睡蓮ー大祓 前編ー
バスが遊園地の駐車場にゆっくりと滑り込み、エアブレーキの音を響かせながら停車した。
ドアが開くと、生徒たちは待ちきれない様子で次々と降りてくる。
遠くから聞こえるジェットコースターの歓声に目を輝かせ、友達同士で話しながら入口へ向かっていった。
バスを降りた剛仁は無表情で空を見上げた。
晴れ渡る青空の下で遊園地は楽しげに輝いている。
しかし、その光景とは裏腹に自分の胸には重い不安が渦巻いていた。
まるで何者かがこちらを見つめているような、得体の知れない気配を感じたのだ。
先生は生徒たちを見回しながら説明した。
『はい、えー、それでは、えーっと、各班ごとに行動することー。えー、それから、えー、昼食は正午に中央広場へ集合することー。遅れないようにー』
生徒たちは元気よく返事をすると、それぞれの班に分かれて遊園地へ散っていった。
剛仁たちの班は、まず午前中にのんびり楽しめそうなアトラクションへ向かうことになった。
メンバーは剛仁、瀬織、竜太、大和の四人。
ほとんどが幼稚園時代からの仲間だったが、瀬織だけは伊勢から東京へ引っ越してきたばかりで、同じ幼稚園の友達がいなかった。
そこで剛仁が瀬織に声をかけ、遠足の班に誘ったのである。
さらに、竜太と大和も剛仁に誘われて班に加わり、こうして四人の班ができあがった。
竜太:『最初はこれにしよう!』
竜太が指差した先には、巨大ナメクジライドと書かれた看板が立っていた。
剛仁:『なんか、ゲームの中に入っちゃったみたいな感覚がする』
竜太:『竜太・大和・剛仁・瀬織は巨大ナメクジの前に立った。進みますか?やめときますか?』
大和:『やめときます』
瀬織:『ヤメル選択肢ハ、アリマセン』
大和:『えぇーーーっ!!!』
竜太は、どのナメクジにするか水晶を見つめながら選んでいた。
剛仁はナメクジの前で合掌し、一切衆生悉有仏性と言葉にしており、乗る様子はなかった。
剛仁:『ナメクジちゃんも仏さまになれるんだよ』
大和と瀬織は二人を見つめながら、立ち尽くしていた。
瀬織:『逆さまになっても落ちないんだって』
大和:『どうなってるの?』
瀬織:『穢れを吸い取りながら進む神聖なナメクジよ。心のわだかまりを祓ったり、嫉妬や怒りを浄化したり、嫌な記憶を流すなどの様々な力があって、この遊園地は特別な神様の力でできてるの』
大和:『神様の…力…????』
瀬織:『全てのアトラクションには神様が宿っていてね、とても力が強いから乱暴に扱うと何倍もの力で跳ね返ってくるの』
大和:『乗ってもいいの?』
瀬織:『うん、礼儀正しく接すると好かれるし、実はそれぞれにご利益があるアトラクションなのよ』
大和:『遊園地、そんなに楽しみじゃなかったけど、なんか、それを聞いて来てよかったと思ったよ。全然知らなかった』
瀬織:『見て、蛞蝓巴のスタンプがあるよ。これも各アトラクションにある家紋スタンプだから捜してみるといいよ。コンプリートすると八百万の神様から素敵な豪華プレゼントがあるの』
大和:『スタンプ全部集めたい!全部の神様にご挨拶したいなぁ!一日でコンプできるかなぁ』
瀬織:『大和くんならできるよ』
大和:『ありがとう、瀬織ちゃん。やってみるよ。これ、剛仁たちにも教えよう』
瀬織:『神様の事を忘れる人が多くなってる』
大和:『……え?』
瀬織:『この事は秘密にしてほしいの』
大和:『……?』
瀬織:『特別な者のみ導く事を許す神聖な領域だから。……お願い』
大和:『…う…うん、………わかった』
剛仁と竜太は、どのナメクジにするか夢中で話し合っていた為、瀬織と大和の秘密のやりとりは聞こえていなかった。
大和は、こっそりとスタンプを押し、瀬織と一緒に竜太と剛仁が居る場所へ戻った。
瀬織:『スタンプはアトラクションの後に押してね』
大和:『は、はいっ!』
アトラクションの広場では、巨大なナメクジが何十匹もうごめいている。
体長は三メートルほどあり、ぬらぬらとした体表が不気味な光を放っていた。
触角も本物そっくりで、時々ぶるぶると震えているが、勿論、生きている本物の巨大ナメクジである。
人間には無害だが、ナメクジが拗ねると人間を拒否して置いていく場合もある為、怒らせすぎには要注意。
竜太:『きた!ナメクジ来たよ!大きい!』
剛仁:『大吉だったらいいね』
竜太:『……どういうこと?』
瀬織:『くじびきじゃなくて、ナメクジだよ』
剛仁:『ナメクジに乗ったら、最後にくじが引けるのかと思っちゃった』
竜太:『なるほど!さっむ~』
大和:『剛仁ったら……、もう……』
瀬織:『ぷふっ(笑)』
剛仁は恥ずかしそうに笑顔で頭をかいていた。
その後、入口の係員が笑顔で案内した。
『こちらのアトラクションは全身で風を感じる為、上着や靴などを脱いでご乗車ください』
大和:『あの……、これって………生きてるんですか?』
『勿論、生きてます』
剛仁:『勿論なんだ…』
『はい、怒らせると嚙みつきます』
大和:『ひぃーっ!』
大和は挨拶をしてから合掌し、恐る恐る巨大ナメクジの背中へ乗り込んだ。
ナメクジが穢れを吸い取るのを体の内側から伝わってきた。
大和:『動き始めた!すごい、動いてる!』
ナメクジは大和を乗せて壁によじ登っていった。
瀬織:『かわいいね』
剛仁:『うん、つぶらな目をしているね。なめくじちゃん、よろしくね』
瀬織と剛仁はナメクジをなでなでしていた。
すると、ナメクジは瀬織と剛仁を一緒に背に乗せ、喜んで回転した。
奇跡の二人乗りである。
竜太:『なんで落ちないの?不思議!』
竜太のナメクジも建物の壁に登っていったが、落ちる心配はない。
大和のナメクジは天井をゆっくりと旅しており、落ち着いた表情で風に乗るようにナメクジライフを満喫していた。
巨大ナメクジライドから降りると、大和は胸に手を当てた。
大和:『あれ……?』
竜太:『どうしたの?』
大和:『なんか、少しだけ身体が軽くなった氣がする』
瀬織:『ちゃんとご利益があったんだね』
大和は神様やご利益を素直に信じているので、四人の中では最もナメクジの力を受けていた。
その直後、ナメクジが竜太の前に戻ってきた。
瀬織は妙な事を言い出した。
瀬織:『竜ちゃんから神器の匂いがする』
大和:『えっ?えっ?神器の匂い???』
竜太:『さっきナメクジ触ったからじゃない?』
瀬織:『神宝に触れた痕跡があるね』
竜太:『何かと間違えてるんじゃない?』
竜太はナメクジの頭を撫でた。
その落ち着いた表情からは、何を考えているのか全く読み取れない。
大人でも、ここまで平然としていると氣づかないが、瀬織はすでに勘付いていた。
表情が変わらず、冷静である。
だが、それが妙である。
神器という言葉を聞いた子どもの反応には見えなかったからだ。
さらにもう一人。
剛仁は、当事者であるはずだった。
しかし何も言わず、ただ静かにその場に立っている。
感情の起伏はなく、まるで全てを知っているかのような無の沈黙。
瀬織は、そこに引っかかりを覚えた。
瀬織:(剛仁くんは知らないんじゃない。言わないだけだわ)
竜太だけではない。
剛仁も何かを隠している可能性がある。
瀬織は核心に近づきつつあったが、まだ確かな証拠はない。
大和は三人の会話を見つめたまま、そっとナメクジの背中を撫でた。
大和:(よく分からないけど今は邪魔しない方がいいのかな)
そして、瀬織は遊園地の地図を広げて次のアトラクションを提案した。
巨大な鳥居の向こうから、水しぶきが空高く舞い上がっており、看板には大きく“瀬織津急流下り”と書かれている。
大和:『瀬織ちゃんと同じ名前だ』
剛仁:『罪や穢れを川へ流してくださる神様だね。はやかわのせにます せおりつひめといふかみ おおうなばらにもちいでなむ。大祓詞の中にも出てくるよ』
竜太:『六甲山に神社があるけど行ったことある?』
剛仁:『インドの仙人を学んでた時に何度かお寺から神社へ歩いてまわったよ。うさぎ型の磐座や心経岩がある場所だね。仰臥岩を見た時は鳥肌が立つほどパワーを感じたよ』
竜太:『まさか登山口から歩いてきたの?』
剛仁:『うん、歴史を肌で感じたいから殆どの山の中にあるお寺や神社はハイテクな乗り物を使わずに歩いてるよ』
大和:『いいなぁ、行ってみたいなぁ』
剛仁:『先ずは伊勢に行ってお詣りするといいよ。恋人と行くのはお勧めしないけど』
その言葉を聞いた瞬間、瀬織は一瞬だけ言葉を失った。
瀬織は視線を伏せた。
その刹那、片目から涙が落ちた。
一滴、また一滴と、静かに頬を伝っていく。
声を出さないまま、暫くそのまま立っていた。
瀬織は袖で目元を拭い、ゆっくりと顔を上げ、柔らかい表情でほほ笑んだ。
瀬織:『知ってる人がいてくれた事が、すごく嬉しい』
瀬織の涙は、ちゃんと受け継がれていた事への喜びと、身近に自分の存在を正しく語られた事が嬉しいと感じて湧き出たものであった。
そして、四人は乗り場へ向かった。
そこには白木で作られた舟が並んでいる。
係員が説明を始めた。
『瀬織津急流下りへようこそ。皆さまがお持ちの穢れは、責任を持って下流へお流しいたします』
大和:『お願い致します』
舟が出発すると、穏やかな川をゆっくり進み始めた。
しかしその直後、ゴォォォォォォォッ!!!と強烈な音と共に目の前に巨大な激流が現れた。
竜太:『うわっ!』
大和:『うわああああああ!!』
剛仁:『摩訶般若波羅密多心経〜』
舟は白波を蹴散らしながら急流へ突っ込んでいった。
その瞬間、大和は奇妙な光景を見た。
白い霧のようなものが、自分たちの身体から抜け出し、川へ溶けていく。
大和:『今……何か流れていった……』
剛仁:『瀬織津姫がお祓いしているのが見えた』
川面では、白い霧が光の粒へ変わり、静かに消えていった。
その直後、竜太だけが見えたものがあった。
それが空の彼方、蒼穹と雲の狭間を縫うように、一筋の白き影がゆるやかに身をくねらせる白い龍だった。
雪よりも白く、月光よりも淡い輝きをまとった神聖なる白龍である。
その姿は確かにそこにあるはずなのに、見ようとすれば霞となり、意識を向ければ風に溶ける。
まるでこの世とあの世の境界を泳ぐ幻のようであった。
竜太の胸の奥で、何かが微かに震えた。
遠い記憶に隠された言葉にならない感触。
ここでは誰にも打ち明けてはならない禁断の凶器たち。
掌に伝わった静かな重み。
強烈な人の呪いのような声。
自分が自分ではなくなった忘れもしない日。
それは現実世界に居た時の記憶であった。
それらが眠りから目覚めるように、竜太の内側で静かに脈打った。
白龍は何も語らないが、ただ遥か高みから竜太を見つめていた。
そして竜太も言葉を持たず、その視線を静かに受け止めていた。
そして、風が吹き、白龍の姿は陽光の中へ溶けるように消えた。
しかし胸の奥に残った感覚だけは消えない。
それは剣が呼んだのか。
あるいは龍が呼んだのか。
まだ何も知らなかった。
すると、瀬織は静かにこう言った。
瀬織:『罪は水に流れ、穢れは風に還る。私は皆が穏やかな日々を歩めるよう、永く見守り続けよう』
竜太は心の中で“そんな事を言えるのは僕の事を知らないからだ。もし、知ったら同じ事など言わない。僕は見守られるようなニンゲンではない。自分は居ても居なくても同じ存在。人の前に立つ事を許されないんだ。本を出してもホームページを立ち上げても透明化される存在なのだ。人に知られてはいけない存在なのだ。それでも僕も瀬織ちゃんの皆の中に入っているのか?”と密かに疑問が芽生えていた。
竜太:『自分の罪を知った上でも見守るのか。知らないから言えるのか』
瀬織:『罪そのものと罪を背負って生きる人は別の問題だけど、それでも苦しむ人間を見放すような事はできないよ』
竜太:『僕は人が見ていて気持ちのいい存在じゃないから』
すると、剛仁が静かに竜太を見つめ、こう言った。
剛仁:『……私も事件の背景にある困窮した人間の事情と、何かを失った人間の悲しみの双方に心を寄せて平安を祈る』
竜太は剛仁の身体から現実世界で残した戻れない本が埋まっているのが透けて見えた。
現実世界では剛仁は竜太の本を買っているとしたら剛仁には自分と同じような苦しみを味わわず、誰かを傷つけずに生きて笑っていてほしいと願うばかりである。
ただ、瀬織と剛仁の言葉が胸の奥へ静かに沈んでいく。
今まで自分が透明である事を望みながら生きていた筈だった。
しかし、それは誰にも見られない苦しさでもあった。
透明にしなかった。
二人は罪を見たのではなく、罪を背負っている人間を見ている。
竜太は、その違いを本能的に感じ取り、その事実だけが妙に胸に残った。
この時、大和は瀬織が竜太を外見や行動だけで判断しているのではなく、その奥にある苦しみに静かに目を向けている事を感じ取っていた。
そして同時に、同時に自分を見つけた人間が初めて現れたという小さな亀裂が竜太の心の殻に入るような氣がした。
ただ、長い間閉ざされていた心の扉に小さな光が照らしているような、そんな不思議な感覚だけが胸に残っていた。




