異世界から異世界?
魔法のように現れた扉を、マリーは見つめていた。
「……いえ、魔法ですよね」
恐る恐る、扉に手を触れてみる。
すると、触れたところから扉が薄れ、消えていった。
その向こうには、地下へ続く石造りの階段が現れた。
「……今度は、階段ですか」
階段は下へ向かって、ゆるやかに曲がりながら伸びている。
奥は薄暗く、どこまで続いているのかわからなかった。
マリーは階段を覗き込み、それから調理台の鍋を振り返った。
「……見なかったことにしましょうか」
ティスがマリーを見上げた。
「スープが先ですし。温かいものをいただいて、落ち着いてからでも遅くはありませんよね」
マリーは階段から一歩離れた。
その脇を、マトリスが通り過ぎた。
「……マトリス?」
ためらうことなく、一段目へ。
続いて、もう一段。
「お待ちください。まだ、降りるとは……」
マトリスは振り返った。
けれど、戻ってくるつもりはないらしかった。
「……一人で行ってはいけませんよ」
言い終わる前に、その姿が階段の曲がり角へ消えかける。
マリーは小さく息をついた。
「ティス、私たちも行きましょう」
足元のティスを抱き上げ、マトリスのあとを追った。
マリーが一段目に足を踏み入れた、その瞬間。
ぽっ。
壁に取り付けられた灯りが、ひとつともった。
続いて、ぽっ、ぽっ、と階段の奥へ向かって次々に灯りがともっていく。
「……まあ」
マリーは思わず足を止めた。
まるで、誰かが道案内をしてくれているようだった。
「……親切な仕組みですね」
灯りに照らされた階段の先を、マトリスが降りていく。
「少し、待っていてくださいね」
マリーも足元を確かめながら、階段を降りた。
意外なことに、空気は冷たくなかった。
地下特有の湿気も感じられず、むしろ屋敷の中と同じように暖かい。
ティスは腕の中から顔を出し、不思議そうに辺りを見回していた。
やがて、階段の終わりが見えてきた。
そこには、一枚の木製の扉があった。
表面には細かな模様が彫り込まれている。
マトリスは扉の前で待っていた。
「……今度は、こちらを開けるのですね」
マリーは扉を見上げた。
「先ほどのように、消えたりはしませんよね?」
返事はない。
マリーはティスを抱き直し、取っ手へ手を伸ばした。
かちゃり。
小さな音がした。
ゆっくりと、扉を開く。
その向こうに広がっていたのは、地下室ではなかった。
「…………」
マリーは言葉を失った。
青い空が広がっていた。
白い雲がゆっくりと流れ、柔らかな風が頬を撫でていく。
足元には一面の緑の草原。
色とりどりの花が咲き、小さな蜂が花から花へと飛び回っていた。
遠くには黄金色の麦畑が広がり、その向こうには果樹園まで見える。
「……まあ」
ようやく声が出た。
マリーはティスを抱いたまま、草の上へ足を踏み出した。
つい先ほどまで、外には雪が残っていた。
それなのに、ここには暖かな日差しが降り注いでいる。
「……地下、ですよね?」
振り返ると、今通ってきた木製の扉があった。
開いた扉の向こうには、確かに石造りの階段が続いている。
もう一度、前を見る。
風に揺れる麦の穂。
果樹園からは、甘い桃の香りまで漂ってきた。
「……どういうことでしょう」
マリーはしばらく考え込んだ。
しかし、答えは出なかった。
「……東京ドーム、何個分でしょうか」
建築面積は、四万六千七百五十五平方メートル。
数字は覚えていた。
けれど、目の前の草原が何平方メートルあるのかは、わからなかった。
「……比較する方の広さがわかりませんね」
マリーは空を見上げた。
「青い空、白い雲、どこまで……続くのかしら?」
腕の中のティスも、顔を上げていた。
「仕方ありませんよね」
マリーはティスに話しかけた。
「積乱雲を見て『龍の巣だ』と叫ぶくらい、当たり前の現象なんですよ」
「くぅん?」
「……ご存じありませんか」
ティスは不思議そうにマリーを見上げていた。
「そうでしたね。あなたはまだ小さいですものね」
マリーは納得したように頷いた。
どうやら、年齢の問題だと思っているらしい。
「……それにしても。異世界から異世界へ、ですか」
静かに呟いてから、マリーはふと振り返った。
「それよりも、この扉……」
草原の真ん中に、ぽつんと木製の扉が立っていた。
「……扉しかありませんね」
マリーはティスを抱いたまま、扉の周りをくるりと回ってみた。
裏側にも壁はない。
ただ、どこまでも草原が広がっているだけだった。
「……あらまあ」
マリーは扉を見上げた。
その頭の中では、丸い眼鏡をかけた少年と、水色の猫型ロボットが仲よく並んでいた。
「……お二人は、どちらにいらっしゃるのでしょうね」
「わふ?」
「……いえ、こちらの話です」
マリーは何事もなかったように、ティスを抱き直した。
「コケ、コケッ!」
突然、マトリスの大きな鳴き声が響いた。
マリーは、はっと顔を上げた。
普段はのんびりしているティスが、いきなり腕の中から飛び降りた。
着地するなり、声のした方へ駆け出していく。
「ティス?」
マリーも慌ててあとを追った。
草を踏み分けて進むと、マトリスの姿が見えた。
翼をばさばさと広げ、こちらを見ては鳴いている。
「どうしました?」
近づきかけたマリーの足が止まった。
草の上に、人が倒れていた。
少女だった。
ふくらはぎまである黒いワンピースに、白いエプロン。
頭には白いプリムをつけている。
メイド服だった。
「……大丈夫ですか?」
マリーはそばに膝をつき、顔を覗き込んだ。
少女は目を閉じていた。
苦しげな様子はない。
胸元で両腕を重ね、裾から覗く足をきちんと揃えて、静かに眠っている。
マリーは肩へ手を伸ばしかけた。
そのとき、玄関ホールで読んだ一文が、不意に頭をよぎった。
『此処に眠る者の安らぎを妨げることなかれ』
指先が、少女に触れる寸前で止まった。




