ー家庭教師のベガー
書斎の本棚の前には、広いカーペットが敷かれていた。
ベガとマリーは、その上にクッションを置いて座っていた。二人の前には、大きな地図が広げられている。
「すごいな……。これ、本当に四百年前の地図なのか?」
地図の端を押さえながら、ベガがつぶやいた。
すぐ近くで本棚を整理していたクレメンタインが、手を止めた。
「さようでございます。ソリウス様が直接お描きになった地図でございます」
「僕の記憶が間違っていなければ、今の地図とほとんど変わらないよ。この四百年、新しい国はできていないし、国同士の戦争も起きていないから。今でも十分使えると思う」
「そうですか」
マリーは、しばらく地図を眺めていた。
「クレメンタイン。歴史書も持ってきていただけますか」
「かしこまりました」
運ばれてきた歴史書を脇に置き、マリーはベガに向き直った。
「では、まず現在の国王陛下のお名前から教えてください」
ベガはうなずき、説明を始めた。
国王の名前に続いて、地図の北側を指す。
「王都は、この山脈の麓にあるんだ。王宮は王都の北側にあって、ウィンター王家が暮らしている」
そこから指を動かし、三つの領地を順に示した。
「東がイーストン公爵家、西がウェストン公爵家、南がサウストン公爵家。それぞれの公爵領の中に、伯爵領や子爵領、男爵領があるんだ」
「王家の直轄地と、三つの公爵領に分かれているのですね」
「うん。それから、王都の山側にはダンジョンが多いんだ。そこで採れる魔石や、魔物から得られる素材を、王都の人たちが加工して、魔法道具なんかを作っている。それを他国に売って、外貨を稼いでいるんだよ」
マリーは、王都の背後に連なる山々へ目を向けた。
山脈の麓にある都。その山側には、いくつものダンジョン。
地図に描かれた線の向こうに、少しずつ人々の暮らしが見えてくる。
「基本的な仕組みは、あまり変わっていないのですね」
マリーは歴史書を開き、地図と見比べた。
「内乱などは、なかったのですか?」
「少なくとも、僕が教わった歴史では、大きなものはないよ。この国を最初に作った王様の教えが、今も守られているんだ」
ベガは、地図に描かれた王都を指した。
「その王様には子供が四人いてね。三人に公爵家を興させて、一人に王家を継がせたんだ」
「それが、今の三公爵家なのですね」
「うん。それから、王家の結婚相手は公爵家から選ぶこと。同じ公爵家から続けて迎えることは認めない。そう決めて、三家の間で公平を保つようにしたんだ」
マリーは、三つの公爵領を見比べた。
「そして王様は、四人の子供を集めて、四本の矢を取り出したそうだよ」
「……矢、ですか」
「そのうち一本を、一番力の強い息子に折らせた。それは簡単に折れたけれど、残りの三本をまとめて渡すと、今度は折れなかった」
一本では折れても、束ねれば折れない。
マリーには、覚えのあるお話だった。
ただ、最初に用意された矢が一本多い。
「王様は、こうおっしゃったそうだよ。この三本の矢は、お前たち三つの公爵家だ。そして、その三本を束ねるのが王家の仕事だ。そうやって、国を守るのだ、と」
「……どこかで聞いたことのあるようなお話ですね」
「知っていたのか?」
「よく似たお話でしたら」
マリーは少し考えてから、尋ねた。
「なぜ、一本は折ってしまったのですか?」
「一人ひとりでは弱い、ということを教えたかったんだと思う。たとえ王家であっても、一人では立っていけないってことかな」
ベガは、三つの公爵領と、王家の直轄地を指した。
「三つの公爵家があって、それを束ねる王家がある。全部そろって、初めてこの国は強くなるんだと思う」
「なるほど。王家だけは折れない、というお話ではないのですね」
「王家の矢も、同じ矢だからね」
マリーは、うなずいた。
「目先の利益に執着して身内で争い、他国からの侵略を招くことになれば、本末転倒であろう。そういうお言葉も残されているんだ」
「国を守るために、まず身内で争わないように、ということですね」
「うん。貴族たちもこの教えを守っていて、身内での争いをひどく嫌うんだ。争いを起こせば、家を取り潰されることもあるからね」
マリーは、もう一度地図を見下ろした。
矢は折れなくても、家は潰れるのですね。
*
国の成り立ちを聞き終えても、マリーの質問は続いた。
「学校には、どのような方が通えるのですか」
「冒険者ギルドでは、何をお願いできるのでしょう」
「通貨の種類と、それぞれの価値も教えてください」
ベガが一つ答えるたびに、次の質問が出てくる。
隣の帝国のこと。この国が抱えている問題。そして、魔法が人々の暮らしの中で、どの程度使われているのか。
「ちょっと待って。そこは、僕も詳しくは知らないんだ」
「では、ご存じの範囲で構いません」
ベガは腕を組み、記憶をたどった。
家で教わったこと。大人たちが話していたこと。自分で見聞きしたこと。
知っていることと、はっきりしないことを分けながら、懸命に説明していく。
マリーは、ときおり歴史書を開いていたが、何も書き留めてはいなかった。
それなのに、一度話した名前も、通貨の価値も、正確に覚えている。
「……さっきの公爵家の名前、もう一度言おうか?」
「覚えましたので、大丈夫です」
「三家とも?」
「はい。東のイーストン家、西のウェストン家、南のサウストン家ですね。続けてください」
ベガは、少しだけ休憩するつもりだった口を閉じた。
マリーは、次の説明を待っている。
ベガは座り直し、今度は街の暮らしについて話し始めた。
水道や下水道。それらを支える魔法のこと。
そこまで聞いたところで、マリーが顔を上げた。
「では、魔法のおかげで、上下水道もきちんと整備されているのですね」
「うん」
「それは何よりです」
先ほどまでと比べて、明らかにほっとした声だった。
ベガはマリーの顔を見た。
「……気にするところは、そこなのか?」
「そこが一番大事です」
マリーは、きっぱりと答えた。
中世ヨーロッパを思わせる街並みでも、上下水道はしっかり整備されている。
これほどの朗報があるだろうか。
昔、本で読んだ街の衛生事情が、頭をよぎった。
マリーは、ぶるっと身震いした。
現代日本人には、あれはきっと耐えられませんね。
「……今日教えた中で、一番うれしそうだな」
「安心して暮らせるかどうかに関わりますから」
「国王陛下の名前よりも?」
「お名前を知らなくても、お手洗いには行きますので」




