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責任の取り方

責任の取り方


大学の講義室の一つが借りられていた。


 平日の夕方。


 学生の姿も少なくなった校舎の中で、その教室だけが妙に重い空気に包まれている。


 前方の机には三人。


 ノクティス。そして速水と、弁護士の佐藤。


 佐藤は人数分の書類を静かに机へ並べていた。


 速水は大樹の一年後輩であり、現在はまりから事務所を預かる所長だった。


 向かい側には五人の学生が座っている。


 三人の女子学生と、その友人である男子学生二人。


 さらに後方には、それぞれの保護者たちが席に着いていた。


 人数が多く、通常の会議室では収まりきらなかったため、大学側の許可を得て講義室を借りることになったのだ。


 速水は全員が席に着いたことを確認すると、静かに口を開いた。


「本日は、お子さん方が起こした件についてお話しします。発言は順番にお願いします。私語は控えてください。なお、本日の内容は記録しておりますので、ご了承ください」


 しかし、その説明が終わるや否や、一人の父親が口を開いた。


「たかが子供のいたずらじゃありませんか。大学に行けなくなるなんて、かわいそうでしょう」


「そうですよ。将来があるんです。損害賠償なんて、やりすぎじゃありませんか」


「若いんですから、少しくらい大目に見ていただけませんか」


 別の保護者たちも口々に訴え始めた。


 女子学生たちは涙を浮かべている。


「そんなつもりじゃ……」


「私たちは、ただ先輩のことが心配で……」


 男子学生二人は俯いたまま、何も言わなかった。


 ノクティスは黙っていた。


 最初は何も話すな。


 そう速水に言われている。


『ここは僕に任せてくれ』


 その言葉に従っていた。


 だが、机の下で握りしめた拳には力が入っていた。


 まりは病院にいる。


 その原因を作った人間たちが、目の前に座っている。


 それなのに、誰一人としてまりの容体を尋ねようとしない。


 自分たちの将来。


 自分たちの人生。


 大学に残れるかどうか。


 そんな話ばかりだった。


「ノクティス」


 隣から小さな声がした。


「被害者の気持ちを知ることも、法律を目指す者には大事だよ」


 速水だった。


 ノクティスは横目で彼を見る。


 この人は、どうやら自分を生徒か何かだと思っているらしい。


 やがて、一通り言いたいことを言い終えたのだろう。


 教室が静かになった。


 速水は眼鏡を外し、机の上へ置いた。


「少し落ち着かれましたか」


 穏やかな声だった。


「では、今度はこちらの話を聞いていただきます」


 佐藤が書類を配り始める。


 写真、記録、音声の反訳書、防犯カメラの映像に関する資料。そして、事前に送付された内容証明郵便の写し。


 保護者たちがページをめくる。


 最初は怪訝そうにしていた者も、読み進めるうちに表情を変えていった。


「あなた方のお子さんは、重い心臓疾患を抱えた一人暮らしの女性に対し、継続的な嫌がらせを行いました。一度や二度ではありません。複数回です」


 速水は淡々と説明を続ける。


「被害者は弁護士です。ご自身の病状を把握しており、強い精神的負荷が生命に危険を及ぼす可能性についても、事前に警告しています」


 ページをめくる音が止まった。


「にもかかわらず、内容証明を受け取った後、男性二名を伴って五人で自宅を訪れた。退去を三度求められても従わず、敷地内への侵入を続けた。そして、被害者はその場で倒れ、救急搬送されています」


「そ、それは……」


 一人の父親が何か言いかけた。


「何か事実と異なる点がありましたか」


 速水が尋ねる。


 父親は口を閉じた。


「記録はすべて残っています。映像も音声もあります。必要であれば、確認していただいて結構です」


 誰も答えなかった。


「では、一つお尋ねします」


 速水は学生たちへ視線を向けた。


「なぜ、こんなことをしたのですか」


 沈黙が続いた。


「彼女は森の家で静かに暮らしていただけです。あなた方に何か危害を加えましたか。財産を奪いましたか。それとも、何か不利益を与えましたか」


 女子学生の一人が、俯いたまま小さく答えた。


「だって……先輩を取ったから……」


「ノクティス先輩に色目を使って……」


「たぶらかしたから……」


 保護者たちが娘を見る。


 その表情には、驚きと困惑が浮かんでいた。


 速水はしばらく黙っていた。


「そうですか」


 それだけだった。


 速水は大樹の一年後輩だった。


 司法試験に合格したのも一年遅い。


 その後、知人の紹介で若いまりが事務所へ入ってきた。


 三人で働いた時間は長い。


 大樹が傷つき、疲れ果てていた時期も知っている。


 その隣には、いつもまりがいた。


 そして大樹が亡くなった後、まりは事務所を速水へ託した。


『私は裏で手伝うから』


『お前が頑張れ』


 大樹の似ていない口真似をして、そんなことを言った。


 あの人は、ようやく静かな暮らしを手に入れたのだ。


 それを、こんな理由で壊された。


 腹が立たないわけがない。


 だが、ここは怒りをぶつける場所ではない。


 速水は机の上の眼鏡を掛け直した。


「ノクティス」


 隣の青年を見た。


「君からも話してもらえるかな」


 ノクティスは静かに立ち上がった。


 教室中の視線が集まる。


「一つだけ訂正します」


 落ち着いた声だった。


「あなたたちは、最初から大きな勘違いをしています」


 女子学生たちが顔を上げた。


「僕は成人した一人の男性です。あなたたちは大学の後輩でしかありません。友人でもなければ、特別親しくしているわけでもありません」


「でも、先輩は……」


「大学で話しかけられれば答えます。それだけです」


 女子学生は言葉を失った。


「それなのに、なぜ僕の意思を無視したのですか。なぜ、彼女が僕をたぶらかしたと決めつけたのですか」


 ノクティスは一人ずつ顔を見た。


「僕が誰と会おうと、誰と友人になろうと、誰を好きになろうと、それは僕自身が決めることです」


 少し間を置いた。


「彼女は僕の友人です」


 そして、はっきりと言った。


「僕の片想いの相手です」


 誰も動かなかった。


「彼女が僕を利用したことはありません。何かを強要したこともありません。僕が彼女の家へ通っているのも、彼女と一緒にいたいと思っているのも、すべて僕自身の意思です」


 女子学生たちは呆然としていた。


「それなのに、あなたたちは彼女を攻撃した」


 ノクティスの声は変わらない。


「彼女が何をしたというのですか」


 返事はなかった。


「あなたたちは彼女を悪い女性だと言いました。その根拠は何ですか」


 沈黙。


「何もありませんね」


 ノクティスは一度目を伏せた。


 病院のベッドに横たわるまりの姿が浮かぶ。


「僕は怒っています」


 ゆっくりと顔を上げた。


「彼女を傷つけたことも、病院へ送ったことも、何の落ち度もない彼女を悪者にしたことも、許せません」


 そして、保護者たちへ視線を向けた。


「もし、皆さんの大切な人が、根拠のない思い込みだけで傷つけられ、命を落としかけたら」


 少しだけ言葉を切った。


「皆さんは、それを子供のいたずらだからと許せますか」


 誰も答えなかった。


「僕にはできません」


 ノクティスは静かに一礼した。


「以上です」


 速水が小さくうなずく。


 ノクティスはそのまま教室を後にした。


 扉が閉まる。


 しばらく誰も口を開かなかった。


 速水は書類を一枚取り上げた。


「さて」


 保護者たちが顔を上げる。


「ここからは、法律上の責任についてお話しします」


 速水は手元の書類を示した。


「まず、楠木まりさん個人が受けた被害についてです。治療に要した費用、精神的苦痛に対する慰謝料、そして今回の件によって生じた経済的損失。これらについて、確認できた事実と資料に基づき、請求を検討しています」


 保護者の一人が口を開いた。


「ですが、まだ学生なんですよ。そんな大金を……」


「学生であることと、他人に損害を与えた責任を負うことは別の問題です」


 速水は穏やかに答えた。


「もちろん、全員が同じ責任を負うとは限りません。誰が、いつ、何をしたのか。それぞれの行為と損害との関係を確認する必要があります」


 男子学生二人が顔を上げた。


「その点も含めて、今後、個別に確認していきます」


 速水は続けた。


「そして、もう一つ」


 佐藤に視線を向ける。


「佐藤君、次の書類を」


「はい」


 佐藤が立ち上がり、別の資料を配り始めた。


 表紙には大きく記されている。


 楠木大樹法律事務所。


 何人かの保護者が、その名前を見て顔色を変えた。


「ご存じの方もいらっしゃるようですね」


 速水は静かに言った。


「この事務所は、楠木大樹が立ち上げ、妻である楠木まりさんと共に育ててきた法律事務所です。現在は私が所長を務めていますが、まりさんは今も事務所の重要な業務を担当しています」


 保護者たちは黙って聞いていた。


「まりさんは複数の顧問企業を担当しています。今回の入院によって、その業務にも影響が出ています」


 速水は書類をめくった。


「もっとも、入院によって発生した影響のすべてを、皆さんに請求できるわけではありません。事務所が独自に被った損害についても、法的に請求が認められるかどうか、慎重に検討する必要があります」


 そこで一度、言葉を切った。


「ですが、実際に発生した損害を、なかったことにするつもりもありません」


 佐藤が配った資料には、業務への影響と、現時点で確認されている損害の内容が整理されていた。


 保護者たちがページをめくる。


 そして、金額の記載された部分で手を止めた。


「こんな金額……払えません」


「法外じゃありませんか!」


 速水は表情を変えなかった。


「これは現時点での請求案と算定資料です。根拠については書面で説明しています。争いがあるのであれば、正式な手続きの中で判断を求めることになります」


「そんな……」


「皆さん」


 速水の声が、教室に静かに響いた。


「先ほどから、お子さん方の将来について何度もお話しされていますね」


 誰も答えなかった。


「将来が大切なのは、当然です。ですが、それは被害を受けた方にも同じことが言えるのではありませんか」


 速水は全員を見渡した。


「まりさんは、静かに暮らしていただけです。そこへ押しかけ、警告を無視し、結果として救急搬送される事態を招いた」


 眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。


「その事実について、まず考えていただきたい」


 保護者たちは俯いた。


「この事務所を築いたのは、応用の天才だった楠木大樹と、記憶の天才である楠木まりです」


 速水は書類の表紙に目を落とした。


「私は二人のような天才ではありません。ですが、二人が築いてきたものを預かっています」


 そして顔を上げた。


「だからこそ、今回の件を曖昧に終わらせるつもりはありません」


 誰も口を挟まなかった。


「民事上の請求については、今後、正式な書面でお伝えします。なお、刑事事件については私どもが処分を決めるものではありません。警察および検察の判断になります」


 速水は書類を閉じた。


「本日の説明は以上です」


 それから、少しだけ声を和らげた。


「お子さん方の将来を大切に思われるのであれば、まず、ご自身がしたことと向き合うよう、お話ししてあげてください」


 誰も答えなかった。


 やがて、保護者たちは学生を連れて、一組ずつ教室を出て行った。


 最後の一人が退室し、扉が閉まる。


 佐藤は大きく息を吐いた。


「……まだ大学の処分と、ちょっとした慰謝料の話だと思っていたんですね」


 速水は机の上の書類をまとめていた。


「そうみたいだね」


「それにしても、誰もまりさんの容体を尋ねませんでしたね」


「うん」


 速水は短く答えた。


 佐藤は残された椅子を見渡した。


「これから、どうします?」


「まずは、まりさんの容体を確認する。それから、資料を整理して、それぞれの責任を明確にする」


「全員まとめて、ではないんですね」


「当然だよ。五人が同じことをしたとは限らないからね」


 佐藤は小さくうなずいた。


「それにしても、所長」


「何?」


「怒っていらっしゃいましたよね」


 速水の手が一瞬止まった。


「……そう見えた?」


「長い付き合いですから」


 佐藤は静かに答えた。


 速水は書類を鞄に収めた。


「大樹さんが亡くなってから、まりさんはずっと頑張ってきたからね」


「はい」


「ようやく少しは自分のために暮らせるようになったんだ。それを、あんな理由で……」


 そこで言葉を切った。


 佐藤は何も言わなかった。


 速水は鞄を閉じた。


「まあ、僕が怒ったところで、まりさんの具合が良くなるわけじゃないしね」


「そうですね」


「だから、僕は僕の仕事をするよ」


 佐藤はその横顔を見つめた。


 大樹とまり。


 二人は、確かに天才だった。


 けれど、天才だからといって、何もかも一人でできるわけではない。


 大樹が亡くなった後、事務所を支えてきたのは速水だった。


 難しい案件も、顧問企業との調整も、職員たちの生活も。


 派手なことは何一つ言わず、当たり前のように引き受けてきた。


 佐藤は机の上に残った最後の書類を拾い上げた。


「所長」


「ん?」


「私も最後までお付き合いしますよ」


 速水は少しだけ首を傾げた。


「最初からそのつもりだったけど?」


「……ですよね」


 佐藤は苦笑した。


 ふと思い出したように、佐藤が口を開いた。


「しかし、すごいですね」


「何が?」


「若いって怖いですね」


「何を言っているんだ、佐藤さん」


「あれだけ大勢の前で片想いの告白ですよ? 本人に言う前に他人に話してどうするんだと思いましたけどね」


 速水は黙って書類を揃えた。


「私、正面向いていられませんでしたよ」


「……だから、不自然に後ろを向いて書類を見ていたんだね」


「速水さんも肩が震えていたの、見てましたよ」


「そんなことはない」


「そんなことありましたって」


 速水は眼鏡の位置を直した。


「……しかし、若いって怖いね」


「怖いですね」


 二人はしばらく黙っていた。


 そして、何事もなかったように書類の片付けを再開した。


 決して大樹やまりのような天才ではない。


 けれど。


 二人が安心して事務所を任せた男だった。


 佐藤は、その理由を誰よりもよく知っていた。

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