眠り姫は王子の腹パンで目覚める?
目の前の鶏を見つめていたベガは、その隣に立つ小さな女の子に気づいた。
ずいぶん整った顔をしている。
まだ四つかそこらにしか見えない少女が、じっとこちらを見ていた。
声の主は、こちらだったのか。
鶏に助けられたと思ったことが、急に恥ずかしくなった。
それでも、助けてもらった礼は言わなければならない。
「お前が助けてくれたのか。ありがとう」
「それは、あなたの知っているお礼の言葉ですか?」
ベガは少女を見た。
「初対面の相手に、お前ですか?」
まりは怒っていた。
マトリスに間違えられたからではない。
仮にも命の恩人に向かって言う台詞ではないだろう。
他にも、怒っていることはある。
まりはこの時点で、この少年には教育的指導が必要だと思った。
「お前は……君は、見たところ平民だろ? 僕は伯爵家の人間だぞ」
「あなたは伯爵なのですか?」
「違う……」
言いかけて、ベガは口を閉じた。
その伯爵家からも、今や追い出されかけている。
「それに、なぜ私を平民と決めつけるのですか?」
ベガは、目の前の少女を見つめた。
村人同士で暮らしていたときには、意識することもありませんでしたけれど。
まりは少年を見上げた。
この世界は、やはり貴族制なのですね。
ベガは返す言葉を探すように視線をそらした。
その先に、ニゲルがいた。
飼い葉桶に、藁の敷かれた床。馬房の仕切り。
自分の体には、清潔な布団が掛かっている。
「……馬小屋?」
「はい」
少女は、ごく普通に答えた。
ベガは改めて、少女に向き直った。
「……助けてくれて、ありがとう」
「お礼は、言葉ではなく現物でいただきます」
「……は?」
「あの黒い馬をいただきます。現物ではなく、動物ですね」
「ニゲルは、俺の友達なんだ。渡せない!」
ベガは勢いよく起き上がろうとして、止まった。
……何か、おかしい。
布団の中に手を入れる。
胸に触れ、腹に触れた。
服がない。
「……俺の服は?」
「濡れていましたので、脱がせました」
「脱が……誰が!?」
「私ですが」
「君が!?」
ベガは布団を胸元まで引き上げた。
「ぜ、全部!?」
「濡れていましたから」
ベガは口を開けたまま、少女を見つめた。
顔がみるみる熱くなる。
「それより、そのお友達に乗って、雪道をかなりの速さで走ったのではありませんか」
「それよりって……!」
「ここが迷いの森だと、ご存じではなかったのですか?」
ベガは布団を握り締めた。
少女は、こちらが服を着ていないことなど、少しも気にしていないらしい。
「……金なら払う。でも、ニゲルは渡せない。大体、お前みたいなちびが乗れる馬じゃないだろ」
「乗りません」
「じゃあ、どうする気だ」
「殺します」
ベガは凍りついた。
幼い少女は、静かな声で続けた。
「お肉にします」
「な……なんだと。よくも、そんなひどいことを!」
「あなたは、馬鹿ですか?」
「なんだと!」
「この子は、足の骨を折っています」
まりはニゲルへ目を向けた。
ニゲルは傷めた足を浮かせ、残る足で体を支えていた。
「治療すればいいだろう!」
「どうやって?」
「治癒魔法があるだろう!」
「あなたは使えるのですか?」
「……使えない」
「治癒魔法を使える聖職者がいるのは、大きな都の教会くらいです。治療にも、高額なお金がかかります」
「金なら……」
「この足で、どうやって都まで連れていくのですか?」
ベガは答えられなかった。
「馬の体は重いのです。折れた足をかばい続ければ、他の足にも負担がかかります。やがて、立っていることさえ苦しくなります」
まりは、ベガを見つめた。
「今、生きているから、このままでも大丈夫ということではありません。治療ができなければ、この子は長く苦しむことになります」
「……」
「死ぬまで苦しませて、生かし続ければ、あなたは満足ですか?」
「あなたの満足感のために、この子を苦しませるのですか?」
ベガは、何も言い返せなかった。
ニゲルが、傷めた足を浮かせながら近づいてきた。
一歩ずつ、残る足で体を支え、ベッドのそばまで来ると、そっとベガに鼻先を寄せた。
「……ニゲル」
ベガはその首に腕を回した。
自分が無理に走らせた。
それなのに、ニゲルはまだ、自分のそばへ来てくれる。
「ごめん……ごめん、ニゲル……」
それ以上は言葉にならず、ベガは黒い首に顔を埋めて泣き崩れた。
まりは、黙ってその姿を見ていた。
子供に、言い過ぎましたね。
けれど、子供だからこそ、今からきちんと教えておかなければならない。
命を粗末に扱えば、取り返しのつかないことになるのだと。
「今はまだ痛みはありますが、そこまで苦しんではいません」
まりは静かに言った。
「ひどく苦しむようになるのは、数日後でしょう。それまでは、一緒にいてあげるといいと思います」
そう告げて、箒を手に取った。
パリカールの隣を空け、小さな体でせっせと掃いていく。
ベガのすすり泣く声を背に、敷藁を整えた。
「パリカール、少しの間、クッションを貸してくださいね。後で取ってきますから」
まりは借りたクッションを敷き、ニゲルを呼んだ。
「こちらへ。横になってください」
ニゲルが足をかばいながら体を寄せる。
まりはそのそばにつき、ニゲルがゆっくりと横になるのを見守った。
*
草原を渡る風は、心地よく、甘かった。
桃の香りも、かすかに流れてくる。
まりの隣で、少年は黙って涙を流していた。
広い草原を、パリカールが駆けている。
長い耳を揺らし、思いきり地面を蹴って。
珍しく、ティスも走っていた。
ベガは唇を噛んだ。
何度拭っても、涙はあふれてきた。
やがて、その場に膝をついた。
顔を覆い、泣き崩れた少年は、震える声で言った。
「……ありがとう」
そして、もう一度、顔を上げた。
ロバが走っている。
犬が走っている。
その後ろを、黒い馬が楽しそうに走っている。
その奇跡のような風景に、ベガの涙が止まることはなかった。
ニゲルが、ぐんぐん速度を上げていく。
黒いたてがみが風になびき、大きな体がパリカールに並んだ。
並んだと思った次の瞬間には、もう前へ出ていた。
パリカールも懸命に足を動かしている。
その後ろから、ティスが追いかけていた。
先頭に出たニゲルが、走る向きを変えた。
パリカールが、その後を追う。
ティスもついていく。
まりは何気なく、その行く先へ目を向けた。
草の上に、メイド服の少女が横たわっていた。
眠ったまま、動く気配はない。
ニゲルは、まっすぐそちらへ向かっている。
「待ってください!」
まりは声を上げた。
けれど、ニゲルは止まらなかった。
地面を蹴り、大きな体がふわりと浮かぶ。
眠る少女を飛び越え、その向こうへ軽やかに着地した。
まりは息をのんだ。
続いて来たパリカールは、少女の手前で進路を変えた。
長い耳を揺らし、その脇を駆け抜けていく。
ほっとする間もなく、今度はティスが近づいていた。
まりは慌てて駆け出した。
「ティス、そちらへ行ってはいけません!」
声に気づいたティスが、走りながらまりを見た。
よそ見をしたままの前足が、少女のお腹に乗った。
「ぐえっ」
静かな草原に、カエルのような声が響いた。




