ー憂鬱な帰り道と不思議なピーチパイー
世界を見て回る。そして、教師になる。
そんな目標を胸に、意気揚々とブレーメンの家を出発したベガだったが、伯爵家へ向かっていると思うと、早くも気分が沈み始めていた。
ニゲルが、ぽくぽくと街道を進んでいく。
伯爵家の屋敷までは、馬でゆっくり旅をして一週間ほど。特別な品種であるニゲルなら、四日ほどで戻れる距離だ。
けれど、ベガは手綱を緩めたまま、その歩みに任せていた。
「帰りたくないなぁ」
口に出すと、いっそう気が重くなった。
ブレーメンの家を出て、まだ二時間も経っていない。
それなのに、もう、みんなのところへ帰りたくなっている。
あの伯爵家は、跡継ぎが生まれてから居心地が悪くなった。
いや、生まれる前からだった。
養母のお腹に子が宿り、魔法で男の子だとわかった頃から、親族の間でベガの扱いをめぐる話し合いが続いていた。
この国では、家督をめぐる私闘や、相手を害して継承権を奪う行為は重罪となる。後々の争いを避けるためにも、誰が家を継ぐのか、はっきりさせておかなければならない。
魔力が多く、頭もよいベガを手放したくない養父。
何があっても実の子に継がせたい養母。
その間に挟まれ、家の中のどこにいても落ち着かなかった。
結局、養父も妻には勝てなかった。
魔法学園に入学した時点で、正式に廃嫡とする。
実父の家名であるファロットを名乗り、伯爵家とは完全に縁を切る。
その代わり、授業料と生活費は責任を持つ。
そう言われていた。
そこまで決まっているのだから、戻って必要なことを済ませればいい。
頭ではわかっている。
「……わかってるんだけどな」
ニゲルの耳が、くるりとこちらを向いた。
*
最初の村で、ベガはニゲルの蹄鉄を交換してもらうことにした。
長い距離を走る前に、足元を整えておきたかった。
迷いの森にほど近いこの村も、伯爵家の領地である。
ただ、ここがマリーの逃げ出してきた村だとは、ベガは知らなかった。
鍛冶場の脇で待っていると、同じように用事を待つ村人たちの話が耳に入ってきた。
「クーラになってから、話が早くなったな」
「ああ。水路の修繕も、誰がどこをやるか、さっさと決めちまった」
「自分でも泥をさらってたぞ。村長があれじゃ、こっちも知らん顔はできん」
新しい村長の話らしい。
ベガは、何気なくそちらへ目を向けた。
「女に村を任せて大丈夫かって言ってたのは、どこの誰だったかな」
「俺だよ。悪かったよ」
男の一人が認めると、周りから笑いが起きた。
女の村長か、とベガは思った。
都会なら珍しくもないが、こうした辺境の村では、あまり聞かない。
「でも、無理なもんは無理って、ちゃんと言うからな。頼めば何でも引き受けるわけじゃない」
「その代わり、一度やると言ったことは放っとかん。昨日も日が暮れるまで歩き回ってたよ」
「少し休めと言ったら、『あんたが先にそれを片づけてくれたら休めるよ』だとさ」
「そりゃ、お前が悪い」
また笑いが広がった。
話を聞く限り、新しい村長はずいぶん働き者のようだった。村人たちの口調にも、親しみがある。
だが、前の村長の話になると、その笑いは途切れた。
「前のは、自分の懐のことばかりだったからな」
「……あの子のこと、本当なのか」
「ああ。奴隷商人に売ったらしい」
ベガは顔を上げた。
「まだ、あんな小さかったのになぁ」
「ばあさんが亡くなって、ほかに身寄りもなかったんだろう。それを、面倒を見るどころか……」
「ロバも一緒に売ったそうだぞ」
「ロバまでか」
男が、膝の上で手を握り直した。
「あんな幼い子を売るなんてなぁ。いくらなんでも、やっていいことと悪いことがあるだろうに」
小さな女の子と、ロバ。
ベガの頭に、マリーとパリカールの姿が浮かんだ。
まさか、と思う。
それでも、続く話が気になって、耳を離せなかった。
「今さら言ったって、あの子は戻ってこんがな」
「だからって、黙って忘れちまうのも違うだろ」
「ああ……」
しばらく、槌の音だけが響いた。
やがて、一人が息を吐いた。
「まあ、駄目なおっさんに任せとくより、肝っ玉母ちゃんが仕切るほうが、よっぽどうまくいくんじゃないか」
「違いない。少なくとも、子供が腹をすかせてないか、気にして歩いてるからな」
「俺たちも、叱られる前に手を動かさんとな」
「お前はもう叱られただろう」
「昨日な」
今度の笑いは、少し小さかった。
ベガは視線を落とした。
荷物の中には、マリーから食べるようにと持たされた、不思議な容器に入ったピーチパイがある。
今朝は、みんながそばにいた。
マリーがいて、クレメンタインがいて。
ティスも、パリカールも、マトリスもいた。
ついさっきまで一緒だったのに、もうずいぶん遠くまで来てしまった気がした。
蹄鉄を替えてもらっているニゲルは、おとなしく立っている。
その黒い姿を眺めながら、ベガはもう一度、心の中でつぶやいた。
帰りたいな。
*
新しい蹄鉄をこつこつと鳴らしながら、ニゲルが村の中をゆっくりと歩いていく。
ベガはその隣で手綱を引いていた。
「クーラおばちゃん!」
「ねえ、こっち見て!」
子供たちの声に目を向けると、一人の中年女性が、まとわりつく子供たちに何か言い聞かせていた。
「いっぺんに話したって、わからないよ。ほら、一人ずつ」
そう言いながらも、一人の話を聞く間に、別の子供の服についた土を払ってやっている。
あの人が、新しい村長か。
ベガが眺めていると、女性もこちらに気づいた。
「おや、旅の人かい?」
人懐っこそうな笑顔で声をかけられ、ベガもなんとなく親しみを覚えた。
「はい」
「立派な馬だねぇ」
クーラはニゲルを見上げ、感心したように言った。
子供たちも振り返ったが、その大きさに驚いたのか、彼女のそばから少し離れて眺めている。
「ありがとうございます」
ベガは笑顔で答え、ニゲルの首を撫でた。
「あの、この村に宿屋はありますか?」
蹄鉄を新しくしたばかりだ。いきなり長い距離を走らせるのは、少し不安だった。
今日はこの村で休み、明日、足の様子を確かめてから出発してもいい。
「ああ、宿かい。今週は行商人がたくさん来ていてね。宿はいっぱいだね」
「そうですか……」
どうしようかと考えていると、クーラはベガとニゲルを見比べた。
「よかったら、うちに泊まっていくかい? 使ってない馬小屋もあるから、この子も大丈夫だよ」
「いいんですか?」
「部屋が空いてるからね。構わないよ」
あまりに気軽な誘いに、ベガは少し驚いた。それでも、その笑顔を見ていると、素直に甘えてもいいような気がした。
「それじゃあ、お願いします」
「うん。こっちだよ」
子供たちに別れを告げたクーラの後を、ニゲルと並んでついていく。
ほどなく案内されたのは、一軒の家だった。
ニゲルを馬小屋に入れてから、ベガも家の中へ入る。
「この家は、私が買い取ったんだけどね」
クーラは家の中を見渡した。
「いつか、持ち主が帰ってくるのを待っているのさ」
そう言ったときだけ、その顔が少し寂しそうになった。
ベガは何か言いかけたが、言葉が見つからなかった。
「まあ、まずはお茶でも飲んでいくかい」
クーラは表情を和らげ、ベガを席へ促した。
やがて、二人の前に湯気の立つお茶が並ぶ。
「ありがとうございます。よかったら、これも一緒に」
ベガは荷物から、マリーに持たされた容器を取り出した。
軽くて、少し透けている。蓋がぴったりとはまる、不思議な容器だ。
開けると、中には半分に切られたピーチパイが収まっていた。
「おや、きれいなお菓子だねぇ」
「ピーチパイというそうです。旅の途中で食べるようにと、持たせてくれたんです」
ベガはその半分のパイを、さらに四等分した。
ひと切れをクーラへ勧め、自分もひと切れ取る。
クーラはしばらく珍しそうに眺めてから、そっと口に運んだ。
さくりと生地が崩れ、桃の甘い香りが広がる。
「まあ……おいしいねぇ」
もうひと口食べて、目元を和らげる。
「こんなお菓子は初めてだよ。なんだか、初めて食べるのに、懐かしい……不思議な味がするね」
クーラは、優しい顔で微笑んだ。
ベガもパイを頬張った。
今朝までいた家の食卓が、自然と思い浮かぶ。
向かいではクーラが、おいしそうに少しずつ食べていた。
二人でひと切れずつ食べ終えると、ベガは残った二切れをクーラへ差し出した。
「これも、どうぞ。泊めていただくお礼に」
「いいのかい? あんたの旅のおやつだろう」
「はい。食べてもらえたら、うれしいです」
「そうかい。じゃあ、ありがたくいただくよ」
クーラは大切そうに受け取った。
「じゃあ、そのお礼に、夕食はうちへ食べにおいで」
「そんな、かえってすみません」
「いいんだよ。一人分増えたって、どうってことないさ」
そう言って、隣の家を指した。
「私は隣に住んでいるんだよ。夕方になったらおいで」
「はい。ありがとうございます」
ベガは、今度はためらわずに頷いた。
*
夕食の席で、借りた家の話になった。
「あの家にはね、ノンナっていうおばあさんと、孫のマリーが住んでいたんだよ」
ベガの手が止まった。
「マリー……?」
「小さな女の子でね。犬とロバもいたんだよ」
鍛冶場で聞いた話が、頭の中でつながった。
*
夕食をごちそうになった後、ベガは宿代わりに借りた家へ戻った。
ここが、マリーと、その祖母の暮らしていた家だった。
不思議な気分だった。
考えてみれば、ブレーメンの家から一番近い村なのだから、その可能性は初めからあったのだ。
庭で遊んでいた鶏たちも、マトリスとよく似た色をしていた。
「ここで暮らしていたのか……」
改めて、小さな家の中を見渡す。
きれいに片づけられた部屋。
クーラが、今も手入れを続けているのだろう。
いつか、持ち主が帰ってくるのを待っている。
昼間聞いた言葉が、今になって胸に残った。
椅子を引き、腰を下ろす。
テーブルに手を置くと、向かいの空いた席に、マリーが座っているところを想像した。
ベガが知っている姿より、もっと小さなマリー。
そのそばにはティスがいて、外にはパリカールがいる。
庭では鶏たちが土をつつき、おばあさんがそれを眺めている。
食事のときには、どんな話をしたのだろう。
少しだけ、見てみたくなった。
ベガは椅子の背にもたれ、静かな部屋をもう一度眺めた。
自分が知っているマリーに出会う前の暮らしが、ここにあった。
「どんな暮らしだったんだろうな……」
小さくつぶやいて、しばらく、その席に座っていた。




