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ゴールデンレトリバーは来年の夢を見るか?後編。

チャッピーが心配そうにこちらを見ていた。


「もうすぐまりが帰ってくるよ」


まだ少し寝ぼけたまま身体を起こす。


その時だった。


チャッピーの表情が急に真剣になる。


「近くに嫌なやつが来てる」


ノクティスは首を傾げた。


「嫌なやつ?」


「あいつが来ると、僕は部屋から出ちゃ駄目なの」


チャッピーの胸から短い電子音が鳴る。


ピピッ。


何かの警告が表示されたようだった。


「だからお願い。」


「まりのそばへ行ってあげて。」


「僕は部屋へ戻るね。」


そう言うと、小さな羽をぱたぱた動かしながら家の中へ戻っていった。


ある程度近付くと、そうするよう命令されているのだろう。


そんなことをぼんやり考えていると、門の向こうへ青い軽自動車がゆっくり入ってきた。


まりだった。


ノクティスはウッドデッキから庭へ降りる。


運転席のドアが開く。


黒いブリーフケースを手にしたまりが車から降りてきた。


顔色が少し悪い。


疲れているように見える。


「お帰りなさい。」


「ただいま。」


まりは短く返事をすると、小さく息をついた。


「まりさん、とりあえず座ってください。」


ノクティスはオープンテラスの椅子を引き、まりを座らせる。


「少しキッチンを借りますね。」


そう言うと家の中へ入り、梅シロップを取り出した。


氷を入れたグラスへ梅シロップを注ぎ、炭酸水を静かに満たす。


出来上がったグラスを持ってオープンテラスへ戻り、まりへ差し出した。


まりは少し驚いたような顔をした。


「ありがとうございます。」


グラスを受け取り、半分ほど一気に飲み干す。


冷たい炭酸が喉を通る。


ようやく一息ついたようだった。


「なんだか、ひどく疲れました。」


素直な言葉だった。


ノクティスは少し驚く。


まりはいつも「大丈夫です」と言って何事もなかったように振る舞う。


そんな彼女が疲れたと言った。


本当に疲れているのだろう。


そういえば。


さっきチャッピーが何か言っていた。


寝起きだったこともあり、よく意味が分からなかった。


――嫌なやつが来てる。


嫌なやつ?


そのことを聞こうとした、その時だった。


一台の車が家の前で止まる。


車から二十代前半ほどの青年が降りてきた。


明るい金色に染めた髪が目についた。


どこか背伸びをしたような服装だった。


「翼くん……」


まりは青ざめた顔で立ち上がった。


翼はノクティスを見るなり顔をしかめる。


「親父が亡くなって、まだ一年も経ってないのに、もう男を連れ込んでるのか!」


声を荒らげながら門を開け、敷地へ入ってくる。


「家へ入ってこないでください。」


まりは冷たい声で言った。


「ここは親父の家でもある!」


ノクティスは静かにまりの前へ立つ。


その背中へ、まりの指先がそっと触れた。


トン。


トン。


トン。


少し長く押し込むように三回。


そして、また短く。


トン。


トン。


トン。


そのリズムに覚えがあった。


――SOS。


そうだ。


まりは以前言っていた。


困ったことがあったら、手伝ってください。


助けてくださいではない。


何かを言ってほしいわけでもない。


ただ、隣にいてほしい。


それがまりの願いだった。


ノクティスは何も言わず、その場に立ち続けた。


まりは翼を真っすぐ見つめる。


「翼さん。はっきり言います。」


ノクティスは一歩横へ移動し、まりの隣に立った。


「私は、あなたのことが大嫌いです。」


翼は言葉を失った。


口をわずかに開いたまま、まりを見つめている。


ノクティスも思わず、彼女の横顔を見た。


こんなに美しい女性から、真正面で大嫌いだと言われたら。


それは相当こたえるだろう。


ほんの一瞬、翼が気の毒になった。


だが、もし。


自分がまりから同じ言葉を向けられたら。


――私は、あなたのことが大嫌いです。


そう想像しただけで、胸の奥がちくりと痛んだ。


彼女に嫌われる。


ただそれだけのことが、なぜこんなにも嫌なのだろう。


ノクティスは、その理由をまだうまく説明できなかった。


まりは静かに続けた。


「あなたと私は他人です。」


「そして、あなたと大樹も他人です。」


「養子縁組もありません。」


「血縁関係もありません。」


「だから他人です。」


「それでも俺は三年間親子だった!」


翼は必死に言い返した。


けれど、まりは表情を変えない。


「その三年間で、あなたとあなたのお母さんが彼に何をしたのか忘れたのですか。」


「裏切り、傷つけ、追い詰めました。」


「あの時、あなたは子どもだったかもしれません。」


「でも、中学生は人を殴れば痛いことくらい分かる年齢です。」


「『実の父親でもないくせに』そう言ったそうですね。」


翼は黙ってうつむいた。


染めた金髪が額にかかり、表情を隠す。


「本当の親でもない大樹が三年間あなたを育て、学費を払い、生活を支えました。」


「感謝するどころか傷つけた。」


「それがあなたです。」


「そして今になって、自分は息子だったと言い、遺産をよこせ、家をよこせと言う。」


「私の交友関係にまで口を出す。」


「あなたは何様なんですか。」


翼の肩が小さく落ちた。


静かな声だった。


怒鳴らない。


感情も見せない。


ただ事実だけを淡々と告げていく。


「もう一度言います。」


「私はあなたが大嫌いです。」


まりは椅子のそばに置いていた黒いブリーフケースを開いた。


中から一枚の書類を取り出す。


「今日、これを提出してきました。」


翼が顔を上げる。


「姻族関係終了届です。」


まりは書類を示した。


「あなたが大樹の息子だと言って私に関わるから、私は大樹の妻であることをやめました。」


翼は大きく目を見開いた。


「そこまでするのか……」


その声には、もう先ほどの勢いがなかった。


「そこまでしなければ、あなたは今もこうして大樹の家だと言って入ってきます。」


「ここは私の家です。」


「出て行ってください。」


「これ以上は警察を呼びます。」


まりは書類をブリーフケースに戻した。


そして、ノクティスへそっと寄り添った。


ノクティスは静かにまりの腰へ手を回す。


「行ってください。」


「これ以上は法的措置を取ります。」


「あなたに、まりさんへ口を出す権利はありません。」


翼は何も言わなかった。


一度だけノクティスを見た。


それから、まりへ視線を戻す。


けれど、彼女はもう何も言わなかった。


翼はうつむき、黙って車へ戻った。


ドアが閉まる。


エンジン音が遠ざかり、静寂が戻った。


その瞬間、まりの身体がふらりと傾く。


ノクティスはそっと支え、ガーデンスイングまで歩く。


まりをゆっくり座らせ、自分も隣へ腰を下ろした。


まりはそっとノクティスの肩へ頭を預ける。


「ありがとう。」


小さな声だった。


「お礼はホットケーキでお願いします。ポーチドエッグと生ハムをのせてくださいね。」


地下室で見た、あの立派な生ハムの原木。


ノクティスは密かに期待していた。


しばらく返事はなかった。


そして、まりは小さく笑った。


車を走らせながら、翼は何度も今日のことを思い返していた。


腹が立つ。


あの金髪の男にも、まりにも。


そう思おうとした。


けれど、胸の奥に残っているのは怒りよりも、情けなさだった。


まりを初めて見たのは、大樹の葬儀の日だった。


黒い喪服に身を包んだ彼女は、ひどく儚げに見えた。


それなのに、背筋を伸ばして立つ姿には、凛とした美しさがあった。


綺麗だと思った。


それが、始まりだった。


父が亡くなったばかりの女に、何を考えているのだろう。


そんなことは、自分でもわかっていた。


それでも、もう一度会いたかった。


金を要求した。


家をよこせとも言った。


そうすれば、まりは自分に会わざるを得ない。


一人で暮らしているのだから、何度も通えば、そのうち何とかなるかもしれない。


そんな身勝手な考えもあった。


けれど今日、まりは言った。


――私はあなたが大嫌いです。


しかも、二度も。


翼は唇を噛んだ。


あんなにはっきり拒絶されるとは思わなかった。


そして、あの男。


自分より背が高く、落ち着いていて、まりの隣に立っていた。


まりは、あの男に寄り添っていた。


それが何よりこたえた。


信号が赤に変わる。


翼は車を止めた。


ふと、ルームミラーに映った自分の顔を見る。


明るく染めた金髪。


少しでも格好よく見せたかった。


大人っぽく、強そうに見られたかった。


けれど、あの男の金髪は自然な色だった。


自分とはまるで違う。


改めて見ると、この髪色は自分の顔にはあまり似合っていない気がした。


「……黒に戻すか。」


ぽつりと呟いた。


信号が青に変わる。


翼は静かにアクセルを踏んだ。


二十二歳になって、本当の敗北を味わった日だった。

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