ーやっぱり甘くない幼女と少年の決意。ー
マリーの家庭教師を始めてから、ベガは自分のことも詳しく話すようになった。
この森へ来ることになった事情は、以前、クレメンタインに説明した。その場にはマリーもいたので、大まかなことは知っている。
けれど、祖父母のもとで暮らしていた頃のことや、伯爵家の養子となってからの日々までは話していなかった。
勉強の合間に、少しずつそんな話もするようになり、やがて、これからどうするつもりなのかという話になった。
「祖父母のところに戻ればいいと言われた。でも、俺を本家に渡した人たちのところには、戻りたくない」
学校には通わせてもらえる。
卒業したら、一人で生きていくつもりだ。
そう話したベガに、マリーは静かに尋ねた。
「お祖父様とお祖母様は、ベガが戻ることを断ったのですか?」
「……いや。そうじゃない」
「では、戻らないと決めたのは、ベガなのですね」
ベガは口をつぐんだ。
「本家から養子に欲しいと言われて、お二人は断れたのでしょうか」
「それは……」
「娘を亡くして、その娘が残した子供まで本家に渡さなければならなかったのですよね。お二人が望んでしたことなのか、確かめたことはありますか?」
答えは出てこなかった。
「私には、お祖父様とお祖母様が悪いとは思えません。むしろ、お気の毒です。ようやく孫が帰ってくると思ったら、その孫に帰りたくないと言われるのですから」
「……俺が悪いっていうのか」
「帰りたくないと思うのは、ベガの自由です。ただ、それを選んだのがご自分だということは、忘れないほうがよいと思います」
幼い声だった。
けれど、慰めるような甘さは少しもなかった。
「ご両親を亡くされたことは、お気の毒です。本家の扱いも、ひどいと思います。でも、頼れるお祖父様とお祖母様がいらっしゃる。学校にも通わせてもらえるのでしょう?」
ベガは小さくうなずいた。
「それなら、恵まれていることもあるのではありませんか」
ベガは、目の前の小さな少女を見つめた。
「……お前、まだ四歳だろう。ここに来るまでに、何があったんだ?」
「捨て子だった私を拾ってくださったおばあちゃんが亡くなったら、村長が私を売ろうとしたので、逃げてきただけですね」
ベガは言葉を失った。
逃げてきただけ。
そんな一言で済ませるような話ではないだろう。
けれど、マリーは淡々と続けた。
「ですから、帰れる場所があるのは、恵まれていると思うのです。今の私には、この館がありますけどね」
この館が見つかるまでは、帰る場所もなかったのだ。
自分と同じように、祖父母のところへ戻るかどうかを選べたわけではない。
「……悲しくはないのか?」
「どうしてですか?」
マリーは心底不思議そうにベガを見た。
「おばあちゃんは、もう痛くも苦しくもないんです。使い魔のタルドも、おばあちゃんと一緒に旅立ちました。一人じゃないんです」
ベガは黙って、その言葉を聞いていた。
「そして私には、おばあちゃんが残してくれたティスやパリカールやマトリスがいます。クレメンタインもいます。そして、あなたもいます」
自分まで数えられて、ベガはマリーの顔を見た。
「何より、安心して住める家があって、健康な体があって、食べるのに不自由しないんですよ?」
「……お前、本当に四歳なのか?」
「いたいけで、可愛くて、賢い幼女ですよ」
賢いが増えた……。
当たっているので、黙っておくことにした。
実際、マリーの賢さは普通ではなかった。
この幼い少女に、ベガが教えられることは少なくない。
勉強にしても、一度教えたことを、二度聞くことはない。
それどころか、一つ教えれば、そこから幾つものことを理解してしまう。一を聞いて十を知るとは、こういうことを言うのだろう。
家庭教師をしているはずのベガが、質問に答えるために考え込むことも増えていた。
その日も、今の王国についてひと通り説明を聞いたあと、マリーは少し考えてから口を開いた。
「この世界は、四百年ほど前から、あまり変わっていないのではありませんか?」
「……四百年?」
「ここの本に書かれていることと、ベガに教えていただいた今の暮らしに、大きな違いがないのです。少なくとも、この国については」
ベガは、開いていた本に目を落とした。
四百年前の本と今の暮らしを比べてみようなどと、考えたこともなかった。
「でも、平和で、暮らしも安定しているなら、悪いことじゃないだろう?」
「ええ。暮らしている人にとっては、よいことだと思います。ただ、変える必要がなければ、今のままでよいと考える人も多くなるのでしょうね」
マリーは本の端に、小さな指を添えた。
「例えば、何度も洪水に遭う土地でしたら、水を防ぐ方法や、家を流されないようにする方法を考えます。今までと同じことをしていては、また困るからです」
「困るから、工夫するのか」
「はい。もちろん、災害が多すぎれば、立て直すだけで精いっぱいになってしまいますけれど」
マリーは、ベガに教わったことを確かめるように続けた。
「この国は、今は戦争の危険も少ないのですよね。魔物が現れても、今ある武器や魔法で対処できる。お話を伺う限り、国の政にも、暮らしを脅かすほどの腐敗はないようですし、大きな天変地異も長く起きていないのでしょう?」
「ああ。俺が習った範囲では、そうだな」
「でしたら、苦労して新しい方法を探さなくても、生きていけるのかもしれません」
「……だから、変わらない?」
「理由の一つにはなると思います。暮らしが保障されていれば、努力をしなくなる人もいるでしょうし。わざわざ失敗するかもしれないことを試すより、今までどおりのほうが安心ですから」
ベガは、目の前の幼い少女を見つめた。
自分が教えたのは、今の国の制度や、人々の暮らしだった。
それをマリーは、四百年前の本と照らし合わせている。
「……そんなことまで、本に書いてあったのか?」
「いいえ。ベガのお話を聞いて、そうではないかと思っただけです。私がまだ知らない変化も、あるかもしれません」
当然のように答えてから、マリーは首をかしげた。
「ですから、そのあたりも教えていただきたいのですけれど」
ベガは、すぐには答えられなかった。
四百年の間に、何が変わり、何が変わらなかったのか。
そんな問いを向けられるとは、思ってもいなかった。
「……調べてみないと、わからない」
「では、わかったら教えてください」
「ああ」
そう答えたベガに、マリーは続けた。
「幸せな停滞は、悪くないと思います。ただ、とても打たれ弱い国にはなると思います」
「打たれ弱い?」
「今の暮らしが、この先も続くとは限りませんから。他の国も、同じように停滞しているのでしょうか」
マリーの指が、本の上で止まった。
「国同士の力の釣り合いが崩れたとき、この国はどうなるのでしょうね」
その言葉が、妙に心に刺さった。
*
その夜、ベガは寝台に横たわりながら、マリーの言葉を思い返していた。
今まで勉強してきたのは、伯爵家の跡継ぎになるためだった。
必要だと言われたことを覚え、求められたとおりに答える。それが、自分のすべきことだと思っていた。
けれどマリーは、教えられたことを覚えるだけでは終わらない。
なぜ、そうなっているのか。
それが変わったら、どうなるのか。
ベガが当たり前だと思っていたことに、次々と問いを向けてくる。
自分は、この国のことさえ、知っているつもりでいただけなのかもしれない。
魔法学校に入ったら、もっと勉強しよう。
そして、教師になろう。
そう思った。
ただ、教える立場になる前に、世界を見てみたい。
他の国では、人々はどんなふうに暮らしているのか。何を学び、何に困り、どんな工夫をしているのか。
自分の目で見て、話を聞いて、考えてみたい。
教師になってからも、休みには旅に出ればいい。
そこで知ったことを持ち帰り、生徒たちに話すのだ。
覚えたことを答えさせるだけではなく、その先を考えさせられる教師になりたい。
今日、マリーが自分にしたように。
ベガは寝返りを打った。
この屋敷での暮らしは楽しい。
けれど、春になったら伯爵家へ戻ろう。
そして、魔法学校を卒業するまでの学費も、寮費も、生活費も、きちんと保障してもらおう。
学校には通わせると言われている。
それなら、何をどこまで負担してもらえるのか、曖昧にせず確かめなければならない。
年老いた祖父母に、自分の学費や暮らしのことで負担をかけるわけにはいかない。
学校には、以前から付き合いのある貴族の子供たちも来るだろう。
見下されることもあるかもしれない。
落ちぶれたと、笑われるかもしれない。
それを想像すると、やはり胸の奥が重くなった。
それでも。
学校に通える。
健康な体があり、その先に、やってみたいこともできた。
誰かに笑われたからといって、それがなくなるわけではない。
ずいぶん、マリーの考え方に染まってしまった気がする。
ベガは、窓から差し込む月の光に目を向けた。
きっと、負けないと思った。




