あの子はどこ?
王都にある、イーストン公爵家のタウンハウスにて。
六歳になったノクティスと、四歳のエリスが引き合わされた。
庭に面した明るい部屋には、子供たちのための小さなテーブルセットが用意されていた。椅子の背には繊細な彫刻が施され、白いテーブルクロスの上には、花瓶と小さな磁器のカップが二つ並んでいる。
中央の皿を飾るのは、おままごとのお菓子のように小さなフルーツタルトだった。
縁を波形に焼き上げた生地に、淡い黄色のクリームが詰められている。その上には、赤い実や艶のある紫色の実、薄く切った橙色の果物が、花びらのように並べられていた。
けれど、今のエリスは、お菓子よりも向かいの席が気になっていた。
ノクティスの金髪は、さらさらとしたまっすぐな髪だった。窓から差し込む光を受け、額にかかる細い毛先まで明るく輝いている。
長い睫毛の下には、澄んだ青い瞳。すっと通った鼻筋と、形のよい唇。幼い頬の丸みを残しながらも、その顔立ちは美しく整っていた。
襟元まできちんと整えられた上着もよく似合っている。
まるで、絵本から抜け出してきた王子様だった。
エリスは、そっとその顔を見上げては、目が合う前に視線を落とした。そのたびに、白い頬が薔薇色に染まる。
彼女の髪は、父譲りの青みがかった銀色だった。柔らかな髪を耳の脇でまとめたリボンが、顔を動かすたびに揺れる。
ふっくらとした頬に、小さな鼻。青い瞳は大きく、長い睫毛に縁取られていた。椅子に腰掛けた足はまだ床に届かず、揃えた靴の先がドレスの裾から少しだけのぞいている。
なんて可愛いカップルなのでしょう。
控えているメイドたちは、二人を交互に眺めては、目を合わせて微笑んでいた。
ただ、当の王子だけは、黙ってうつむいていた。
「……このお菓子は、とてもおいしいのですよ」
エリスが、勇気を出して声をかけた。
小さな指で示したのは、赤い実を飾ったタルトだった。
ノクティスは、わずかに顔を上げた。けれど、お菓子に目を向けただけで、返事はしなかった。
エリスは微笑んだまま、少し待った。
「わたくしは、赤い実のものが好きです」
もう一度、話しかけてみる。
ノクティスの唇がかすかに動いたように見えたが、言葉は聞こえなかった。
やがて、エリスの指が、そっと膝の上へ戻った。
そばで見守っていたセレナ公爵夫人は、二人の顔を見比べた。
黒髪を優雅に結い上げ、深い紫色の瞳をした女性だった。白と紫のドレスの袖口から細い手を伸ばし、菓子皿を少しだけ王子の方へ寄せる。
「ノクティス様も、お一ついかがですか」
ノクティスは小さく頭を下げたものの、手を伸ばさなかった。
磁器の触れ合う、かすかな音がした。
エリスは自分の皿を見つめている。先ほどまで嬉しそうだった口元も、今はどう笑えばよいのかわからないように、頼りなく結ばれていた。
セレナがお菓子の話をしても、エリスが短く答えるだけで、その先が続かない。
明るい部屋の中に、沈黙が落ちた。
セレナは娘の顔を見た。それから、うつむいたままの王子へ目を移す。
このまま席に座らせていても、二人ともますます口を開きづらくなるばかりだった。
ふと窓へ目を向けると、庭の木々が風に揺れていた。
「……お庭へ、お散歩に行きましょうか」
セレナは明るく声をかけた。
エリスが顔を上げる。
「珍しい使い魔の子が見られるかもしれませんよ」
「今日も来ているでしょうか?」
「ええ。少し探してみましょう」
椅子を引いてもらうと、エリスは床へ降り立った。それからノクティスを振り返り、少し控えめに誘った。
「ノクティス様も、ご一緒に」
ノクティスは黙って席を立った。
庭を囲む柵の向こうには、森が広がっていた。
エリスは歩きながら、木々の枝を見上げている。右を見て、左を見て、それから、ひときわ大きな木の前で足を止めた。
「あっ」
小さな指が枝先を指した。
「ノクティス様、あそこにいました!」
葉の間に、白い生き物がいた。
尻尾まで合わせても、二十センチほどしかない、小さなイイズナだった。細長い体を柔らかな白い毛が包み、枝の上に揃えた足も、驚くほど小さい。
白い顔には、つやつやした黒い目と、淡い桃色の鼻があった。小さな丸い耳の脇から、細いひげが伸びている。
頭にかぶっているのは、星模様の三角帽子だった。
ゆったりと垂れた帽子の先には、丸い房がついている。首を動かすたびに、その房がふわふわと揺れた。
首には、青い丸い玉と銀色の細い筒を交互につないだ飾りが巻かれていた。革紐を通して連ねたそれは、まるでブレスレットのようだった。首の後ろには小さなリボン結びがあり、紐の端が白い毛の上にのぞいている。
声に気づいた白い子が、こちらを向いた。
こてん、と首が傾く。
帽子の房が枝に触れた。白い子は振り返り、前足で房を引き寄せようとしたが、届かない。体ごと向きを変えた拍子に、今度は帽子が片側へずれた。
小さな前足で、その縁をちょいちょいと押し上げる。
エリスが嬉しそうに笑った。
「可愛いでしょう?」
ノクティスも、声につられるように枝先を見上げた。
その青い瞳が、大きく見開かれた。
白い顔。黒い目。星模様のナイトキャップ。
そして、首に巻かれた青い玉と銀色の筒。
唇が開いた。
「……っ」
けれど、声にはならなかった。
息をのんだまま、もう一度、その姿を確かめるように目を凝らす。
枝の上では、白い使い魔のレアも、ノクティスを見つめていた。
知っている。
あの子のことは、知っている。
けれど、黒い目は、すぐにその隣へ動いた。青みがかった銀髪の少女を見て、それから、後ろに立つ黒髪の夫人を見た。
違う。
僕が待っているのは、あの子じゃない。
まりは、どこ?
声にならない言葉が、頭の中でつながっていく。
レアは枝の上で身を伸ばし、屋敷へ続く道をのぞき込んだ。
その下で、ノクティスの膝から力が抜けた。
エリスが振り向いたときには、小さな体が地面へ崩れ落ちていた。
ノクティスが倒れたことで、イーストン公爵家の屋敷は大騒ぎになった。
エリスの悲鳴に、セレナが振り返った。駆け寄った従者が王子を抱き上げ、メイドが屋敷へ走る。
枝先に残されたレアを、振り返る者はいなかった。
客室に医師が呼ばれている頃、書斎では、前公爵の怒声が響いていた。
「いったい、どういうことだ!」
セレナの父であり、エリスの祖父に当たる男だった。
後ろへ撫でつけた黒髪には白いものが交じっていたが、娘と同じ深い紫色の瞳には、鋭い光が宿っている。
広い肩に厚い胸板。年を重ねても、そのがっちりとした体格は衰えていなかった。肘掛けをつかむ手も大きく、椅子に腰掛けているだけで、向かいに立つ相手を圧するものがあった。
「結婚を望んだのは、あちらではないか。それが今日の態度はなんだ。エリスが何を話しかけても、ろくに返事もせん!」
アレクサンダーは、静かに義父を見た。
長身で細身の公爵は、義父を前にしても姿勢を崩さなかった。青みがかった銀髪が額の上で揺れ、青い瞳が静かに相手を見据えている。
濃紺の上着に施された金の装飾が、その端正な姿を引き締めていた。
「そのお話が出たとき、殿下はまだ二歳でいらしたでしょう。エリスに至っては、まだ妻のお腹の中でした」
「だから何だ。お腹の子と結婚すると、ご自分で言い張っておられたのだぞ」
「ええ。ですが、幼い頃のお言葉だけで、今のお気持ちまで決めつけるわけにはまいりません」
「王族のお言葉だ。なかったことにはできん」
義父の強い口調に、アレクサンダーは一度言葉を切った。
「……だからこそ、慎重に進めるべきだと申し上げているのです」
「何をいまさら」
「今日は、子供たち同士で親しくなるための茶会です。婚約を取り決める席ではありません」
「そのために、こうして機会を設けたのだろうが」
「ええ。ですが、まだ早かったのかもしれません」
前公爵の眉が跳ね上がった。
「早い?」
「殿下は六歳、エリスは四歳です。もう少し成長を待ってからでも――」
「待っている間に、ほかの家が話を持ち込んだらどうする」
低く言い放ち、前公爵は椅子から身を乗り出した。
「先にお話があったのはこちらだ。今のうちに、きちんと形にしておくべきだろう」
「エリスの気持ちもあります」
「あの子が殿下をお慕いしていることくらい、見ればわかる」
「今日、初めてお会いしたのですよ」
「それで頬を染めていたではないか。何の問題がある」
アレクサンダーの青い瞳が、じっと義父を見つめた。
「……殿下のお気持ちを、まだ何も伺えていないことです」
前公爵の大きな手が、肘掛けを強く握った。
書斎で交わされる言葉は、客室までは届かなかった。
厚いカーテン越しに、柔らかな光が差し込んでいる。
大きなベッドの中で、ノクティスは眠っていた。枕に広がった金髪は乱れ、額に細い束がかかっている。
エリスは、ベッドのそばへ寄せられた椅子に座っていた。
医師の診察が終わっても、部屋を出たがらなかったのだ。母が少し席を外している間も、控えたメイドと一緒に、眠る王子を見守っていた。
膝の上には、小さなハンカチがあった。
何度も握り直したせいで、端のレースがくしゃくしゃになっている。
「……ノクティス様」
呼んでみても、返事はなかった。
エリスは唇を結び、ベッドの縁を見つめた。
あの白い子を見つけたことを、喜んでもらいたかった。
今度こそ、一緒に笑ってもらえると思ったのに。
そのとき、シーツの上に置かれたノクティスの指が動いた。
エリスは、はっと顔を上げた。
閉じられた瞼が、わずかに震える。眉が寄り、唇からかすかな息が漏れた。
「……まり……」
エリスは身を乗り出した。
「ノクティス様?」
眠ったままのノクティスが、もう一度、その名を呼んだ。
「……まり……」
お茶の席では、一度も聞けなかった声だった。
自分が何度話しかけても返ってこなかった声が、今は、ここにいない誰かを呼んでいる。
エリスは口を開きかけた。
けれど、何も言えなかった。
まり。
知らない名前だった。
女の子だろうか。どこにいるのだろう。ノクティス様と、どんなお話をするのだろう。
ハンカチを握る指に、少しだけ力がこもった。
やがてノクティスの眉が緩み、寝息が静かに整った。
エリスは、その顔を見つめ続けていた。
まり。
たった二文字の名前を、忘れることができなくなった。




