。おーい、カレーはまだかー?』


義徳の目が、わずかに細くなる。


義徳:『ここが、どういう場か分かって来てますか?』


輝:『食事をいただく場だ』


義徳は剛仁を見つめた。


義徳:『……………………………』


剛仁:『…………』


義徳:『……………。本日、欠席した二人分の僧侶のカレーが無駄にならずに済んで良かったですね…、剛仁さん』


剛仁:『…………!!!!!!!』


義徳は剛仁を見つめていた。

その目は嘘を見破る鋭い眼であった。

剛仁は震えを止めるように手を抑えた。


輝:『まぁまぁまぁ、そんな怖い顔しないで皆で仲良くカレー食べましょうや。カレーはかれぇーぜ。なんちゃって』


僧侶たちの空気が凍り付く中で、豪快にダジャレを言う輝。

寒いというレベルのものではなく、誰も動きもしなかった。


張り詰めた空気が残ったまま、次々とカレーが運ばれてきた。

器が置かれるたび、乾いた音が静かに響く。

やがて、僧たちが一斉に合掌する。

低く揃った声が響き渡っている。

輝と優樹もお経を唱えていた。


全員が同時に一拍のズレもなく匙を取り、カレーを口に運んだ。

周りの流れを崩さず、合わせすぎる事もない。


食事の音は無く、器も箸も丁寧に扱っている。


沈黙の中、食事は続いた。


器と匙の触れ合う音すらも聞こえなかった。


優樹も静かに食べていた。

さっきまでの怒りは消え、目の前にある食事がいつもよりもありがたいと思う事ができる静かな時間だった。


ただ黙って、最後まで丁寧に静かに食べた。

今まで氣づかなかった外の音、芋やにんじん・お米の食感や奥深くに眠る淡い甘味、カレーの香り、全てが感謝の魂だった。


やがて、誰からともなく手が止まる。

最後の一口まで、誰一人として崩さなかった。


静かに匙が置かれる。

そして、全員が同時に手を合わせる。

低く、揃った声が一斉に響き、食事が終わった。


だが、張り詰めた空気は解けないまま残っている。


その中で、輝がふっと息を抜いた。

そして、何事もなかったかのように口を開く。


輝:『この後、何するの?』


場にそぐわないほど自然な声である。

僧侶たちの視線が、再び輝へ向く。


その中で、最蔵がゆっくりと顔を上げた。


最蔵:『花まつりに、特別にご招待いたします』


静かだが、はっきりとした声であった。


最蔵:『一緒に読経いたしましょう』


一瞬、空気が揺れた。

外の者を読経に入れる。

それは本来、簡単に許される事ではない。


だが、誰も異を唱えなかった。


義徳は何も言わず、ただ静かに目を閉じた。


最蔵:『では、参りましょう』


その一言で、全員が同時に立ち上がる。

衣擦れの音が、わずかに重なる。


誰も乱れず、遅れもない。

流れるように、列ができた。


輝と優樹も、その中に自然と組み込まれる。

まるで最初からそこにいたかのように。

廊下を進む足音は、ほとんどしなかった。

ただ、僧衣が揺れる気配だけが静かに続く。


やがて、本堂へと続く扉の前に辿り着いた。


外の光が、わずかに差し込んでいる。

その先にあるのは、更に厳かな場。

誰も言葉を発さないまま、扉が開かれた。

そして一斉に、中へと入っていった。


中は外とは別の空気だった。


薄暗く、線香の匂いが満ちている。

光はわずかに差し込み、仏前だけを静かに照らしていた。


僧たちは無言のまま、それぞれの位置に座った。

輝と優樹も、その流れに従って座り、読経が始まった。


低く、重く、揺るぎない声だ。

幾重にも重なり、本堂全体を満たしていく。


響きは一定で、乱れない。

呼吸すら揃っている。

厳しい修行の積み重ねが、そのまま音になっていた。


優樹は、既にその中に入っていた。


背筋は伸び、視線は落ち着いている。

無理に合わせている様子もない。

自然に、声を重ねている。

音を追うのではない。

流れを読むのでもない。


軽口を叩き、空気を歪めた輝も一切の乱れもなく、読経に溶け込んでいた。


声は強すぎず、弱すぎず、周囲を乱さず、埋もれない。

調和しているのに、芯がある。

その在り方だった。


時間の感覚が、薄れていく。


音だけが残る。

呼吸だけが残る。


やがて、全員が同時にぴたりと声を止めた。

完全な静寂である。

余韻だけが、本堂に残る。


ここで最蔵が二人の方へ視線を向けた。


最蔵:『いかがでしたか』


優樹は、少しだけ息を整えてから顔を上げた。


優樹:『実は、僕たち、仲が良かったんですが、家庭でいろいろあって、ずっと口を聞いてなくて……、仲が悪いとか兄弟喧嘩したっていうレベルじゃないくらい壊れた関係で、それで、今日、仲が戻ったばかりなんです。それで、今日、お兄ちゃんが僕の誕生日だから何でも願いを叶えるって言ってくれて、それで、お兄ちゃんに剛徳寺の秘仏が見たいって言って、僕のお願いを聞いて連れてきてくれたんです。お兄ちゃんと一緒にここに来て良かったです。カレーも、ゆっくり食べて、あんなに食事が大切でありがたい時間なんだなって思う事ができて、秘仏どころか花まつりで読経体験もできて、色んな事に気付かされた貴重な時間でした。今日という日を一生、忘れません。最高で貴重な誕生日でした。ありがとうございました』


そう言って、小さく笑った。

最蔵は静かに頷く。


そして、輝へ視線を移した。


輝:『私は弟が大好きだから、仲直りができて良かったと思っている。友達よりも仲が良かったから、初めて、おはようって言って何も返ってこなかった時、ショックというか…、なんか、嫌な気持ちが……、あって、どんどん自分の意見を塞ぐようになって、家族と向き合えなくなってしまって、どうしていいか分からないのが、ずっと続いてて……。みんな知ってるかもしれないけど、周りの事を考えずに友達と家出したのだけど、実は親の問題が…もっと裏で……色々あって…、弟はお父さまと血が繋がってなくて………お母さまは離婚して再婚するとかで………………それ、全く知らなくて…私だけが何も知らなくて……………私だけ何も見えてなくて……弟は……ずっとずっと一人で抱えてて…………、…ごめんなさい………。ごめんなさい……。……』


輝は涙を堪えて一度目を閉じた。

僧侶たちは、輝の言葉を静かに待っていた。


輝:『私は、ここに来て、もっと弟を大切にしたいなって思いました。あと、剛仁、お前も私にとって妹みたいな大切な存在だから、辛いとき辛いと言っていい。人も自分も傷つけてはいけない。それは守って。約束だ。僧侶のみなさん、本日はありがとうございました。もしよろしければなのですが、将来、剛徳寺のお土産売り場で、バイトさせて下さい』


その刹那、輝は静寂なお寺の本堂の中心で60人の僧侶の前で豪快に大きすぎる音の屁をした。

ビョォォォォォォォォォォォ!!!!!!!!!!!!!

静まり返った本堂に、場違いなほど大きな音が響いた。

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