甘くない幼女
眠り姫の暴走.txt
眠り姫の暴走
人形のように美しく眠っていた少女が、突然、がばっと起き上がった。
手をつくことも、横向きになることもない。腹筋の力だけで、上半身が勢いよく跳ね起きた。
美少女の起き方ではなかった。
ティスがびくりと跳び、マトリスが羽をばたつかせた。その羽音に、パリカールとニゲルまで慌てて身を引く。
ベガは目を見開き、マリーも瞬きをした。
ぜんまいじかけの人形のような起き方だった。
「……オートマタでしょうか」
マリーがつぶやく横を、ベガが足早に通り過ぎた。
「大丈夫ですか?」
少女のそばで膝を折り、目線を合わせる。支えようと差し出しかけた手は、彼女がしっかり座っているのを見て、静かに下ろした。
「どこか、痛むところはありませんか?」
少女は戸惑った顔でベガを見た。それからマリーへ、さらに、そのそばに寄り添う動物たちへと視線を移す。
「……あなたたちは、誰ですか?」
「それはそうですね。まだ、ご挨拶もしていませんでした」
マリーは一歩、前へ出た。
「はじめまして。私はマリー。扉を開けし者です」
少女が大きく目を見開いた。
「では、あなたが私の新しいご主人様ですね!」
「……はい?」
「私の名前はクレメンタイン。この家のメイドです」
先ほどまでの戸惑いは消え、少女はマリーを見つめて、にっこりと微笑んだ。
今度はマリーが戸惑う番だった。
「でも、なぜこの子が、この家の主なんだ?」
ベガが尋ねた。
「扉を開けた方だからです」
クレメンタインは迷わず答えた。
ベガは腑に落ちない様子でマリーを見てから、少女へ向き直った。
「君が、クレメンタインなのか?」
その顔を、あらためて確かめるように見つめる。
「僕は、ベガ・ローゼンヴァルト。ローゼンヴァルト伯爵家の一族の者だ」
「……ローゼンヴァルト伯爵家?」
クレメンタインの笑顔が消えた。
「今、ローゼンヴァルト伯爵家の一族だとおっしゃいましたね?」
少女は、ゆっくりとベガへ向き直った。
その声に、マリーのそばから顔を出していたティスが、そっと頭を引っ込めた。
「待ってくれ。僕は、君に話を――」
「あの家の方でしたら、私にも言いたいことがあります!」
クレメンタインが身を乗り出した。
ベガは驚きながらも、立ち上がろうとする彼女に手を差し出した。
「急に動かないほうがいい。長く眠っていたんだろう?」
「今は、そのようなお気遣いをいただいている場合ではありません!」
「ですが、転んでしまっては困りますよ」
二人の間に、マリーが声を挟んだ。
クレメンタインの動きが止まる。
「ご主人様。でも、この者は――」
「はい。お話は伺いますから、まずは座っていてください」
マリーは少女のそばへ歩み寄った。
「私たちは、まだ事情がよくわかっていません。一つずつ、お聞かせいただけますか?」
クレメンタインは唇を結んだまま、ベガを見た。
ベガは差し出していた手を下ろし、静かにうなずいた。
「僕も、君の話を聞きたい」
「……わかりました。ご主人様が、そうおっしゃるのでしたら」
クレメンタインは座り直した。
ただし、背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上で握りしめている。
マリーは、その手元をちらりと見た。
どうやら、まだ少しも収まってはいないらしかった。
「本物のクレメンタイン様は、この家の前の主の、婚約者でした」
しばらくして、少女が口を開いた。
「私は、その方に似せて作られたものです。同じ姿と、お名前をいただきました」
マリーは少女の整った顔を見つめた。
「ご主人様は、実のお兄様に追い出され、ここへいらしたのです。そして、この家をお作りになりました」
「それは、何年前のお話ですか?」
クレメンタインは、少し考えるように首を傾げた。
「今は、星の暦の何年でしょうか?」
「千五百年だ」
ベガが答えた。
クレメンタインは目を見開いた。
すぐには何も言わず、草原の向こうにある扉へと視線を向ける。
「……そんなに時間が経っていたのですね。それでは、もう四百年近くになります」
「四百年……」
マリーは小さく繰り返した。
目の前の少女にも、周囲の景色にも、それほど長い年月が過ぎたようには見えない。
「この空間では、普通に時間が流れているのですか?」
「いいえ。時間停止機能のついた収納ボックスは、ご存じでしょうか?」
「はい」
「この亜空間は、あれを大きくしたものと思っていただければよいかと」
マリーは、あらためて周囲を見渡した。
「……農園と草原が入るほど大きな、収納ボックスですか」
「はい」
クレメンタインは、ごく当たり前のことのようにうなずいた。
「それほどのものを、お一人で?」
「もちろんです」
クレメンタインの背筋が、さらに伸びた。
「ご主人様は、とても豊富な魔力をお持ちでした。ですが、優れていたのは魔力の量だけではありません」
膝の上で握られていた手が、少し浮いた。
「魔法を理解し、組み合わせ、新しいものを生み出す。そのことにかけて、ご主人様に並ぶ方などいらっしゃいませんでした」
声に誇らしさがにじんでいた。
「この土地に満ちる魔力を、ご主人様は愛していらしたのです。そして、ここを、誰にもご自分の暮らしを邪魔させない場所にしようとなさいました」
ベガも、周囲の景色を見渡した。
「建物だけではありません。この家が収まる空間も、土地の魔力を取り込んで家を維持する仕組みも、すべてご主人様がお作りになったのです。時間さえ止められるのですよ」
「……すごいことだとは思うのですが、どのくらいすごいのか、私には少し難しいです」
「とてもすごいのです」
クレメンタインは、きっぱりと言った。
マリーはうなずいた。
そこだけは、よく伝わってきた。
「それほどの方でしたのに、ご家族は、ご主人様を認めようとなさいませんでした。特に、お兄様は」
少女の声が硬くなった。
「双子の弟が、ご自分より優れていることが許せなかったのでしょう。ご主人様が新しい魔法をお作りになっても、喜ぶどころか疎まれたのです。そして、とうとう追い出されました」
ベガは黙って聞いていた。
「ですが、ご主人様には、お一人で生きていくだけの力がありました。この土地を見つけ、家を作り始められたのです」
「婚約者の方と、暮らすためにですね」
「はい。クレメンタイン様をお迎えするのですから、不自由な暮らしをさせるわけにはまいりません」
クレメンタインは、扉を見つめた。
「安心して、快適に暮らせるように。ご主人様は、お一人で、この家を作り上げられました。そして、すべてが整ってから、お手紙をお書きになったのです」
マリーは静かに耳を傾けた。
「迎える準備ができたと。ご自分の使い魔に託して、クレメンタイン様のもとへ送りました」
そこで、少女の言葉が途切れた。
家の素晴らしさを語っていた口元が、固く結ばれる。
「ですが、使い魔が持ち帰ったのは、お返事ではありませんでした」
マリーのそばで、ティスが静かに座り直した。
「クレメンタイン様が、すでに殺されていたという知らせでした」
誰も、口を挟まなかった。
「一緒にやってきたのは、あの方の使い魔……小さな小鳥でした」
少女は、膝の上の手を見つめた。
「その小鳥は、しばらくご主人様のおそばにいました。慰めるように寄り添って……やがて、その子も死にました」
ベガが、ゆっくりと目を伏せた。
「クレメンタイン様は、ご主人様のお兄様から結婚を申し込まれていたのです。ですが、お断りになりました。当然です。ご主人様という婚約者がいらっしゃったのですから」
少女の指が、膝の上の布を強くつかんだ。
「それを、あの男は……求婚を断られたからといって、クレメンタイン様を毒殺したのです」
マリーには、一つ気になったことがあった。
けれど、今ここで尋ねることではないと思い、黙っておいた。
「それから、ご主人様はずっと、魔法の研究に没頭されました。そして、私を完成させたのです。クレメンタイン様と同じ姿をした、私を」
少女は自分の手を見下ろした。
「ご主人様は、その後も、生涯ここで孤独にお暮らしになりました」
マリーは扉へ目を向けた。
二人で暮らすために整えられた家は、完成していた。
迎えるはずの人だけが、ここへ来ることはなかった。
クレメンタインが顔を上げた。
「あなたは、一族の者だとおっしゃいましたね」
「ああ」
「でしたら、お帰りください」
ベガは唇を開きかけた。
「待ってくれ。僕は――」
「お前たちの一族が、この家に立ち入ることは許しません!」
鋭い声に、動物たちが身をすくめた。
ベガは言葉をのみ込み、しばらく少女を見つめていた。
「……君が怒る理由はわかった。でも、少しだけ、話をさせてもらえないだろうか」
「聞くことなどありません!」
「クレメンタインさん」
マリーが静かに呼びかけた。
「あなたのお話は伺いました。ですから、今度はベガさんのお話も聞きましょう」
「ですが、ご主人様。この者は、あの一族の――」
「はい。それも伺いました。ベガさんが何を話しにいらしたのか、私も聞いておきたいのです」
クレメンタインは不満そうに唇を結んだ。
マリーが返事を待っていると、やがて小さく息をついた。
「……ご主人様が、そうおっしゃるのでしたら」
ベガに向き直ったものの、その表情は険しいままだった。
「お話だけは、伺います」
「ありがとう」
ベガは静かに頭を下げた。
それから姿勢を正し、二人を見た。
「僕は、分家に生まれたんだ。本家に子供がいなかったから、養子に迎えられた」
クレメンタインは黙っていた。
「でも、その後、養父母に実の子が生まれた。それで、僕を分家に返すことになったんだ」
ベガは、自分の膝へ目を落とした。
膝の上で、指が握り込まれる。
「要らなくなったから返すという本家の人間も、養子に出されるとき、僕を引き止めてくれなかった祖父母も……もう、何もかも嫌になった」
マリーは黙って、その顔を見ていた。
「本家にもいたくない。分家にも帰りたくない。どちらにも行きたくないと思った」
ベガは、ゆっくりと顔を上げた。
「そんなとき、古い手紙を見つけたんだ。この家のことが書かれていた」
視線が、草原の向こうの扉へ移った。
「本当に残っているかどうかは、わからなかった。でも、もし家があるなら、そこへ逃げ込もうと思った。ここなら、誰にも会わずに済むかもしれないって」
少し間を置いて、ベガは続けた。
「……もう、誰の顔も見たくなかったんだ」
先ほどまでクレメンタインを気遣っていた少年は、それきり口を閉じた。
クレメンタインの唇が、わずかに動いた。しかし、言葉にはならなかった。
「一つ、よろしいでしょうか」
マリーが口を開いた。
「あなたのご主人様とお兄様は、双子のご兄弟なのですよね?」
「はい」
「それでしたら、その一族の方は、ご主人様にとっても、血のつながったご親族ではありませんか?」
「ですが、この者は、お兄様の側の――」
「ええ。ですが、お兄様からつながる血だからと拒むのでしたら、それは、ご主人様にもつながっている血ではありませんか?」
クレメンタインは眉を寄せた。
「それに、ベガさんは、そのお兄様ご本人ではありません」
マリーは二人を見比べた。
「家を出ることになって、誰にも会いたくなくて、ここへ逃げていらした。そこは、あなたのご主人様とよく似ているように思います」
クレメンタインの視線が、ベガへ動いた。
何か言おうとしたものの、今度はすぐに言葉が出てこなかった。
しばらく考えていたマリーは、そこで、こくりとうなずいた。
「ですが、ここはもう私の家です」
きっぱりと言った。
ベガとクレメンタインが、同時に顔を向けた。
「ですので、馬屋番として置いてあげてもいいですよ」
「……なんだと?」
ベガが目を見開いた。
「嫌でしたら、出ていってください。私は、ここの正式な主です」
マリーは落ち着いた顔で言い切った。
ベガは口を開けたまま、クレメンタインを見た。
少女は一度マリーを見上げ、それから、すっと背筋を伸ばした。
「はい。そのとおりでございます」
「君は、さっきまで僕を追い出そうとしていただろう」
「この家の主は、ご主人様です。ご主人様がお決めになったことでしたら、従います」
ベガの眉間にしわが寄った。
マリーは構わず話を続けた。
「ちょうど、馬小屋にベッドもあることですし。パリカールとニゲルのお世話をお願いします」
名前を呼ばれた二頭へ、ベガの視線が動いた。
「ついでに、マトリスのお世話もお願いしますね」
「ついでに増やすな」
「お世話をする相手は、最初にお伝えしておいたほうがよいでしょう?」
マリーは少し首を傾げた。
ベガは何か言い返そうとして、やめた。口を結び、動物たちを見て、それからマリーを見た。
「お前は、一体何者なんだ」
「ただの、いたいけな幼女ですよ?」
「いたいけな幼女は、いきなりそんなことは言わないと思う……」
「雇い人でもない方に、お食事をお出しする趣味はありませんよ。働かざる者、食うべからずです」
自称いたいけな幼女は、すました顔で言った。
ベガは空を仰いだ。
誰にも会いたくなくて、ここまで来たはずだった。
それが、住む場所と一緒に仕事まで決まろうとしている。
「……馬の世話なんて、したことがない」
「では、覚えてください」
返事は早かった。
ベガがクレメンタインを見ると、彼女も当然のようにうなずいた。
「ご主人様のおっしゃるとおりです」
ベガは深く息をついた。
「……わかった。やるよ」
「では、よろしくお願いしますね」
マリーがうなずく。
パリカールが鼻先を伸ばし、ベガの腕に触れた。
ベガはその顔を見て、ためらいがちに手を上げた。首筋を一度、そっと撫でる。
今度はニゲルまで近づいてきた。
「……順番にしてくれ」
小さくこぼした声に、マリーのそばでティスが尻尾を振った。よいしょご主人様




