3人足りないので、眠り姫は起こしません
マリーは、伸ばしかけた手をそっと引いた。
玄関ホールに記されていた言葉を、もう一度思い返す。
『此処に眠る者の安らぎを妨げることなかれ』
目の前の少女は、胸元で両腕を重ね、静かに眠っている。
苦しげな様子もなく、その寝顔は穏やかだった。
「……彼女は、起こさないでおきましょう」
マリーは、そばにいるティスとマトリスへ目を向けた。
「安らかな眠りを、邪魔してはいけません」
少女を覗き込んでいたマトリスを、そっと抱き上げる。
「戻りましょうか」
ティスを伴い、扉へ向かった。
歩きながら、辺りの草原を見渡す。
柔らかな草が、風に揺れていた。
「……ここなら、パリカールも新鮮な草をたくさん食べられるのですけれど」
あの階段を降りてもらうのは、難しそうだった。
扉の前まで戻ると、その陰に何かが落ちていることに気づいた。
鎖のついた、細長い板だった。
マリーはマトリスを下ろし、板を拾い上げた。
表には『キッチン』と書かれている。
裏返す。
『馬房』
「……馬房?」
マリーは板と扉を見比べた。
よく見ると、扉の中央より少し上に、小さな鉤が取り付けられていた。この鎖を掛けるのに、ちょうどよさそうだった。
「……もしかして?」
マリーは『馬房』と書かれた方を表に向け、鎖を鉤に掛けた。
かちり。
小さな音とともに、扉が横へ広がった。
両端が離れていき、枠もそれに合わせて伸びていく。
マリーは一歩下がった。
扉は、元の二倍ほどの幅になっていた。
「……魔法みたいですね」
口にしてから、少し間を置く。
「はい、わかっています。魔法です」
取っ手に手をかけ、扉を開いた。
石造りの階段はなかった。
その向こうで、パリカールが驚いた顔をしていた。
「……こんにちは」
先ほど会ったばかりなのに、そんな挨拶が口をついた。
パリカールは長い耳をこちらへ向け、扉から鼻先を伸ばした。
マリーの匂いを確かめ、それから、その向こうの草原へ目を向ける。
マリーも振り返った。
玄関の文章には、この館に在る全て、と書いてあった。
「……この家が私たちのものなら、こちらにあるものも、そういうことですよね」
そう割り切ると、マリーは扉から少し離れた。
「パリカール。こちらへどうぞ」
パリカールは足元を確かめながら、広くなった扉をくぐってきた。
草の上へ出ると、さっそく首を下げる。
柔らかな草をひと口。
続けて、もうひと口。
「……お気に召したようですね」
マリーはその様子を見守ってから、遠くの果樹園へ目を向けた。
「私たちも、食べるものを探しましょうか」
ティスとマトリス、そしてパリカールと一緒に、草原を進んだ。
果樹園には、枝がしなるほど実をつけた木々が並んでいた。
近づくにつれ、甘い香りが濃くなる。
「……桃ですね」
マリーが枝へ手を伸ばすと、肩の横からパリカールの鼻先が出てきた。
ふんふんと匂いを嗅ぎ、手元を覗き込んでいる。
「あなたも、気になりますか?」
桃をひとつもぎ取ると、その動きに合わせて鼻先もついてきた。
「……少し待っていてくださいね」
マリーは収納箱から、小さなナイフを取り出した。
薬草を採りに出かけるとき、ノンナが持たせてくれたものだった。
『小さくても、刃物は持っておいで。手では切れない茎もあるからね』
摘んだ薬草の根を整えたり、絡んだ蔓を切ったり。
ノンナと出かけるときには、いつも持っていた。
「……今日は、桃を切りますね」
小さく呟き、薄い皮をそっと剥いた。
刃を入れると、柔らかな果肉から果汁がにじむ。
パリカールが、もう一歩近づいた。
マリーの手元を見つめたまま、口だけが、もぐもぐと動いている。
「まだ、お口には入っていませんよ」
ひと切れ差し出すと、柔らかな唇が指先に触れた。
桃だけを器用に受け取り、今度こそ、もぐもぐと噛み始める。
長い耳がゆっくり動いた。
「……おいしいですか?」
食べ終わった鼻先が、またマリーの手元へ寄ってきた。
「ええ。気に入ったのですね」
ティスとマトリスにも桃を分け、自分でもひと切れ口にした。
柔らかな果肉がほどけ、甘い香りが鼻へ抜けていく。
「……おいしいですね」
傍らで、パリカールが手のひらを鼻先でそっと押した。
もう何も載っていないのを確かめると、今度は桃を持つ方の手を覗き込む。
「次の分ですね。今、切りますから」
マリーはナイフを持ち直した。
桃の木の向こうにも、果樹園は続いていた。
りんごに、さくらんぼ。
オレンジ、梨、プルーンまで実っている。
低い茂みには、ブルーベリーが鈴なりになっていた。
「……季節は、どうなっているのでしょうね」
枝先には花も咲いていた。
そのすぐ隣で、熟した果実が重たげに揺れている。
マリーはしばらく眺めていたが、やがて収納箱を開いた。
「せっかくですから、ほかのものも少し、いただきましょうか」
食べ頃の実を選んで収めていく。
ひとつ。
もうひとつ。
「……明日の分も、必要ですし」
さらに、ひとつ。
パリカールはそのあとをついて歩き、ときどき手元へ鼻を寄せた。
「こちらは、あとでいただく分ですよ」
そう言われると、鼻先が少し下がる。
けれど、マリーが次の果実を手に取る頃には、また横から覗き込んでいた。
果樹園のそばには、小さな川も流れていた。
澄んだ水の中を、魚の影がすっと横切る。
「お魚まで、いるのですね」
マリーは岸辺に立ち、流れを覗き込んだ。
水があり、草があり、実をつける木がある。
けれど、ここまで歩いてきても、ほかの動物には一度も出会わなかった。
花の周りには蜂が飛んでいる。
それ以外の虫も、見当たらない。
「……不思議ですね」
マリーは辺りを見渡した。
「魔法ですから」
自分で答えてから、少し考える。
「……便利な言葉ですね」
口にした途端、どこか覚えのある感じがした。
前にも、こんなふうに何かをひと言で片づけたことがあっただろうか。
それとも、誰かが言っていたのだろうか。
思い出そうとしても、はっきりしなかった。
マリーは首をかしげ、それから木陰へ目を向けた。
柔らかな草の上を、涼しい風が渡っていく。
急いで館へ戻るのが、少し惜しくなった。
「スープはありませんけれど、このまま、ここでお昼にしましょうか」
収納箱から毛布を取り出し、草の上に広げる。
その上に皿を並べ、パンと干し肉、それから切り分けた果物を出した。
ティスが毛布の端に座った。
マトリスも寄ってくる。
パリカールはマリーの肩越しに、並んだ皿を覗き込んだ。
「……飲み物がありませんね」
マリーは川へ目を向けた。
水は澄んでいる。
けれど、そのまま飲んでよいものかはわからなかった。
「さすがに、川の水を直接飲むのは……」
館へ汲みに戻ろうかと考えながら、ぽつりと言った。
「冷たいミルクが飲みたいですね」
その瞬間。
ごとん。
目の前に、ミルクの瓶が落ちてきた。
マリーは動きを止めた。
倒れかけた瓶に慌てて手を伸ばし、両手で抱える。
ずしりと重い。
瓶の表面はひんやりと冷たく、中には白い液体がたっぷり入っていた。
マリーは瓶を抱えたまま、皆を見た。
「……牛乳ですね」
ティスも、マトリスも、パリカールも、瓶を見つめていた。
「ええ。もう、何も驚きません」
少し、間が空いた。
「……嘘をつきました」
マリーは手の中の瓶を見下ろした。
「びっくりしました」
一リットルほど入りそうな、大きな牛乳瓶だった。
どこから落ちてきたのか、上を見ても枝と空しかない。
マリーは瓶のキャップをきゅっと回して開けた。
「……これ、飲んでも大丈夫ですよね」
白いミルクを覗き込む。
大丈夫。
なぜか、そうわかった。
理由を尋ねられても、説明はできないのだけれど。
そっと瓶に口をつける。
冷たいミルクが喉を通った。
「……おいしいですね」
足元でティスが身を乗り出した。
鼻を上げて、瓶を見つめている。
「あなたも、飲みたいのですね」
小皿にミルクを注ぐと、ティスがさっそく舌を伸ばした。
マトリスとパリカールの分も取り分けてから、マリーはパンを手に取った。
木陰に広げた毛布の上で、四人の昼食が始まった。
ティスはミルクと果物を交互に確かめ、マトリスは皿のそばで小さくついばんでいる。
パリカールは自分の分を食べ終えると、マリーの横で草を食み始めた。
ぷつ、ぷつと草を切る音がする。
顔を向けると、パリカールも口を動かしたまま顔を上げた。
口の端から、細い草が一本出ていた。
「……そちらも、おいしそうですね」
マリーは自分のパンを、もうひと口かじった。
食事を終えても、しばらくは誰も動こうとしなかった。
風に葉が揺れ、木漏れ日が毛布の上をゆっくり移っていく。
「……そろそろ、戻りましょうか」
皿と残った食料を収納箱へ収め、毛布を畳む。
帰り道でも、パリカールはときどき足を止めた。
草へ首を伸ばし、ひと口食べてから、またついてくる。
「また来られますよ。そんなに急いで食べなくても、大丈夫です」
声をかけると、長い耳がこちらへ向いた。
草原に立つ扉には、まだ『馬房』の札が掛かっていた。
マリーが開けると、向こうには見慣れた馬房がある。
「さあ、どうぞ」
パリカールが扉をくぐる。
マリーもあとに続き、水や寝床の様子を確かめた。
「また、草を食べに行きましょうね」
首を撫でると、パリカールはマリーの肩へ鼻先を寄せた。
もう一度撫でてから、ティスとマトリスを連れて草原側へ戻る。
扉を閉め、鉤から札を外した。
裏返して、『キッチン』の文字を表に向ける。
かちり。
掛け直すと、横に広がっていた扉が、するすると元の幅へ戻っていった。
マリーは取っ手に手をかけ、それから、少女が眠っていた方を振り返った。
ここからでは、その姿は見えない。
草の穂が、静かに揺れている。
「……お邪魔しました。また、来ますね」
声をひそめてそう言うと、マリーは扉を開いた。
その向こうには、石造りの階段が続いていた。
ティスとマトリスと一緒に階段を上がり、キッチンへ戻る。
最後に振り返ると、階段の入り口は音もなく閉じ、元の何もない壁に戻った。
調理台には、使われなかった鍋が置かれていた。
マリーはその前で立ち止まった。
「……スープは、夕食にしましょうか」
ふと、鍋を見つめたまま手を止める。
「……起こした方が、よかったのかしら?」
草原で眠っていた少女を思い浮かべる。
「でも、三人足りませんから。起こさなくて、よかったのですね」
そこで、少し考えた。
「……眠り姫を起こすのは、王子様ですよね?」
ティスとマトリスへ目を向ける。
「白雪姫と、混ざってしまいましたね」




