迷いの森の迷子とマトリス
黒い馬が、雪の森を駆けていた。
蹄が雪を蹴り上げ、冷たい風が少年の頬を打つ。
柔らかな黒髪が風に乱れ、毛先に雪が絡んでいた。まだ幼さの残る顔に、灰色の瞳が焦りを浮かべている。
十二歳のベガは、かじかむ手で手綱を握り締めた。
「どうして……」
木々の向こうへ目を凝らす。
「どうして、たどり着かないんだ!」
結界は張っている。
一度も途切れさせていない。
手紙に書かれていたとおりにしているはずだった。
それなのに、目の前には木々ばかりが続いている。
雪をかぶった枝。
黒々とした幹。
その向こうに、また同じような木々。
結界を張れば、森に惑わされずに進める。
ベガはそれを、森の奥へたどり着けるという意味だと思っていた。
けれど、惑わされないことと、道を知っていることは違う。
手紙を読んだときには、その違いに気づかなかった。
ニゲルの足が鈍った。
ベガは前を見た。
木々の間は、先ほどより暗くなっている。
もうすぐ日が暮れる。
「……行こう、ニゲル」
足に力を込め、先を促した。
ニゲルは進んだものの、ほどなく歩調を落とした。
荒い息が、白く噴き出していた。
どこかで休ませたほうがいい。
そう思って周囲を見回しても、雪を避けられそうな場所は見つからない。
帰ろうにも、どちらから来たのかわからなかった。
このまま暗くなったら。
誰にも見つけてもらえなかったら。
「もう少し……もう少しだけだから」
止まっているのが怖かった。
木々の向こうに何か見えないかと、ベガは身を乗り出した。
ニゲルが首を振る。その動きにさえ焦り、さらに先を急がせた。
雪が顔に吹きつけた。
片手で目元を拭い、前を向いた。
そのすぐ先を、倒れた木が塞いでいた。
「――っ!」
慌てて手綱を引く。
ニゲルが身をよじった。
だが、雪の上で足が滑った。
避けきれなかった体が倒木にぶつかり、鈍い音が響く。
ニゲルが悲鳴を上げた。
鞍が大きく傾いた。
ベガの足が鐙から外れ、体が宙へ放り出された。
背中から雪に落ちた瞬間、息が止まった。
「か……っ」
口を開けても、うまく息が吸えない。
何が起きたのか、すぐにはわからなかった。
起き上がろうと腕をつく。
痛みが走り、体が雪の上へ崩れた。
少し離れたところで、ニゲルがもがいていた。
「……ニゲル」
呼ぶと、ニゲルが顔を向けた。
何度か足を踏ん張り、ようやく立ち上がる。
けれど、一歩進むたびに体が不自然に揺れた。
ベガのそばまで来ると、ニゲルは鼻先で肩を押した。
「ごめん……」
ベガは黒い首へ手を伸ばした。
つかまって立とうとしたが、体に力が入らない。
ニゲルが、もう少し近くへ体を寄せた。
ベガはその体を支えに、膝を立てようとした。
途端に、ニゲルの足が震えた。
大きな体が傾き、ベガも雪の上へ倒れ込んだ。
ニゲルは踏み直した足をかばうようにして、それでもそばを離れなかった。
「もう、いい……」
ベガは首を振った。
「動くな。痛いんだろ……」
冷たい鼻先が、頬に触れた。
撫でてやろうとした手は、途中で落ちた。
指が冷たい。
足も、背中も。
痛みも、寒さも、少しずつ遠くなっていく。
ニゲルが、もう一度ベガをつついた。
返事をしなければと思った。
けれど、声が出なかった。
白いものが、視界をゆっくりと横切る。
最後に聞こえたのは、頭のすぐ上で響く、ニゲルの鳴き声だった。
*
両親の墓には、花が供えられていた。
六歳のベガは、祖母の隣に立っていた。
祖父と、その向こうにいる大人たちが、何かを話している。
「本家には跡取りがいない。お前が行くことになった」
祖父の言葉に、ベガは顔を上げた。
「……僕は?」
祖母の服を握る。
「僕は、おじい様たちと暮らすんじゃないの?」
返事を待つ間に、肩へ手が置かれた。
迎えに来た、本家の人間だった。
「嫌だ」
ベガは首を振った。
「行かない。僕、ここにいる」
祖母の服を、両手でつかんだ。
離したら連れていかれる。
必死に握り締めた指を、一本ずつ外された。
「嫌だ! おばあ様!」
泣きながら手を伸ばした。
祖母はそこにいるのに、手が届かなかった。
*
「もう一度」
机の上に、本が置かれた。
間違えた箇所を読み直す。
覚えて、答える。
次の本が置かれる。
礼儀作法。歴史。算術。魔法。
できなければ、できるまで。
眠くなって目をこすれば、姿勢を正すように言われた。
魔法の訓練で疲れた日にも、覚えなければならないことは残っていた。
ベガは勉強した。
一度教えられたことは、なるべく間違えないように。
次に尋ねられたときには、すぐに答えられるように。
高い魔法力と、物覚えのよさを褒められることが増えた。
本家の跡取りなのだから。
ローゼンヴァルトの名を継ぐのだから。
そう言われるたびに、背筋を伸ばした。
*
五年が過ぎた。
養母に、子供ができた。
魔法で確かめたところ、お腹の子は男の子なのだという。
屋敷の誰もが喜んでいた。
ベガも、弟ができるのだと思った。
けれど、呼び出された部屋で告げられたのは、これからの自分の行き先だった。
「十二歳までは、この屋敷にいてよい。その後は、魔法学校の寄宿舎へ入るように」
ベガは、目の前の大人を見つめた。
「それから、本家の名を名乗ることは許さない」
何か、間違えただろうか。
勉強はできた。
魔法も、使えるようになった。
もっとできるはずだと言われたから、もっと頑張った。
それなのに、どうして。
弟が生まれても、自分がここにいてはいけない理由がわからなかった。
聞こうとして、口を閉じた。
六歳のときにも、大人たちの話はもう決まっていた。
今度も、きっと同じだった。
ベガは机の下で拳を握った。
もう、泣きたくはなかった。
*
冬の図書室は静かだった。
ベガは書棚の奥から、古い本を抜き取った。
ページを開くと、折り畳まれた紙が滑り落ちた。
拾い上げ、広げる。
クレメンタインという、知らない名前が記されていた。
古い手紙だった。
『クレメンタイン。
私は、あなたと暮らしたい。
シュバルツバルトへ来てほしい。
人々が迷いの森と呼ぶ、あの森へ。
ここで、二人で暮らそう』
ベガは、その一節を読み返した。
ここで、二人で暮らそう。
知らない誰かに宛てられた言葉だった。
それでも、しばらく目が離せなかった。
手紙には、森へ入る方法も書き添えられていた。
結界を張りながら進むこと。
「……結界」
それなら使える。
何度も練習した。
どれほど保てるかも、試したことがある。
迷いの森なら、誰も追ってこられない。
連れ戻されることも、どこかへ行けと命じられることもない。
ベガは手紙を畳んだ。
「家出してやる」
十二歳になるまで、待ってやるものか。
*
馬小屋へ入ると、黒い馬が顔を上げた。
ウェントゥス・ニゲル。
黒い風という意味の名を、ベガが付けた。
普段は縮めて、ニゲルと呼んでいる。
屋敷の者たちは、正式な名を呼ぶのが恥ずかしいという理由で、くろちゃんと呼んでいた。
ベガはその首を撫でた。
ニゲルが鼻先を寄せてくる。
いつものように、それを手のひらで受け止めた。
「行くぞ、ニゲル」
*
ベガは、はっと目を開けた。
「お目覚めになりましたか?」
可愛らしい声が聞こえた。
声のしたほうへ顔を向けると、丸い目と目が合った。
赤い、とさか。
黄色い、くちばし。
……鶏?
「……お前が、助けてくれたのか?」
「コケッ」




