少年の旅立ちとそれでも甘くない幼女
森に残る雪も薄くなり、木々の枝先には小さな芽が見え始めていた。
春が近い。
ベガは、伯爵家へ帰るための準備を進めていた。
「学園の準備もあるからな。一度、家に戻らないと」
「そうですか……」
マリーは、見上げていた顔を少し伏せた。
一緒に食事をして、森を歩き、動物たちの世話をする。
そんな毎日が、いつの間にか当たり前になっていた。
「今まで、ありがとうございました」
「それは、こっちの台詞だろ」
ベガは苦笑した。
「ちょっと、ニゲルの様子を見てくる」
「はい。私は、クレメンタインさんを呼んできますね」
ベガが玄関を出るのを見送り、マリーは廊下を引き返した。
*
その少し前。
隣国から逃れてきた七人の盗賊団が、迷いの森に入り込んでいた。
幾重にも重ねた衣服の上に厚手の外套を羽織り、頭や顔にも布を巻きつけている。腰には曲刀。背には、わずかな荷物。
だが、その足取りに勢いはなかった。
追っ手から逃れるために森へ入り、結界を張りながら、ひたすら歩き続けてきたのだ。
食料は底をつきかけ、結界を維持している男の顔にも、疲労が濃く浮かんでいた。
「……おい」
先頭の男が立ち止まった。
木々の向こうに、屋根が見える。
彼らが張り続けていた結界は、館を隠す魔法に干渉していた。そのため、本来なら見つけられないはずの屋敷が、彼らの目の前に姿を現したのだった。
「屋敷だ」
「こんな森の中にか?」
「人がいるなら、食い物もあるだろう」
疲れた目に、欲が戻った。
男たちは木陰を伝い、屋敷へ近づいた。
ところが、敷地へ踏み込もうとした男の体が、見えない何かに押し返された。
「何だ?」
手を伸ばしても、先へ進まない。
剣の柄で殴りつけると、何もない空中で鈍い音がした。
「結界か……!」
男たちが舌打ちした、その時だった。
屋敷の扉が開いた。
少年が、一人で出てくる。
男たちは顔を見合わせ、木陰に身を潜めた。
*
ベガは、馬小屋へ向かおうとした。
その時、木陰から男が飛び出した。
気配に振り向くより早く、背後から腕をつかまれる。
「何を――」
もう一人が肩にのしかかり、体勢を崩したところで腕をねじり上げられた。
首筋に、冷たい刃が触れる。
「動くな」
ベガは息をのんだ。
顔に布を巻いた男たちが、木々の間から次々に姿を現す。
出発の準備中で、弩もまだ身につけていなかった。
ベガは唇を引き結んだ。
「おい、中にいる奴ら!」
腕を押さえた男が、屋敷に向かって怒鳴った。
「こいつを助けたけりゃ、結界を解け!」
返事はなかった。
男がもう一度声を張り上げようとした時、二階のテラスに小さな影が現れた。
金色の毛に包まれた、小さな犬。
それが、ちょこんと座って下を見ている。
続いて、メイド姿の少女と、さらに幼い少女が顔を出した。
マリーは手すり越しに、ベガの首元へ添えられた刃を見た。
「……何をしているんですか」
「見りゃわかるだろうが!」
男はベガを前へ押し出した。
「中に入れろ! 食い物も金も、全部出せ!」
クレメンタインは、マリーの隣に静かに立っていた。
足元では、ティスが鼻をひくりと動かした。
「聞こえねえのか! 出てこい!」
男が声を荒らげる。
「人質がどうなってもいいのか!」
マリーは、わずかに首を傾げた。
「あなた方は、馬鹿ですか?」
一瞬、森が静かになった。
「……何だと?」
「この状態で出ていったら、私たちも、人質も、どうなるか目に見えているではありませんか」
幼い声は、よく通った。
「それよりも、彼を解放しなさい。そうすれば、食べ物ぐらいは、少しなら分けて差し上げましょう」
「おい、嬢ちゃん。立場がわかって――」
「でも、もし彼を傷つけたら」
マリーは、男の言葉を最後まで待たなかった。
「あなた方、全員皆殺しですよ?」
男たちは、ぽかんとテラスを見上げた。
手すりから顔を出した幼女。
その横に控えるメイド。
そして、足元にちょこんと座っている、小さな犬。
「……はっ」
一人が噴き出した。
それをきっかけに、笑い声が広がった。
「聞いたか! 皆殺しだとよ!」
「あの犬に噛ませるのか?」
「そりゃ怖え!」
腹を抱える者までいた。
ベガだけが、笑わなかった。
テラスにいるティスを見て、それから周囲の男たちへ目を向ける。
「……やめておけ」
「何だ?」
「今なら、まだ――」
「黙ってろ!」
腕をさらにねじられ、ベガは口を閉じた。
マリーは、小さく息をついた。
「仕方ありませんね」
隣に座る金色の毛並みへ、目を向ける。
「ティスさん。やっておしまいなさい」
一度は言ってみたかった台詞ですね。
ティスが立ち上がった。
その耳が、ぴくりと動く。
次の瞬間、盗賊たちのすぐそばに立つ大木に、魔法の一撃が命中した。
幹の低い位置で、木の皮が弾け飛ぶ。
男たちの笑い声が途切れた。
「……は?」
太い幹の奥から、みしり、と音がした。
枝先が大きく揺れる。
続いて裂け目が幹を走り、大木が盗賊たちのいる方へ、ゆっくりと傾き始めた。
「お、おい……!」
見上げた男の顔から、血の気が引いた。
頭上を覆う枝が、ぐっと低くなる。
「倒れるぞ!」
誰かが叫んだ。
男たちが、いっせいに駆け出す。
仲間の肩を突き飛ばす者。外套の裾を踏んで転ぶ者。転がった男を飛び越えようとして、足を引っかける者。
「どけ! 邪魔だ!」
「押すな!」
ベガを押さえていた男も、迫る枝を見た瞬間、腕を放した。
刃を引き、ベガを突き飛ばして逃げ出す。
ベガは地面に片手をついた。
すぐに身を起こし、屋敷へ駆ける。
背後で、幹の裂ける音が響いた。
大木が一気に倒れ込む。
太い枝が地面を打ち、折れた小枝が跳ねた。湿った土と枯れ葉、残っていた雪が舞い上がる。
地響きに足を取られ、盗賊の一人が四つんばいになった。
それでも振り返らず、這うようにして立ち上がると、森へ飛び込んでいった。
ほかの男たちも、ばらばらの方向へ逃げていく。
ベガは結界の内側へ駆け込むと、玄関先に座り込んだ。
マリーは、その姿を確かめてから、そっと息を吐いた。
そういえば、ティスさんが助さんなら、格さんはパリカール。お銀さんはクレメンタインさんでしょうか。
うっかり八兵衛は……。
マリーは、玄関先にへたり込んでいるベガへ目を向けた。
敵の人質になってしまった、あの子ですね……。
クレメンタインが、不思議そうに首を傾げる。
「この状態で、どうしてこちらが出てくると思うのでしょうね」
「たぶん、そうしないと映画やドラマが成立しないのではありませんか?」
「映画? ドラマ?」
「訂正します」
マリーは、何事もなかったように言い直した。
「お話が成立しない、ということですね」
足元では、ティスが再び、ちょこんと座っていた。
*
盗賊たちが逃げ込んだ森を見やり、クレメンタインは苦笑した。
「しかし、彼らは何も知らないのですね」
マリーが、不思議そうに見上げる。
「ここが、なぜ国境になっているのか。なぜ村人たちが、この森に入らないのか、おわかりですか?」
「……魔物がいるから、でしょうか」
「はい。そして、結界を長時間張り続けられる者は、まずおりません。魔力の高いベガ様でさえ、ここへたどり着くまでは、ぎりぎりだったでしょう」
遠くから、男の怒鳴り声が聞こえた。
「ましてや、農民崩れの盗賊団など……」
その時、森の奥で遠吠えが響いた。
別の方角から、それに応える声が上がる。
さらにもう一つ。
マリーがこれまで聞いたこともないほど、多くの遠吠えが森に重なっていった。
「……見つかったようですね」
クレメンタインは、声のする方へ目を向けた。
「あの者たちは、一人もこの森から出ることはできないでしょう」
マリーは、盗賊たちが散り散りに走り去った方を、じっと見つめた。
「狼さんたちには、よいご馳走になりますね」
それから、足元に座っているティスへ視線を落とした。
「あなたには、おいしい猪のお肉がありますからね」
ティスのしっぽが、ぱたぱたと床をたたいた。
マリーはその頭を優しく撫でると、玄関先に座り込んでいるベガを迎えに、階下へ降りていった。
*
へたり込んでいるベガの前に、マリーは立った。
「ニゲルを出す前でよかったです」
「……そこかよ」
先ほどまで、首筋に刃を当てられていたのは自分なのだが。
ベガは、何とも言えない気持ちでマリーを見た。
「だって、ニゲルは私の馬ですもの」
そうだった。
命を助けてもらう代わりに、ニゲルをマリーに譲ったのだ。
長く連れ添ってきた相棒を置いて、一人で伯爵家へ帰る。
そう思うと、ベガの肩が落ちた。
情けない顔になったベガを見て、マリーは小さく息をついた。
「仕方ありませんね。お貸ししておきます」
ベガが顔を上げる。
「あの子が帰りたいと言わない限りは、あなたのそばに置いてもいいですよ」
「……いいのか?」
「はい。でも、もし伯爵家の方が取り上げようとしたら、自分は借りているだけだと言いなさい。持ち主に返しに行かなければならない、と」
そこまで言って、マリーは少し考えた。
「そうですね。契約書を書いておきましょう」
「契約書?」
「あなたが、ご自分の命を助ける代償として、ニゲルを私に譲ったこと。それから、私があなたにニゲルをお貸しすることを書いておきます」
マリーは、ベガを見上げた。
「あなた以外の方が持ち主になる場合は、二百ゴールドをお支払いいただく、ということにしましょう」
「二百……? ニゲルの値は、百ゴールドだぞ」
「では、勝手に取り上げるより、返す方を選んでくださるでしょう?」
ベガは、目の前の幼女を見つめた。
伯爵家も、そこまで非常識ではないと思いたい。
だが、自分はもう跡継ぎではない。
そんな自分に、あの名馬を、そのまま持たせておくだろうか。
ニゲルは、普通の馬とは違う。
七十年を生きるその品種は、「一生ものの馬」と呼ばれている。
取り上げられないとは、限らなかった。
借り物ならば、伯爵家の馬にはできない。手元に置こうとすれば、本来の倍の金が必要になる。
ベガは、マリーを見た。
まさか、俺のために?
「働けるようになったら、現金で払ってくださいね」
心が折れそうだった。
「……お前、本当に四歳かよ」
「いたいけで可愛くて、賢くて、越後のちりめん問屋です」
幼女ですらなくなった!
「越後のちりめん問屋ってなんだよ」
「うっかり八兵衛に教える義理はありません」
幼女はすました顔で、ティスの頭を撫でた。
*
やがて、契約書を懐に収めたベガが、ニゲルの背に揺られながら森の小道を遠ざかっていく。
その背中が木々の向こうに見えなくなるまで見送ってから、マリーは小さく息を吐いた。
「……まあ、あの子にはニゲル(弥七)がついていますから、大丈夫ですね」
足元で、ティスが短く「ワン」と鳴いた。
その隣で、マトリスが首を伸ばしてマリーを見上げた。
「マトリス、あなたは風の鬼若ですよ」
「コッ!」
マトリスは嬉しそうに羽をぱたぱたさせ、得意げに胸を張った。




