↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/47

幕間ーちょっと休憩ー

大学の廊下を歩いていると、一人の男性に声を掛けられた。


「失礼、アッシュフォード君で間違いないかな?」


振り向くと、四十歳くらいだろうか。


眼鏡を掛けたスーツ姿の男性だった。


穏やかな笑顔を浮かべているが、見覚えはない。


「そうですが、どちら様ですか?」


「僕は速水といいます。法律事務所の所長をしている者です」


その名前には聞き覚えがあった。


まりの亡き夫、大樹の後輩。


今は法律事務所の所長をしている人だ。


「速水さん……?」


「そう。実は僕、この大学で客員講師もしていてね。まあ、講義をするのは本当にたまになんだけど」


速水は穏やかに笑った。


「今日はちょうど大学に来る用事があってね。少しだけ時間をもらえるかな?」


二人は大学近くのカフェでコーヒーを買い、公園へ向かった。


「カフェは便利だけどね」


速水は笑う。


「話が筒抜けになるから」


二人はベンチへ腰を下ろした。


ノクティスは、隣に座った速水をちらりと見た。


亡くなった大樹の後輩で、現在の法律事務所の所長。


そんな人物が、わざわざ自分に会いに来た。


理由が思い当たらないわけではない。


「お話というのは、まりさんのことですか?」


「いや」


速水はあっさりと首を振った。


「一度、君に会ってみたかっただけだよ」


「……へ?」


思わず間の抜けた声が漏れる。


「はぁ、そうですか」


それしか返せなかった。


速水は何事もなかったようにコーヒーを一口飲んでいる。


ノクティスは少し困惑した。


この人は、本当に自分に会いたかっただけなのだろうか。


「チャッピーから、いろいろ連絡が来ていてね」


速水は何気ない調子で言った。


「僕とチャッピー、メール友達なんだ」


ノクティスは固まった。


……メール友達?


あの黄色い鳥と?


いや、待て。


チャッピーがメールを送れること自体は、別に不思議ではない。


問題はそこじゃない。


……だめだ。


これは突っ込んではいけないやつだ。


速水はそんなノクティスの困惑など気にも留めず、悠然とコーヒーを飲んでいる。


亡くなった親友の奥さんに近づく若い男。


自分が良く思われているとは考えていなかった。


それなのに、目の前の人物は妙に穏やかだった。


「卒業したら、日本で働く予定はある?」


唐突な質問だった。


「まだ決めていません」


「そうか。もし日本で働くことを考えるなら、うちの事務所へおいで」


速水は穏やかな口調で続けた。


「無理に誘うつもりはないよ。選択肢の一つに入れておいてくれれば十分だから」


「ありがとうございます」


ノクティスは素直に礼を言った。


改めて目の前の男性を見る。


仕立ての良いスーツは、派手さこそないが、身体によく馴染んでいる。


眼鏡の奥の目は優しく、話し方にも人を威圧するようなところがない。


誠実で、温厚な人物。


そんな印象を受ける。


けれど、どこか隙がない。


柔らかな物腰の奥に、簡単には底を見せない何かがある。


大樹の後を継いで法律事務所を任されている人物なのだ。


なるほど、とノクティスは思った。


法律事務所への誘い。


それが今日の目的だったのだろうか。


しかし、速水はそれ以上何も言わず、立ち上がった。


スーツの裾を軽く整える。


「じゃあ、また」


軽く手を振って歩き出す。


結局、何だったんだろう。


そう思って見送っていると、速水がふと足を止め、振り返った。


「あ、そうそう」


何かを思い出したような顔をする。


「七月七日は、まりさんの誕生日だから」


「え?」


不器用なウインクを一つ。


「一つ貸しね」


そう言って、今度こそ去っていった。


ノクティスはしばらく、その背中を見送っていた。


コーヒーを一口飲む。


悪くはない。


でも。


まりさんの淹れてくれるコーヒーが飲みたくなった。


その日、庭のフェンス越しにまりがきょとんとした顔をした。


「こんにちは」


いつものように挨拶をする。


けれど、まりはまるで知らない人を見るような顔でノクティスを見つめている。


「……まりさん?」


声を掛けると、まりははっとしたように目を瞬かせた。


「あっ、ティスだったんですね」


翼の一件以来、ノクティスはまりに「ティスと呼んでください」とお願いしていた。


それまでずっと「ノクティス」と呼ばれていたが、ようやく「ティス」と呼んでもらえるようになった。


ほんの少し、距離が縮まった気がしていた。


ところが。


「髪飾りがないから、どちら様かと思いました」


「え?」


ノクティスは思わず固まった。


今日は大学でラピスラズリの髪飾りの紐が切れてしまった。


外したまま来ただけだった。


まりは本当に困ったような顔をしている。


……これは、まりさん流の冗談だ。


きっとそうだ。


負けるな、ノクティス。


心の中で自分を励ます。


「どうぞ」


まりが門を開ける。


ようやく庭へ入ることができた。


「まり、お客さん?」


かわいらしい声が聞こえた。


チャッピーが部屋の中から顔を出す。


「新しいお友達?」


「お前もですか!」


思わず声が出た。


チャッピーは首をかしげる。


「……あ、その声はティスだね」


「髪飾りがないから誰かと思ったよ」


「僕の認識は髪飾りだけですか?」


「そんなことないよ」


「声でも分かるよ!」


……声でも?


つまり、顔では分からないということか。


ノクティスが何か言い返そうとした、その瞬間だった。


「猫だ!」


チャッピーが勢いよく飛び出していく。


「チャッピー、あんまり追いかけ回さないで」


「僕は教育的指導をしているだけ!」


そう言いながら器用に猫を裏庭へ追い込み、そのまま森の方へ追い出していった。


まりは少し困ったようにその後ろ姿を見送る。


「最近、ストレスがたまっているみたいで、猫ばかり追いかけるんです」


ノクティスは苦笑した。


いったい何のストレスなのだろう。


聞いてみたい気もしたが、やめておいた。


「今日はどうしたんですか?」


「借りていた本を返しに来ました」


そう言って本と焼き菓子の入った紙袋を差し出す。


「ありがとうございます」


「コーヒーを淹れますね」


本と紙袋を受け取りながら、まりはふと尋ねた。


「でも、本当に髪飾りはどうしたんですか?」


「大学で切れてしまって」


ノクティスはポケットから、ノートの切れ端に包んだラピスラズリを取り出した。


切れた紐と、青い石がテーブルへ並ぶ。


まりはそれを見つめ、何も言わず家の中へ入っていく。


しばらくして戻ってきた。


片手にはアイスコーヒー。


もう片方には二枚のハンカチを持っている。


テーブルへ腰を下ろすと、一粒ずつラピスラズリを包み始めた。


石同士がぶつからないように。


傷が付かないように。


指先はとても丁寧だった。


ノクティスは黙ってその様子を見つめている。


「傷が付くといけませんから」


まりはそう言って、二枚のハンカチで大切そうに包み終えた。


それは、特別なことをしているという様子ではなかった。


ただ、目の前にあるものを大切に扱っている。


それだけだった。


けれど、ノクティスには、その何気ない仕草がひどく愛おしく感じられた。


まるで宝物を扱うような、優しい手つきだった。


⸻


その日の夕方。


法律事務所では、一日の業務を終えた職員たちが、次々と帰り支度を始めていた。


「お先に失礼します」


「お疲れさまでした」


最後の職員が帰り、事務所には速水と佐藤だけが残っていた。


応接室では、速水がソファに深く腰を下ろし、ネクタイを少し緩めていた。


仕立ての良いスーツも、今は少しくつろいだ雰囲気になっている。


「所長、今日、彼に会ってきたんでしょう?」


佐藤が給湯室から顔を出した。


「詳しく聞きたいので、お茶を淹れますね」


「……君は本当に耳が早いね」


速水は苦笑した。


しばらくして、紅茶とアップルパイを載せたトレーを持って佐藤が戻ってきた。


「それで、どんな感じでした?」


佐藤は向かいのソファに腰を下ろした。


二十八歳。


弁護士としては優秀で、仕事ぶりも申し分ない。


ただ、少し丸い顔立ちに、くりっとしたどんぐり眼。そのせいか、実際の年齢よりも幼く見える。


今、その瞳は期待にきらきらと輝いていた。


女性というものは、どうしてこうも恋愛話が好きなのだろう。


ましてや、彼女が尊敬してやまないまりのことだ。


気になって仕方がないのだろう。


「まあ、その話はともかくとして」


速水は目の前の皿に視線を落とした。


「これ、今日まりさんからもらったアップルパイだよね?」


「そうですよ。とてもおいしいんです」


「何ホールもらったの?」


「二ホールですよ?」


「……二ホール?」


「一ホールは事務所のみんなといただきました」


「うん。それはいいんだけどね」


速水は自分の皿を見た。


八分の一に切り分けられたアップルパイ。


そして、佐藤の皿を見る。


残りの八分の七。


……いや。


皿というより、ほとんどホールのままだ。


「佐藤さん」


「はい?」


「僕、ここの所長だよね?」


「一応そうですね」


「一応って……」


佐藤は何事もなかったようにアップルパイを一口食べた。


「んー、おいしい!」


「いや、聞いてる?」


「聞いてますよ?」


「じゃあ、どうして僕の分が八分の一で、君の分が八分の七なのかな?」


佐藤は不思議そうに首をかしげた。


「だって、甘いものは私のものですから」


「……は?」


「だって佐藤ですもの。砂糖ですよ?」


にっこり。


速水は天井を仰いだ。


「……僕は今、君の名前の由来を初めて知った気がするよ」


「おいしいですよね、まりさんのアップルパイ」


「話をそらさないでくれる?」


「所長、冷めないうちにどうぞ」


「アップルパイはもともと冷めてるよ!」


佐藤は満足そうに二口目を頬張った。


速水は小さくため息をつき、自分の八分の一をフォークで切った。


……おいしい。


腹立たしいことに、実においしい。


「それで、所長」


「まだ聞くの?」


「もちろんです。ノクティスさん、どんな方でした?」


速水は紅茶を一口飲んだ。


「そうだね。なかなか面白い青年だったよ」


「面白い?」


「礼儀正しいし、頭も良さそうだ。何より、変に自分を飾ろうとしない」


「へえ……」


「まりさんのことも、ずいぶん気にかけているみたいだったね」


佐藤のフォークが止まった。


「それって!」


「まだ何も言ってないよ」


「でも、でも!」


速水は苦笑した。


「まあ、悪い青年じゃない。それは確かだね」


「そうですかぁ……」


佐藤は嬉しそうに頬を緩めた。


「そういえば、写真もあるよ」


速水はスマートフォンを取り出し、画面を佐藤へ向けた。


そこには、チャッピーから送られてきたノクティスの写真が映っていた。


「えっ!」


佐藤が身を乗り出した。


「ちょっと待ってください! 本当にイケメンじゃないですか!」


「そうだね。実物もなかなかだったよ」


「これ、チャッピーからですか?」


「うん」


「……ところで所長」


佐藤は画面を見つめたまま尋ねた。


「この写真、いくらしたんですか?」


「ちゅるちゅる二ケース」


「……二ケース?」


「うん。二ケース」


佐藤はしばらく黙っていた。


そして、ぽつりと言った。


「……チャッピー、商売上手ですね」


「まったくだね」


二人は顔を見合わせた。


その間にも、佐藤のフォークは休むことなく動いていた。


速水がふと皿を見る。


自分のアップルパイは、もうなくなっている。


佐藤の皿には、まだたっぷり残っていた。


「……佐藤さん」


「はい?」


「もう一切れ、もらえないかな?」


「えー?」


佐藤は露骨に嫌そうな顔をした。


速水は眼鏡の位置を軽く直した。


「もちろん、ただとは言わないよ」


「……と言いますと?」


「ノクティス君の話を、もう少し詳しくしてあげよう」


佐藤のフォークが止まった。


「詳しく?」


「そう。彼がまりさんの名前を出したときの反応とかね」


佐藤の目が輝いた。


「本当ですか!」


「交渉成立かな?」


「仕方ありませんね。もう一切れだけですよ?」


佐藤はナイフを手に取った。


慎重に。


実に慎重に。


アップルパイへ刃を入れる。


そして、小さな一切れを速水の皿へ載せた。


「はい、どうぞ」


「……ありがとう」


速水は皿を見つめた。


小さい。


いや、小さいなんてものではない。


フォークの先に、かろうじて載る程度だった。


「……佐藤さん」


「はい?」


「これ、一切れ?」


「はい。一切れです」


「……なるほど」


速水は眼鏡を押し上げた。


「確かに、切れ端の大きさについては条件をつけなかったね」


「そうですよ?」


佐藤はにっこり笑った。


「契約は契約ですから」


速水は小さなアップルパイを見つめた。


……一本取られた。


まさか、自分の部下に契約の盲点を突かれるとは。


しかも、アップルパイ一切れで。


「……君、本当に優秀な弁護士だよ」


「ありがとうございます、所長」


佐藤は満面の笑みで、残りのアップルパイを頬張った。


速水は、フォークの先に載せた小さな一切れを口へ運んだ。


……おいしい。


それが、何より悔しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。