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シャム猫は明日の夢を見ない。前編

今日は朝十時から、まりの家で庭仕事を手伝う約束だった。


先日の翼の件以来、まりは少し疲れているように見える。


本人は何も言わない。


いつも通りだと言うだろう。


けれど、あの人の「大丈夫」はあまり信用できない。


今日はまりさんの好きな紅茶を買っていこう。


少し良い蜂蜜も。


食べやすい果物もあった方がいいかもしれない。


人のために品物を選ぶのが、こんなに楽しいものだとは思わなかった。


果物売り場から紅茶売り場へ向かう。


その途中だった。


「ノクティス先輩」


振り返ると、大学の後輩の女の子たちが三人立っていた。


また、この三人か。


ノクティスは内心でため息をついた。


講義室でも図書館でも、気がつけば近くに座っている。


研究室にまで押しかけてきては、勉強そっちのけでおしゃべりを始める。


注意しても、少し静かになるのはその時だけだった。


おかげで最近は、研究室より自宅で勉強することの方が多い。


そもそも、名前で呼ぶことを許した覚えもない。


それなのに、まるで昔から親しい間柄であるかのように接してくる。


正直なところ、かなりうんざりしていた。


「今日一人ですか?」


「珍しいですね」


「買い物ですか?」


ノクティスは曖昧に笑う。


「これから用事があるから」


「少しくらいいいじゃないですか!」


一人が腕へ軽く触れる。


「お茶でもどうですか?」


「今日は無理です」


「えーっ! 彼女でも待たせてるんですか?」


三人の甲高い声が売り場に響く。


周囲の客たちが迷惑そうに振り返った。


けれど、三人はそんな視線など気にも留めない。


ノクティスは小さく息を吐いた。


「急いでいるから」


片手を軽く上げる。


「また大学で」


そう言ってその場を離れた。


背中から、まだ何か言っている声が聞こえてくる。


振り返る気にもならなかった。


周囲の客たちは、騒ぎ続ける三人に迷惑そうな顔を向けていたが、ようやく解放されたノクティスには、どこか同情的な視線を送っていた。


少し息をつく。


紅茶を選ぶ。


蜂蜜をかごへ入れる。


果物も選ぶ。


まりならどれが食べやすいだろう。


そんなことを考える。


買い物を終え、レジを済ませる。


袋を受け取り、出口へ向かおうとして。


ふと視線を上げた。


通路の向こう。


商品棚の前で、小柄な女性が首をかしげながら商品を選んでいた。


ノクティスは思わず足を止めた。


間違いなく、まりだった。


「まりさん?」


まりが振り向く。


「ティス」


カートの中には米や調味料、日用品が入っていた。


それに、瓶入りの牛乳が三本セット。


どれもそれなりに重そうだ。


これをまりが一人で運ぶつもりだったのだろうか。


「まりさんも買い物ですか」


「ティスも買い物ですか?」


「ええ。でも、まりさんがスーパーにいらっしゃるのは珍しいですね。いつも宅配でしたよね?」


まりは小さくうなずく。


「今は止めているんです」


「そうだったんですね」


ノクティスはカートへ手を伸ばした。


「僕が押しますね」


まりが少し戸惑ったように見る。


「大丈夫ですよ?」


「それじゃあ、荷物を運ぶのは僕に任せてください」


ノクティスは少しだけ笑う。


「お駄賃はホットケーキにしてください」


「生クリームが乗っているとうれしいです」


まりは少しだけ呆れたような顔をした。


そして。


小さくうなずく。


「……わかりました」


二人でレジへ向かう。


会計を済ませる。


袋へ荷物を詰める。


ノクティスは自然に重いものを持った。


米。


牛乳。


調味料。


まりは軽い袋を持つ。


駐車場へ出る。


梅雨の晴れ間、少し湿り気を含んだ風が吹いていた。


ノクティスはトランクを開ける。


荷物を積み込む。


その時だった。


少し離れた場所に、先ほどの三人の女子学生が立っていた。


ノクティスの後を、距離を置いてついてきていたのだ。


荷物を積み込んでいるノクティスからは見えない。


けれど、まりからはよく見えた。


三人はこちらを見ている。


そのうちの一人が、忌々しそうにつぶやいた。


「また、あの女……」


その声は、ノクティスにもまりにも届かなかった。


まりは三人の視線に気づいていた。


なんとなく嫌な感じだった。


好きなら勝手に告白でもすればいい。


なぜ私を睨むのだろう。


面倒くさい。


先日の翼の件。


それに加えて、今抱えている厄介な問題。


どう対処するべきか、まだ考えあぐねていた。


まりは三人にちらりと視線を向けた。


困った子たちですね。


心の中でため息をつく。


まりは車の鍵を指先で回す。


「ティス」


ノクティスが振り向く。


「疲れました」


「運転をお願いしてもいいですか?」


ノクティスは迷わなかった。


「もちろんです」


鍵を受け取ると、助手席へ回った。


ドアを開け、まりが乗り込むのを自然な仕草でエスコートする。


まりがシートに身体を預けたのを確認してから、静かにドアを閉めた。


その一部始終を、三人の女子学生が見ていた。


ノクティスは何も気づいていない。


ただ、いつも通りに振る舞っただけだった。


運転席へ乗り込む。


エンジンが静かにかかった。


車はゆっくりと駐車場を出る。


窓の外で三人の姿が小さくなっていく。


まりは一度だけ目を閉じた。


そして。


小さく息を吐く。


家までは、もうすぐだった。


車が家へ戻る。


ノクティスはトランクを開けた。


「持ちますね」


「お願いします」


二人で荷物を抱えて家の中へ入る。


ノクティスは買い物袋をキッチンへ運ぶ。


二人で洗面所へ向かった。


ノクティスが手を洗う。


その隣でまりも手を洗う。


水の音だけが静かに響いていた。


キッチンへ戻る。


二人で買い物袋を開ける。


米を米びつへ移す。


卵を冷蔵庫へ入れる。


調味料を棚へ戻す。


ノクティスは瓶入りの牛乳を三本取り出した。


「これが、あのおいしいミルクティーの素なんですね」


「そうかもしれません」


まりはそう答えながら、冷蔵庫の中に場所を空けた。


ノクティスは牛乳を一本ずつ並べていく。


瓶同士が小さく触れる音がした。


キッチンへ入ることを許されたのは最近だった。


最初はオープンテラスだけ。


土曜の十五時のお茶会。


ホットケーキ。


チェス。


スイングチェア。


少しずつ過ごす場所が増えていった。


今ではLDKにも入れる。


買い物袋は空になっていた。


窓の外では夏の風が庭を揺らしている。


庭仕事を始めるには、まだ少し時間があった。


まりは時計を見る。


「庭仕事は後にしましょうか?」


ノクティスも窓の外を見る。


「まりさんが決めてください」


「それなら、先にお茶にしましょう」


「ホットケーキですか?」


「約束ですから」


ノクティスは少し笑う。


「生クリーム付きですね」


「生クリームがお好きなら、実はいいものがあるんです」


まりは冷蔵庫を開けた。


取り出したのは、あらかじめ作っておいたバナナオムレットだった。


ふんわりと焼いた生地の間には、たっぷりの生クリームとバナナが挟まれている。


「わあ……!」


ノクティスが思わず声を上げる。


まりはチョコレートを湯煎にかけた。


ゆっくり溶けたチョコレートをスプーンですくい、オムレットの上へ細い糸を描くように垂らしていく。


柔らかそうな黄色いスポンジの上に、艶やかなチョコレートの線が重なった。


「これ、絶対おいしいやつですね!」


ノクティスは目を輝かせた。


まりは何も言わず、もう一つのオムレットにもチョコレートをかけていく。


まりがオムレットを皿に盛りつけていると、ノクティスが思い出したように声を上げた。


「そういえば、僕、フルーツを買ってきたんです」


買い物袋からイチゴのパックを取り出す。


「イチゴです。これも添えませんか?」


「いいですね」


ノクティスはイチゴを丁寧に洗い、キッチンペーパーで水気を拭き取った。


まりが用意していたブルーベリーと一緒に、オムレットの横へ飾っていく。


柔らかそうな黄色いスポンジの上に、チョコレートソースの細い線。


その横には、赤いイチゴと青紫のブルーベリー。


「できましたね」


ノクティスは満足そうに皿を眺めた。


二人でオムレットとアイスミルクティーをガーデンテーブルへ運ぶ。


梅雨の晴れ間、庭には柔らかな風が吹いていた。


グラスの氷が小さく音を立てる。


「お駄賃です」


まりが言う。


ノクティスは目の前のオムレットを見つめた。


「豪華ですね」


「生クリームは、中に入っていますからね」


まりは念を押すように言った。


ノクティスは思わず笑った。


その時だった。


庭の奥からチャッピーが歩いてくる。


先ほどまで庭の警備をしていたはずなのに。


どこか少し困ったような顔をしていた。


チャッピーはまりの前で立ち止まる。


「まり」


「どうしました?」


「茶色の毛玉が来ない」


ノクティスは顔を上げる。


「チャッピーのせい?」


「追いかけたから来なくなった?」


チャッピーは少しうつむいた。


まりはしばらく黙っていた。


庭を風が吹き抜ける。


「おうちに帰ったのかもしれないですね」


「帰ってしまった?」


「そういうこともあります」


チャッピーは少し考える。


「もう来ない?」


まりはすぐには答えなかった。


水滴がグラスを伝う。


「来なくなることもあります」


「来なくならないこともあります」


チャッピーはまりを見上げる。


「まり、寂しい?」


まりはほんの少しだけ目を伏せた。


それはほんの一瞬だった。


ノクティスはオムレットを切り分けていて気づかなかった。


まりは小さく首を振る。


「大丈夫です」


「チャッピーがいるから」


そして。


少しだけ視線を動かす。


ノクティスを見る。


「大きな犬もいます」


そう言って。


まりは優しい手つきでチャッピーの頭を撫でた。


チャッピーは少し安心したように目を細める。


ノクティスは少し照れたように笑った。


「犬なんですね」


「大型犬です」


「犬小屋は僕が作りましょうか?」


「考えておきます」


まりの表情はいつも通りだった。


静かで。


落ち着いていて。


何も変わらないように見えた。


けれど。


その時だけ。


ほんの少しだけ。


どこか遠くを見るような目をしていた。


ノクティスは、この時のまりの表情を見逃したことを後で後悔することとなる。

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