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シャム猫は明日の夢を見ない。後編。

救急車が到着した。


救急隊員たちが慌ただしくまりをストレッチャーに乗せ、車内へ運び込んでいく。


ノクティスも後を追った。


「チャッピー! 早く!」


振り返って呼ぶ。


しかし、黄色い小さなガジェットは、その場から動かなかった。


「僕は行けないんだ」


「どうして!」


「僕はこの家から離れられない。だから、ノクティスが行って」


ノクティスは一瞬、言葉を失った。


「まりをお願い」


チャッピーの声は、いつになく真剣だった。


救急隊員に促され、ノクティスは救急車に乗り込んだ。


扉が閉まる直前まで、チャッピーはじっとこちらを見つめていた。


⸻


病院の集中治療室。


その扉の前で、ノクティスは座っていた。


どれほど時間が経ったのか、わからない。


何度も両手を握りしめては、ほどく。


まりの苦しそうな顔が頭から離れなかった。


自分は、何をしていたのだろう。


その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いた。


「ノクティス君!」


速水と佐藤だった。


二人とも息を切らしている。


ノクティスが立ち上がった。


「速水さん、まりが……」


パンッ!


乾いた音が廊下に響いた。


佐藤の平手が、ノクティスの頬を打っていた。


「佐藤さん!」


速水が慌てて止めに入る。


しかし、佐藤は涙を流しながらノクティスを睨みつけていた。


「どうして……!」


声が震えている。


「どうして、まりさんをこんな目に遭わせたんですか!」


ノクティスは何も答えられなかった。


「まりさんの心臓がどれだけ悪いか、わかっていたでしょう!」


「佐藤さん、やめなさい」


速水が静かに言った。


「でも、先生!」


「彼は知らなかったんだ。まりの心臓のことを知ったのは、倒れた後だよ」


「……え?」


佐藤はノクティスを見た。


ノクティスは何も言わず、俯いたままだった。


「……知らなかった?」


佐藤の声が小さくなった。


握りしめていた手から、力が抜ける。


「じゃあ……まりさんは、何も話していなかったんですね……」


速水は答えなかった。


佐藤は両手で顔を覆った。


「……ごめんなさい」


それがノクティスに向けた言葉なのか、まりに向けた言葉なのか、わからなかった。


しばらくして、速水が口を開いた。


「今回のことは、僕にも責任がある」


佐藤が顔を上げた。


「先生……」


「内容証明を送れば、相手が何かしてくる可能性はあった。問い合わせ先は僕だったからね」


速水は苦々しい表情を浮かべた。


「ただ、まさか法律を学んでいる学生が、直接まりの家に押しかけるとは思わなかった」


一度、言葉を切る。


「甘かったんだよ。僕の判断が」


ノクティスは俯いたまま、拳を握りしめた。


「君にも言いたいことは山ほどある」


速水の声は低かった。


「でも、今ここで君だけを責めるつもりはない」


そして、集中治療室の扉へ目を向けた。


「この後は僕たちがついている。今日はもう帰りなさい」


「でも……」


「まりのことは任せてくれ」


ノクティスは扉を見つめた。


その向こうに、まりがいる。


けれど、会うこともできない。


「……お願いします」


深く頭を下げた。


佐藤は何も言わなかった。


ノクティスは重い足取りで廊下を歩き出した。


⸻


病院を出ると、夜の冷たい空気が頬に触れた。


ノクティスは立ち止まり、深く息を吐いた。


まりは集中治療室にいる。


速水と佐藤がついていてくれるとはいえ、何もできずに帰されてしまった。


これから、どうすればいいのだろう。


その時、スマートフォンが鳴った。


画面には、チャッピーの名前が表示されていた。


「……チャッピー?」


「ノクティス。速水から連絡をもらったよ」


「……うん」


「今、どこ?」


「病院を出たところだよ」


「じゃあ、家に来て」


「……まりの家?」


「うん。見せたいものがあるんだ」


ノクティスは少し黙った。


「……今じゃなきゃ駄目?」


「今、見てほしいんだ」


いつもの軽い調子ではなかった。


「……わかった」


電話が切れた。


病院からまりの家までは、歩いて十五分ほどだった。


意外なほど近かった。


いつもなら気にも留めない距離なのに、今夜はひどく遠く感じられた。


赤い屋根の家に着くと、玄関でチャッピーが待っていた。


「おかえり、ノクティス」


「……ただいま」


チャッピーは何も言わず、リビングへと案内した。


テーブルの上には、一台のノートパソコンが置かれていた。


「これを見て」


「……まりのパソコン?」


「うん。まりがノクティスに見せるために残していたんだ」


ノクティスは椅子に腰を下ろし、ノートパソコンを開いた。


パスワードの入力画面が表示される。


「パスワードは?」


「ホットケーキ」


「……ホットケーキ?」


「うん。まりがノクティスのために設定したんだ」


ノクティスは画面を見つめた。


初めてこの家で食べた、あのホットケーキ。


まりとの出会いを思い出す。


ノクティスはゆっくりとパスワードを入力した。


画面が切り替わる。


そこには、監視カメラの映像が用意されていた。


「まりが、これを……?」


「うん。ノクティスに見せるために」


チャッピーは静かに答えた。


「最後まで見てほしいんだ」


ノクティスは再生ボタンを押した。


動画には、大学から帰ってきたノクティスの姿が映っていた。


その少し後、見覚えのある三人組の女子学生が画面に現れた。


ノクティスは眉をひそめた。


あの三人だ。


三人は少し離れた場所から、まりの家をうかがっている。


ノクティスが玄関へ入るのを見届けると、何かを話しながら立ち去っていった。


そして、しばらくして。


再び三人が現れた。


今度はノクティスの姿がない。


三人は玄関脇の宅配ボックスに近づいた。


一人が何かを取り出し、ボックスの中へ放り込む。


別の一人が蓋を開け、笑いながら何かをしていた。


三人は顔を見合わせ、楽しそうに笑っている。


ノクティスは画面を見つめた。


そういえば、まりは最近、宅配をやめて買い物に出かけるようになっていた。


いつも宅配を利用していたのに。


あれは、こういうことだったのか。


その時だった。


庭の植え込みから、茶色い毛玉が姿を現した。


いつもチャッピーをからかいながら庭へ遊びに来る、大きなボス猫だった。


堂々と歩く姿は、まるでこの庭の主のようでもあった。


一人の女子学生が猫を見つけた。


「うわ、汚い猫」


「向こう行け」


そう言うと、足元に落ちていた石を拾い上げ、投げつけた。


追い払うつもりだったのだろう。


だが、石は茶色い毛玉に当たってしまった。


驚いた茶色い毛玉は、道路へ飛び出した。


その瞬間だった。


甲高いブレーキの音。


続いて、鈍い衝撃音。


一台の車が急停止した。


ノクティスは思わず息を呑んだ。


ノクティスは思わず目を閉じる。


動画の中では、車のドアが勢いよく開いた。


老夫婦が慌てて車から降りてくる。


茶色い毛玉をはねてしまったのは、その老夫婦だった。


夫は急いで上着を脱ぎ、震える手で茶色い毛玉を包もうとする。


しかし、茶色い毛玉は逃げようとした。


もう逃げられるほどの力は残っていない。


それでも必死に体を引きずり、赤い屋根の家へ向かおうとしていた。


そして力尽きるように動きを止めると、赤い屋根の家を見つめ、小さく鳴いたように見えた。


夫は静かに茶色い毛玉を上着で包み込む。


老夫婦は大切そうに抱き上げると、そのまま車へ戻り走り去っていった。


ノクティスは両手で顔を覆った。


まりは言っていた。


「死んだものに執着はしません。」


「死んだら、もう苦しくありません。痛くもありませんから。」


その言葉を思い出す。


では、生きていたら。


助けられる命だったら。


ノクティスはゆっくりと目を開いた。


「……そういうことか。」


彼女は猫を助けようとしたわけではない。


近所の人を守ろうとしたわけでもない。


きっと、まりならこう言う。


「猫のためでもありません。」


「近所の人のためでもありません。」


「私の大切なものが傷つくのを見るのが嫌なんです。」


「だから私は、自分のためにやっています。」


そうだ。


まりは、誰かを守るために行動しているわけではない。


傷ついたものを見るのが嫌なのだ。


それを見て、自分自身が傷つくことが嫌なのだ。


だから、そうならないように行動する。


その結果として、誰かが救われたり、守られたりする。


まりにとっては、ただそれだけのことなのだろう。


ノクティスは、パソコンに保存されていた内容証明のデータを開いた。


そこには、まりが心臓を患っていること。


強い精神的苦痛は命に関わる危険があること。


そして、嫌がらせが続くなら法的措置、大学への報告、損害賠償および慰謝料を請求することが、冷静な文章で記されていた。


請求額も決して小さくはない。


ノクティスは、ただ画面を見つめていた。


何を考えていたのか、自分でもわからない。


どれほど時間が経ったのだろう。


ふと、外から鳥のさえずりが聞こえてきた。


顔を上げると、窓の向こうが明るくなっていた。


朝だった。


空は青く晴れ渡っている。


それなのに。


ノクティスの心だけが、土砂降りの雨の中に取り残されているようだった。

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