可愛い顔して・・・
四百年前の館だというのに・・・
ベガは、廊下の窓から差し込む光に目を細めた。
磨き上げられた床にも、窓枠にも、埃ひとつない。古びたところを探すほうが難しいくらいだった。
最初は、クレメンタインが掃除をしているのだと思っていた。
けれど、違った。
床に泥を落としてしまったとき、拭くものを取りに行って戻ると、もう消えていたのだ。
館には、清掃の魔法がかかっているらしい。
便利だとは思う。
思うのだが。
「……馬小屋にまで、かけるか?」
ベガはブラシを手に、きれいな馬房を見回した。
臭わない。
糞も尿も、いつの間にか跡形なく消えている。
残っているのは、藁だけだった。
パリカールが使っているクッションまで、翌朝にはきれいになっている。
馬小屋の管理を引き受けたはずだった。
ところが、仕事といえばブラッシングと放牧くらいである。
ブラシを動かすと、ニゲルが気持ちよさそうに首を伸ばした。
「お前はいいよな。きれいにしてもらって、草を食べて」
ニゲルは、のんびりと鼻を鳴らした。
否定する気はないらしい。
*
ベガの部屋は、二階の客室になった。クレメンタインも、同じ二階の客室を使っている。
マリーは、ほとんど書斎にこもっていた。
食事のときには出てくるものの、食べ終わると、また戻ってしまう。
たまに、それ以外の時間に姿を見かけることもあった。
そんなときは、大抵マトリスに話しかけている。
「赤壁の戦いでは、船をつないでしまったことが、裏目に出るのですよ」
「コケ」
「揺れを抑えるためだったのですけれど、火をつけられたときに逃げられなくなってしまうのです。ひとつ困ったことを解決しても、別の困ったことが起こるのですね」
マリーは、マトリスの前にしゃがんでいた。
マトリスは首を傾げ、片方の目でマリーを見上げている。
「それから、風向きも大切なのです。火を使うなら、こちらへ戻ってきては困りますから」
「コケ」
「ええ。そこへ都合よく東南の風が吹くのですけれど……こちらの世界でしたら、魔法でどうにかなってしまうのでしょうか?」
マリーは真剣に考え込んだ。
「でも、相手にも風を操る魔法使いがいたら、困りますね」
「コケッ」
「そうですよね。簡単にはいきませんね」
ベガは、少し離れたところで足を止めていた。
誰と誰が戦っているのか。
なぜ船をつなぐのか。
そもそも、どうして鶏に戦の話をしているのか。
何ひとつわからない。
ただ、マリーは納得した顔をしているし、マトリスもそれらしく応じていた。
会話には、なっているらしい。
ベガは、そっとその場を離れた。
この館では、わからないことをひとつずつ気にしていたら、きりがなかった。
*
食事は、農園の草原にある、木陰のテーブルで取っていた。
テーブルと椅子は、マリーが収納ボックスに入れて運んできたものだ。
あれほど大きな家具を、まとめて持ち運べる。
珍しい能力を、ずいぶん気軽に使うものだと思った。
クレメンタインの料理は、おいしかった。
農園の野菜も果物も新鮮で、川で獲れる魚も、さまざまな料理になって食卓に並んだ。
今日の魚も、表面は香ばしく、中はふっくらと焼けている。
おいしい。
それに、不満はない。
ただ、そろそろ肉が食べたかった。
魚を口へ運びながら、ベガがそんなことを考えていると、向かいに座るマリーが顔を上げた。
「久しぶりに、お肉が食べたいです」
気が合った。
ベガがうなずきかけた、そのときだった。
「コケッ!?」
マトリスが、ばたばたと羽を広げた。
駆け寄ってきたかと思うと、ベガの椅子の後ろへ潜り込む。
同時に、近くで草を食べていたニゲルも顔を上げた。
マリーを見た。
皿を見た。
それから、そろそろとベガの後ろへ回ってきた。
「……お前まで来るな。隠れてないぞ」
椅子の後ろには鶏。
その後ろには馬。
ベガひとりで、どう隠せというのか。
マリーは、そんな一頭と一羽を見つめた。
「あなたたちを食べるとは、言っていませんよ?」
マトリスが、ベガの脚の陰から顔を出す。
ニゲルは、まだ動かなかった。
「こちらには、お肉の蓄えはないのですか?」
マリーが尋ねると、クレメンタインはうなずいた。
「はい。以前のご主人様は、必要なときに狩りへ出ていらっしゃいました」
「牛乳やバターなどは、どうしていたのですか?」
「乳製品は、近くの村で買い求めておりました」
「そうなのですね」
マリーが考え込む。
ベガは、手元の皿へ目を落とした。
ウサギくらいなら、獲れるだろうか。
「狩りに行かれるのでしたら、ボウガンがございます」
クレメンタインはそう言うと、館へ続く階段のほうへ向かった。
ほどなくして、ボウガンと矢を抱えて戻ってくる。
「こちらをお使いください」
「あ、ああ」
差し出されるまま、ベガは受け取った。
足元で、ティスが立ち上がる。
尻尾を振り、扉のほうへ数歩進んでは振り返った。
さっきまでベガの後ろにいたニゲルも、もう隣に並んでいる。
「……食べられるほうじゃないとわかったら、行くのか」
ニゲルが鼻を鳴らした。
「獲物が獲れましたら、私が調理いたしますね」
「では、お願いします」
マリーが、ほっとしたように言った。
「俺、まだ行くとは……」
言いかけて、手元のボウガンを見る。
自分も、肉が食べたかったのは確かだった。
「……わかった。行ってくる」
ティスの尻尾が、いっそう大きく揺れた。
マリーは、その姿を不思議そうに見つめた。
「……こちらに来てから、とても元気ですね?」
声をかけられたティスは、楽しそうに尻尾を振った。
*
草原を離れ、扉を通って馬小屋へ戻る。
外へ続く戸を開けると、冷たい空気が頬を刺した。
目の前には、雪に覆われた森が広がっている。
つい先ほどまで草の上に座っていたというのに、今は吐く息まで白かった。
「……本当に、どうなってるんだろうな」
ベガは戸を閉め、ニゲルの背に乗った。
ティスは、もう雪の上へ飛び出していた。
「ウサギだからな」
前を行く小さな背中に、念を押す。
「ウサギか、そのくらいの獲物でいいんだぞ」
貴族のたしなみとして、狩りの経験はある。
大人たちについて、ウサギやキツネを追ったこともあった。
ウサギなら、何とかなるはずだ。
小さなマリーが食べる分など、たかが知れている。自分の分を入れても、一羽か二羽あれば十分だろう。
木々の間を進むうちに、ティスが立ち止まった。
雪をかぶった茂みの向こうを、じっと見つめている。
「いたのか?」
ベガはニゲルから降りた。
雪を踏みしめ、ボウガンを構える。
がさり、と音がした。
ウサギにしては、大きな音だった。
枝が揺れ、積もっていた雪が落ちる。
その奥で、太い枝がばきりと折れた。
「……ウサギじゃないな」
茂みを押し分けて現れたのは、猪だった。
それも、ひどく大きい。
分厚い肩。濡れた鼻先。口元から突き出した、鋭い牙。
ベガは、ゆっくりと一歩下がった。
猪が顔を向ける。
小さな目が、こちらを捉えた。
「……もっと小さいのにしないか?」
ティスに言ったつもりだった。
返事の代わりに、猪が雪を蹴った。
ベガは引き金を引いた。
矢が肩へ突き刺さる。
止まらない。
「嘘だろっ!」
身体強化をかけ、横へ飛び退いた。
巨体が、すぐ脇を駆け抜ける。
蹴り上げられた雪が顔へかかった。振り向いたときには、猪もこちらへ向き直っていた。
次の矢を装填する時間はなかった。
ベガは手を突き出し、攻撃魔法を放った。
衝撃を受けた猪が、頭を振る。
その隙に、太い木の陰へ走った。
足が雪に沈む。
背後から、荒い鼻息が迫った。
「少しは、ひるめよ!」
幹を回り込み、もう一度魔法を放つ。
猪が足を止めた。
けれど、倒れない。
肩から矢を生やしたまま、じりじりとこちらへ向き直る。
ベガは、ボウガンを握り直した。
手が汗で滑った。
これまでの狩りでは、追うほうだった。
大人たちも、そばにいた。
目の前の牙を、自分ひとりでどうにかしたことなどない。
後ずさった足が、雪に隠れた木の根に引っかかった。
体が傾く。
猪が頭を低くした。
まずい。
その視界を、小さな影が横切った。
「ティス、危な――」
ティスが口を開いた。
空気が、びり、と震えた。
放たれた魔法の波動が、猪の頭を吹き飛ばした。
巨体が傾く。
ベガは慌てて身をよじった。
すぐそばへ猪が倒れ込み、雪が大きく跳ね上がった。
それきり、動かなくなった。
「…………」
ベガは雪の上に座り込んだまま、猪を見つめた。
矢でも止まらなかった。
魔法でも倒せなかった。
それが、一撃。
ティスが振り返った。
嬉しそうに、尻尾を振っている。
ベガは猪を見た。
ティスを見た。
もう一度、猪を見た。
「……血抜きしなくてもいいな」
口にしてから、黙った。
今、真っ先に考えることは、それだっただろうか。
ティスが近づき、手に鼻先を押しつけてくる。
ベガは、その頭を撫でた。
「……助かった。ありがとうな」
尻尾が、ぶんぶんと揺れた。
*
問題は、その後だった。
「……これを、持って帰るのか」
ベガは、改めて猪を見下ろした。
追われていたときにも大きいと思ったが、運ぶとなると、なお大きい。
収納ボックスなどという珍しい能力は、持っていない。
あるのは、身体強化と、自分の腕だけだった。
ベガは猪の後ろ脚をつかんだ。
魔法をかけ直し、力を込める。
重い胴体が、ずるりと動いた。
運べないことはない。
運べないことはないが。
「……ウサギなら、片手で済んだのに」
ニゲルは、少し先で待っていた。
ティスは隣を軽やかに歩いている。
雪の上を跳ねては戻り、ベガを見上げて尻尾を振った。
「本当にうれしそうだなぁ」
ベガは後ろ脚を持ち直し、再び猪を引きずり始めた。




