睡蓮ー両忘編ー
緊急搬送された輝は血管迷走神経反射性失神と診断され、2日間の入院を余儀なくされた。
幸い命をとりとめたが輝は頭を9針縫い、事故後の軽い脳震盪によりベッドで寝ている。
事故が起きてから輝は一度も目覚めていない。
逆方向に曲がった指も治療すれば治るようだ。
亨と翔の検査結果は亨は無傷、翔は奇跡的にかすり傷で助かった。
しかし心には大きな傷跡が残ってしまった。
輝の病室は翔と亨が取り残されるように輝が目覚める迄待ち続けていた。
この時、事故が事件としてニュースで取り上げられている事を知り、更に精神的にダメージを受けた。
粛然とした空気に包まれている。
翔:『………』
亨:『………』
重い沈黙が続いている。
翔は事故の件について一切触れなかった。
事故の原因を知った亨の父が怒るなら、2度も怒られる必要はないと耐えていた。
あの時のショックは二人にとって大きなトラウマになっている。
事故寸前の光景がフラッシュバックして止まず、輝が生きている事に二人は安心した。
病室のドアをノックする音が聞こえ、亨と翔が振り返ると亨の父が現れた。
翔と父は輝を起こさないように互いに無言で会釈をした。
そして亨の父は険悪な表情でつかつかと亨の方へ駆け寄り、亨の髪の毛を掴んだ。
父:『こっち来い』
怒りをむき出しにした父を見た翔は止めようとしたが、亨の為だと心を鬼にして歯を食い縛って自分の手を止めた。
しかし抵抗する亨の腹部を足でキックしたり、グーで頬を殴るなど乱暴な扱いに翔は恐怖で震え、動けなくなっていた。
毎日こんな事が当たり前のように起きていると思うと翔は亨の父を見てゾッとした。
明らかにやりすぎだ。
しかし、ここで下手な事を言ったら亨が危険な目に遭いかねない。
翔は拳を握って口出ししないように我慢した。
父:『周りを見ないからこんな事になるんだ!!!このバカたれが!!!何回注意すれば分かるんだ!!!』
亨:『痛っ…痛い…痛ぁぁぁぁい!!!』
翔:『…………』
父は容赦なく亨の髪を引っ張り、激しく揺さぶりながら怒鳴った。
顔を何度も叩く音が響き渡る度に翔の精神を破壊した。
そして亨の悲鳴で輝が目覚めた。
ぼんやりして夢の中に居るような感覚になっていた為、少し状況が理解できなかった。
亨が父に何度も打たれて泣いているのがぼやけて見えた。
輝はフラフラと起き上がり、亨の前に立った。
父の手がぴたりと止まり、病室が一瞬で静まった。
翔:『輝!起きたのか!あの後、倒れて今、病院で、頭治療完了したんだ。安静にしてれば治るって』
輝:『ああ……、蟻は無事か?亨と翔は大丈夫か?』
亨:『うん、みんな無事だよ。ごめん、道路の真ん中で蟻を観察したばかりにこんな事になっちゃって…』
父:『よかった………』
輝:『………………。すごい音と悲鳴が聞こえたのだが……』
亨は輝が目を覚ました事に安心して輝の腕の中で暫く泣いた。
目の前には鬼のような顔をした亨の父親が立っている。
輝:『どんな理由があっても人に乱暴にぶつのはよくないぞ』
輝は冷静な声で亨の父にそう言った。
父:『躾だよ』
それは恐ろしい表情である。
輝は怒りに震え上がったが、なるべく冷静に対応した。
輝:『ぶって蹴って叩く。それは虐待というのだ』
翔は無言で輝の腕を引き、頭を横に振った。
自分が介入していい場所ではないと、冷たい病室で肌で感じ取り、輝は暫く考え込んだ。
しかし、亨は父に強引に病室から引きずり出そうとしても輝にしがみついて病室から出ようとはしなかった。
亨が抵抗する度に父の口調が強くなり、手をあげる力も強くなっていった。
輝は翔に止められながらも亨の目の前に立ち、体罰を阻止するように両手を横に広げた。
亨の父が殺気立つ顔で輝に接近し、輝に平手打ちをした。
力強い打撃音が翔と亨の耳に響き、衝撃を受けた。
翔は精神が破壊して立っていられなくなった。
父:『他人の教育に口を出すな。私もこうして育てられたんだ。だから、亨にも愛情を持って厳しく育てているんだ』
輝:『その様子だと自分が虐待している自覚がないようだな。受け継がれた痛みは、受け継がなくてもいいのだ。人に怒る時、自分がどんな風に怒ってるか他人から言われるまで自分では分からないものだ。動画を撮るから自分で確認するがいい。何かおかしいと気付くかもしれん』
そう言ってカメラを向ける輝。
冷や冷やして父の目に怯える翔。
輝に助けを求める亨。
それでも父は変わる事はなかった。
父:『こんなの普通だ。冷静に怒って相手が判るなら最初からそうしている。今回は手が出ても仕方ない。亨の不注意で君達は死にそうになったんだ。輝くんだって亨にお弁当を落とされた時、平手打ちをしたそうじゃないか。あれ以上の事が起きたんだ。殴られてもおかしくない事が起きたんだ』
輝:『私は必要以上にぶつなと言ってるのだ。何度言っても言う事を聞かないから何度もぶち、亨を叱る度に力が強くなっていく。私にはそう見えたぞ』
翔:『輝、お父さんの言う通りだよ。叩くとかぶつとかそういう問題じゃねぇよ。事故で死んだら叩かれて済む問題じゃねぇってことよ』
輝:『それは重々判っている。しかし、度が過ぎている。注意をするまではいいが、暴力を正当化するのは違う。目の前で変な行動をしてるという自覚の無い大人を見過ごすわけにはいかん。子は親がやっている行動が正しいと思ったら外で同じ事をするのだぞ。それを黙って見ていられるわけがないだろ』
翔:『優しく怒って直るとでも思ってるのかよ。輝は亨に甘すぎなんだよ。厳しく叱るべきだ』
輝:『怒る事は否定しないが、何度もぶつなというアドバイスのどこが甘いというのだ?乱暴な叱り方で子供が言う事を聞くと勘違いしている大人に変な事をしていると私は言ってるのだ。大人が加減も考えずに子供をぶったら死ぬ可能性がある故、躾のつもりが体罰になってる事にも気付かないまま叱る事になるのだぞ。これは普通ではない。親の顔色を伺いながら生活するようになったら終わりだぞ。一度ついた傷は墓場まで持っていく。そういうものだ。亨は怒られるのが嫌なのではない、ぶたれるのが怖いのだ』
翔と輝は言い合いになり、止まらなかった。
お互い融通が利かず、頑固な者同士の喧嘩である。
翔は亨の父側の意見に賛同し、輝は亨を守っている。
どちらにも言い分があり、どちらも聞く耳を持たない。
輝:『自分に注意力を持つという約束をさせるだけでいい。亨はバカではないから、ちゃんと話をすれば判る。乱暴にしないでくれ』
父:『口出しするな。子供を心配して何が悪い!愛情がないわけではないんだ!これがうちのやり方なんだ。さぁ、亨、帰るぞ。お前は、お仕置きしないと駄目だ』
亨:『やだ……。輝、助けて!!!!!』
父:『来い!!!!』
輝は亨の父の両腕を両手で握り、亨に触れさせないように素早くガードした。
父のがっしりとした腕の筋肉にビビる輝。
しかし亨に助けを求められて怯むわけにもいかず、父を睨んだ。
輝:『挨拶もお礼も碌にできない奴が、こういう時だけ親面こくな。何が子供を心配してるだ?何が愛情だよ?怒りのあまり手が出ちまったーってか?ふざけるな!虐待だっつってんだろ。こんな鍛え上げた腕で子供に体罰を与えたら細胞がどれだけ死ぬことか。退院したら亨の身体チェックをするが、痣が1つでもあったら落とし前をつけに行くからな。その時は覚えとけ。もう一度亨を拉致してやる』
すると、亨の父は輝に平手打ちをした。
翔:『……………!!!』
亨:『……お父さん……』
輝:『…………………』
父:『これでも拉致するか?』
輝:『亨の身に何かあるより貴様にシバかれる方がずっとマシだ』
父:『その目つき。輝くんは、本当にあの男にそっくりだ……』
輝:『何の話してんだ貴様。今は躾の範囲を超えている話をしているのだ。抵抗する亨の腹部を足でキックしたり、グーで頬を殴る。この時点で児童虐待なのだよ。教育目的というより怒りのコントロールが失っている。今回の事故は亨の不注意ではある。が、しかし、強く叱る事と暴力を振るう事は別問題だぞ』
輝は父を睨みつけたが、翔に全力で押さえつけられてしまった。
翔:『今の内に帰ってください。輝は普段は人に優しいんで、今は熱くなっちゃってるだけっス…。悪い奴じゃないんで。な、亨…』
亨の父は問答無用で亨を輝から引き剝がして病室から出て行った。
輝は何もできなかった自分を責め、変えられない時計を追い続けるように病院から出る亨と父の後姿を病室から見届けた。
翔:『怒りを抑えろ。言いたい事は分かるけど下手に何か言ったら後で亨がお父さんに余計殴られる可能性があるから今は我慢しとこう。俺達のせいで変な空気になって家に居づらくなっちまったらやべぇから、ああいう時は黙っといた方がいい。今ここで戦う事が必ずしも亨を守る事にはならねぇから。それに親に同じように育てられたって言いきっちゃってるし、輝の言葉は全く届かないどころか、亨が八つ当たりを受けるかもしれない。亨は殴られなくても分かるよって言っても、それが通用するとは思えない』
輝:『それで翔は、ああ言ったのか……。じゃあ、私は余計な事を言ってしまったな…。この後、亨はいっぱい殴られちゃうのかな…。私の所為でいっぱい殴られちゃうのかな……私は熱くなりすぎたな……』
翔:『輝、お前は人の心配をしてる場合じゃねぇよ。激しすぎる感情は誰も良い方にはいかないから、そっと心にしまっておこう。今は一日でも早く復帰できるように傷を治そうぜ。後は俺が何とかしてやるからさ』
輝:『ありがとう。こんな事を言うのも変かもしれんが、私は生きてるか?トラックが急ブレーキかけて頭にぶつかってきた時にテレビが消える瞬間みたいにプツンって景色が消えたのだけ覚えていて、それしか思い出せなくて、自分が今本当に生きてるのか、まだよく分かってないんだ』
翔:『……輝は…生きてるよ。亨を救うって勢いで駆け出したけど、トラックが目の前に来た時は想像以上にヤベェって……正直怖かった。その後に輝は血を流して倒れるし、何回名前を呼んでも目を覚まさねぇし……これからって時にもしもの事があったらどうしようって…ずっと心配してたんだよ…。亨は沢山怒られなきゃいけねぇ。どんなに可愛くても叩くのを我慢して死んじまうかもしれねぇような事を繰り返されたらマジで死ぬんだよ。輝の言う通り度は過ぎてるよ。でも仕方ねぇんだよ。俺だって亨の頭にゲンコツしたかったけど、亨のお父さんに電話したらカンカンに怒ってたから俺まで手をあげたらダメだって思って我慢してたんだ。でも…輝が亨を庇ってよかったかもしれねぇ。あっちからもこっちからも責め立てられて誰も味方が居なくなっちまったら亨は孤独になって、また家出するかもしれないからよぉ……』
輝:『翔…………………』
翔は色んな感情が溢れ、輝の前で涙を流しながら話をした。
輝は、つられて泣きそうになるがぐっと力を入れながら耐え、翔の頭を撫でた。
翔:『うわ、やめろ!頭グシャグシャになる』
輝:『…………遠足、みんなで行く』
翔:『3人揃って遠足行こうな』
輝:『遠足は4人だぞ』
翔:『あ、3人じゃなくて4人だったっけか』
輝:『3人でもいいけどな』
翔:『3人でいっか』
輝:『お菓子忘れたりしてな』
翔:『お前リュック忘れんじゃね?』
輝:『翔は遠足忘れて寝てたりしてな』
翔:『忘れねぇよ!』
病室で冗談を言って笑い合う姿を翔の父と母がドア越しで聞いていた。
その後、翔の両親が輝の前に現れ、翔と輝の無事を確認して安心して涙を流して二人を抱きしめた。
母:『皆、無事でよかった』
父:『本当によかった』
翔:『うっ……うっ………』
輝:『私が翔を巻き込んでしまって、すみません…』
父:『いいんだよ、謝らなくていいんだよ。勇気を持って亨くんを助けに行ってくれてありがとう。皆生きていてくれて本当に嬉しいよ』
この時、輝は泣きそうになるがここでも耐え抜いた。
そして夕方が過ぎた頃、翔と両親は輝に挨拶をして帰った。
その後、優樹が道に迷いながら18時に病院へ到着した。
しかし、面会時間が過ぎている。
この病院は輝の母上が勤務しているが病棟が違う為、優樹は母上の仕事が終わるまで待つ事になってしまった。
たまたま外をぼーっと見ていた輝が優樹を見つけ、変装して病院から脱出しようと試みた。
一度でも気付かれたら怪しまれ、厳戒態勢をしかれるだろう。
輝は注意深く検討した。
病院で無理やり着せられた服装は変えられない。
家族が来ていないから着替えも無い。
低い背は調整できない。
包帯も目立つ。
条件が厳しい。
輝はタッセルで髪を束ね、カーテンを外して体に巻いてワンピースのように着こなした。
不自然だが、これが限界だ。
そして輝は少しでも怪しまれないように何食わぬ顔で堂々と歩いたが、すれ違った看護師に一発で露顕してしまった。
看護師の目がギラギラとしている。
輝は正直に看護師に話し、特別に病室に入れて貰う事ができた。
その裏で医院長と母上が動いていた。
漸く優樹が輝が居る病室へ入る事ができ、泣きながら輝に抱きついて離れなかった。
輝:『一人で来たのか?』
優樹は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、こくんと頷いた。
輝:『何故ここに居るのが分かったんだ?』
優樹:『病院から電話が来たよって白石さんに教えてもらって…でも……頭が真っ白になっててバスに乗ったら…お財布がどっかにいっちゃって……4時間歩いて…うっ…お店の人に道を聞きながら来た……』
輝:『ありがとう。よく頑張ったな。ごめんな、ピザ、一緒に食べれなくて……。退院したら行こうな』
輝は優樹をぎゅっと抱きしめた。
優樹が輝を心配して、たった一人で長時間歩いてきた事を知った輝は感極まり、大粒の涙が溢れて弟の前で初めて泣いた。
その様子を適温配膳車で食事を運ぶ看護士が見守り、涙ぐんでいた。
それに気付いた輝は看護師を入れて食事が乗ったトレイを受け取り、優樹にリンゴジュースをあげた。
始めは遠慮していたが、涙を拭いて受け取った。
その後、仕事を終えた母上が白衣のまま医院長と一緒に病室へ駈け込んだ。
優樹:『なんで僕より先に来てくれないの?』
輝:『こらこら…お母さまを困らせないでくれ』
母上:『ごめんね、輝は軽傷だって聞いたものだから輝なら大丈夫って信じてたのよ…すぐに行けなくてごめんね、輝』
母上が担当している相手は重症患者が多く、そこから離れる事ができない事を輝は知っていたが、言い訳を一切しない母上の前で拗ねて目を逸らしていた。
本当は嬉しい筈なのに素直に向き合えず、輝はもどかしさのあまり布団に包まって完全にログオフ状態になってしまった。
しかし母上がどんな輝にも優しい声で話しかけていく内に輝は布団から顔を出して母上を見つめた。
愛情を確かめるように。
最後に医院長から退院するまで一緒に頑張ろうと背中を押され、輝は完全復活したのである。
そして家族が帰ろうとすると、輝は名残惜しそうに見届けた。
本当は寂しさが爆発して優樹と母上に泊まっていかないかと甘えそうになるものの自分の性格上、素直に言う事もできず後姿を見る事しかできなかった。
病室から送迎車が見えなくなるまで目で追い、亨を心配しながらその日は歯を磨いて横になって考え事をした。
父だけが悪かったわけではない。
輝だけが正しかったわけでもない。
翔だけが現実的だったわけでもない。
亨だけが被害者だったわけでもない。
それでも、誰もが必死に生きている。
輝はその事を考えながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。




