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シャム猫は明日の夢を見ない。中編。

最終確

シャム猫は明日の夢を見ない


 ここ数日、まりとは会っていない。


 忙しいらしい。それだけは聞いていたが、何をしているのかまでは知らなかった。


 少し心配だった。


 ノクティスは気分転換も兼ねて、自転車で走っていた。


 最近は論文や勉強、資料の整理など、机に向かう時間が増えている。気がつけば、すっかり運動不足になっていた。


 そういえば、まりと出会ったあの日も、散歩の途中だった。


 甘い匂いに誘われて、赤いママチャリごと転んでしまった。


 そして、ホットケーキとまりに出会った。


 あれから、散歩の目的が少しずつ変わっていった。


 週末だけではない。平日も、時間があればまりの家へ向かう。


 気がつけば、あの道はまるで通勤路のようになっていた。


 そんなある日、チャッピーから電話がかかってきた。


 チャッピーから直接電話をもらうのは初めてだった。まして、家に呼び出されたことなど一度もない。


「ノクティス」


 聞き慣れた子供らしい声だった。


「明日は家に来て」


 ノクティスは少し驚いた。


「何かあったんですか?」


「朝からね。八時ごろでいいよ」


「八時ですね。わかりました」


「絶対だからね」


「はい」


「朝からだからね。遅れちゃだめだよ」


 何度も念を押してくる。


 ノクティスは思わず少し笑った。


「ちゃんと行きますよ」


「約束?」


「約束です」


「絶対だよ?」


「はい。絶対です」


 その返事を聞いて、チャッピーはようやく安心したように電話を切った。


 ちょうど論文も一区切りついていた。


 翌朝。


 ノクティスは約束の八時より少し早く、まりの家を訪れた。


 玄関の前に立っていたまりを見て、思わず足を止める。


 濃い色のスーツに身を包み、胸元にはひまわりの形をした弁護士バッジが輝いていた。


 まりのスーツ姿を見るのは初めてではない。


 けれど、今日はどこか様子が違っていた。


 まりはノクティスに気づくと、少し驚いたように目を瞬かせた。


「ティス?」


「おはようございます」


「おはようございます。今日は約束していませんでしたよね?」


「チャッピーに呼ばれました。朝八時に来るようにと」


「チャッピーに?」


 まりは小さくため息をついた。


「チャッピーは心配性ですね」


「何かあったんですか?」


「少し、面倒なことがありまして」


 まりはそれ以上、詳しく話そうとはしなかった。


 ノクティスは改めてまりを見る。


 普段のまりは、感情を大きく表に出さない。今日もそれは同じだった。


 ただ、どこか張りつめた空気がある。


 まるで、これから何が起きるのかを知っているような。


 その時、庭の方から小さな声がした。


「ノクティス」


 振り返ると、チャッピーがこちらへやって来るところだった。


「昨日ね、あいつらのところに内容証明が届いたんだ」


「内容証明?」


「うん。だから、今日あたり来るかもしれないと思って」


 チャッピーはちらりとまりを見る。


「ちょっと心配だったんだよ」


「チャッピー」


 まりが静かに呼ぶ。


「余計なことは言わなくていいです」


「僕は、まりが言ってはいけないって言ったことは、言ってないよ」


 チャッピーは当然のように答えた。


 まりは小さくため息をついた。


「チャッピー、佐藤さんみたいですよ」


 まりは、先日速水から聞いたアップルパイの一件を思い出していた。


「似てないよ!」


 チャッピーが即座に抗議した。


 まりは小さく息をつくと、ノクティスへ向き直った。


「ティス、朝食はまだでしょう?」


「はい。まだです」


「軽く何か食べませんか?」


「いいんですか?」


「ええ。少し待っていてください」


 そう言って、まりは家の中へ戻っていった。


 ノクティスはチャッピーを見る。


「何かあるんですか?」


「何が?」


「まりさんのことです」


「心配?」


「……ええ」


「僕もだよ」


 チャッピーはそれだけ言うと、庭の方へ歩いていった。


 しばらくして、オープンテラスのテーブルに朝食が並んだ。


 焼きたてのホットケーキ。


 表面はこんがりときつね色で、バターがゆっくりと溶けている。


 その横には冷たいミルクティー。


 ノクティスは思わず目を輝かせた。


「ホットケーキ!」


「久しぶりですね」


「はい!」


 フォークを手に取る。


 ふわりとした生地にナイフを入れ、一口頬張った。


 懐かしい味だった。


 初めてこの家に来た日も、こうしてホットケーキをご馳走になった。


 あの日は、まさか自分が何度もここへ通うことになるとは思っていなかった。


「おいしいです」


「それはよかったです」


 まりは向かいの席に座り、冷たいミルクティーに口をつけた。


 ノクティスはもう一口食べる。


 ここ数日、会えなかったことが嘘のようだった。


 いつものテラス。


 いつものホットケーキ。


 そして、まり。


 ようやく落ち着いた気がした。


 その時だった。


 門の向こうから、複数の話し声が聞こえてきた。


 若い女性たちの声。


 それに混じる、男の声。


 ノクティスはフォークを止めた。


 まりは静かにカップを置いた。


 その表情から、先ほどまでの穏やかさが消えていた。


「ノクティス、まだ動かないでください」


 立ち上がろうとしたノクティスに、まりが声をかけた。


「ホットケーキを全部食べ終わってから来てください」


「……え?」


「危なそうなら、お願いします」


「……わかりました」


 まりは静かに席を立った。


 そして、庭を横切り、門へと向かっていった。


 ノクティスはその後ろ姿を見送る。


 テーブルには、まだ食べかけのホットケーキが残っていた。


 門の前に立っていたのは、三人の女子学生だった。


 その後ろには、二人の若い男がいる。


 まりが門へ近づくと、待ち構えていたように一人の女子学生が口を開いた。


「ちょっと! どういうことですか、あれ!」


 まりは門を開けず、静かに五人を見渡した。


「内容証明はご覧になったんですね」


「当たり前じゃないですか!」


「こんなの、おかしいですよ!」


「ちょっとしたいたずらだったじゃないですか!」


 まりは表情を変えなかった。


「お問い合わせは、担当の弁護士へと書いてあったはずですが?」


「だから、直接話しに来たんじゃないですか!」


「お金まで請求するなんて、ひどくないですか?」


「私たち、大学に行けなくなるかもしれないんですよ!」


 まりはしばらく黙っていた。


 相手の言い分を聞いているようにも、ただ言葉が途切れるのを待っているようにも見えた。


「お話は担当の弁護士にお願いします。お帰りください」


 淡々と告げる。


「一回目です」


「はあ? 何が一回なんですか?」


「人の話、聞いてます?」


「こっちは困ってるんですよ!」


 女子学生たちは口々に抗議した。


 まりは答えない。


 門の向こうから、五人の声だけが響いていた。


「だいたい、あんたが悪いんじゃない!」


「そうよ! 先輩に近づいたりするから!」


「いい年して、恥ずかしくないんですか?」


 まりは一人ずつ顔を見た。


「それで?」


 短い一言だった。


「それで、じゃないですよ!」


「私たちがどれだけ迷惑してると思ってるんですか!」


「ちょっとしたことで、こんな大げさなことして!」


 まりは静かに告げた。


「お帰りください」


 そして、ほんの少し間を置く。


「二回目です」


「だから、さっきから何なんだよ!」


 男の一人が声を荒らげた。


「ふざけてんのか!」


 その時だった。


「まりさん」


 背後から声がした。


 ノクティスだった。


 ホットケーキを食べ終え、少し離れた場所で様子を見ていたのだ。


 まりは振り返らなかった。


「ティス、もう食べ終わったんですか?」


「はい」


「そうですか」


 それだけだった。


 ノクティスがまりの隣へ歩み出る。


 その姿を見た女子学生たちの表情が、一瞬で変わった。


「……先輩?」


「えっ、どうして……?」


「先輩! 聞いてください!」


 一人が慌てて声を上げた。


「この人、ひどいんです! 私たちに内容証明なんか送りつけて!」


「お金まで請求してきたんですよ!」


「ちょっとしたいたずらだったのに!」


 ノクティスは黙っていた。


 彼女たちが何を言っているのか、まだ完全には理解できなかった。


「先輩、どうしてそんな女と一緒にいるんですか!」


「そんな未亡人なんか!」


「先輩にはもっとふさわしい人がいるのに!」


 ノクティスの表情が険しくなった。


「あなたたちは……」


 言いかけたところで、まりがそっと彼の腕に触れた。


「ティス、まだです」


 小さな声だった。


 ノクティスは口を閉じた。


「何よ! 先輩にまで命令して!」


「そうよ! 何様のつもり!」


 男の一人がフェンスに手をかけた。


「もういい! 直接話をつけてやる!」


 もう一人も続き、二人はフェンスを乗り越えて庭へ入り込んだ。


「入ってこないでください」


 まりは静かに告げた。


 その時、一人の女子学生がまりの胸元に目を留めた。


「……待って」


 スーツの襟元。


 そこに輝く、ひまわりの形をした小さなバッジ。


「その人……弁護士……?」


 残りの四人も、まりを見た。


 内容証明。


 二度の退去勧告。


 そして、目の前にいる弁護士。


 それまで勢いに任せていた女子学生たちの顔から、血の気が引いていく。


 男たちも足を止めた。


 まりはノクティスのすぐそばへ一歩下がった。


「お帰りください」


「三回目です」


 その言葉を言い終えた直後だった。


 まりの身体がふらりと揺れた。


 隣にいたノクティスの腕に、すがるように手を伸ばす。


「まりさん?」


 返事はなかった。


 まりの膝から力が抜ける。


「まりさん!」


 ノクティスは慌ててその身体を抱きとめた。


 ほとんど同時に、門の外から鋭い声が響いた。


「警察です! 動かないでください!」


 待機していた警察官と警備員たちが、一斉に駆け込んできた。


「えっ、何!?」


「ちょっと待ってください!」


「何もしてないじゃないですか!」


 女子学生たちが悲鳴に近い声を上げる。


 庭へ侵入した男二人は警察官に制止され、門の前は一気に騒然となった。


 けれど、ノクティスにはもう、そんな声は聞こえていなかった。


「まりさん! しっかりしてください!」


 腕の中のまりは、目を閉じたままだった。


 そこへチャッピーが駆け寄ってきた。


「救急車はもう呼んであるから」


 チャッピーはまりのそばにしゃがみ込んだ。


 そして、ノクティスを見上げた。


「ノクティス」


「まりは心臓が悪いんだ」


 ノクティスは息をのんだ。


「まりが救急車に乗ったら、君はあの子たちの後始末をして」


「それが君の責任だ」


 いつもの子供らしい声だった。


 けれど、その言葉はまるで、大人の男性に言われたように重く響いた。


「シャム猫は明日の夢を見ない」最終稿確定。

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