ーブレーメンの家ー差込版の差込版
マリーは、開いていく扉の隙間から中を覗いた。
「……お邪魔します」
小さな声で呼びかけ、しばらく待ってみたが、返事はなかった。
そっと館の中へ足を踏み入れ、思わず立ち止まる。
「……まあ」
磨き上げられた石の床に、深い赤色の絨毯がまっすぐに延びていた。
その先には幅の広い階段があり、絨毯は一段一段を覆いながら、正面の踊り場まで続いている。階段はそこで左右へ分かれ、二階へとつながっていた。
見上げると、吹き抜けを囲む廊下に、艶のある木の手すりが連なっている。
その下には、幾重にも細工を施したアーチが並び、太い柱が支えていた。柱に取り付けられた燭台の明かりが、木の彫刻や壁の装飾を柔らかく浮かび上がらせている。
階段の両脇には大きな飾り壺が置かれ、ホールの左右には重厚な扉が並んでいた。
古い屋敷のようだったが、床にも調度品にも汚れはなく、石の表面には明かりが淡く映っている。
マリーは正面の階段から二階の手すりへ、それから左右の扉へと視線を巡らせた。
「とても綺麗なお屋敷ですけれど……」
この眺めには、覚えがあった。
「バイオでハザードなことは、起きませんよね?」
ティスとマトリスが、不思議そうにマリーを見上げた。
「……このお屋敷の形、とても懐かしいのですけれど」
懐かしいからといって、安心できるとは限らなかった。
「心臓が悪かったのに、よく、あんな怖いゲームをやっていましたよね。私」
あのときは、隣に誰かがいた。
だから、一緒に楽しめたような気がする。
「……思い出せませんね。残念です」
マリーはもう一度ホールを見渡してから、振り返った。
開いた扉の向こうでは、雪が静かに降り続いている。
けれど館の中には冷たい風が入り込まず、暖炉に火も入っていないのに、心地よい暖かさがあった。
「……外とは、ずいぶん違いますね。ここも魔法でしょうか」
ティスは鼻先を動かしながら、絨毯の匂いを確かめていた。
その後ろから、マトリスも中へ入ってくる。
マリーは二人を確かめ、扉を閉めた。
外の寒さと静けさが、扉の向こうへ遠ざかった。
その玄関ホールに、なぜかイーゼルが置かれていた。
載せられた額縁の中には、絵の代わりに、流麗なカリグラフィーで綴られた文章が飾られていた。
『扉を開けし者よ
汝をこの館の主とする
此処に眠る者の安らぎを妨げることなかれ
この館に在る全てを慈しみ、愛することを望む
この館の全ては、汝と共に在る』
マリーは足を止め、文面を読み返した。
「……なんだか、厨二病の匂いがしますね」
ティスが鼻を動かした。
くんくんと辺りの匂いを嗅ぎ、それから不思議そうに首をかしげる。
「……そちらの匂いではありませんよ」
静かに言い添えて、マリーは額縁をそっとイーゼルから下ろした。そして裏を向けて、ホールの隅に立てかけた。
マトリスが首をかしげる。
「ここは、もう私たちに譲渡されました」
マリーは額縁から手を離した。
「次に入ってきた方が勘違いしないようにしておきましょう。二重契約は避けるべきです」
マトリスは首を傾けたままだった。
その隣で、ティスも同じ方へこてんと首を傾ける。
一匹と一羽はぴたりと並び、同じ角度でマリーを見上げていた。
説明を待つような、きょとんとした目が二組。
マリーは思わず言葉を止めた。
「……かわいいですね」
マリーは一匹と一羽を眺めてから、ホールの奥へ目を向けた。
「これで、堂々と中を見て回れます。先ほどまでは、不法侵入みたいで……」
そこで、少し考える。
「いえ、みたいではなく、不法侵入ですね」
改めてホールを見回すと、壁に二枚の肖像画が飾られていることに気づいた。
一枚は、落ち着いた表情をした男性の肖像画だった。
整った顔立ちに、知的な印象を与える瞳。服装からして、身分の高い人物だったのだろう。
額縁の下には、小さな金属板が取り付けられていた。
『ソリウス・T』
「……ソリウスさん」
マリーは小さく呟いた。
「こちらの、ご主人でしょうか」
隣には、美しい女性の肖像画があった。
柔らかな微笑みを浮かべた、優しげな女性だった。
その下には、短い言葉が刻まれていた。
『愛しのクレメンタインへ』
「……この名前は、偶然ですよね?」
マリーは女性の肖像画を見つめた。
「彼女が非業の死を遂げていないといいのですけれど」
ふと、覚えていた歌の一節が口をついた。
「But I kissed her little sister,
And forgot my Clementine.」
それから、隣の男性へ目を移す。
「……あなたは、そうでないと思いたいですね」
ティスとマトリスがマリーを見上げた。
「……歌のお話ですよ」
妻なのだろうか。
それとも恋人だろうか。
あるいは、片思いの相手かもしれない。
「……いろいろありますからね」
マリーは静かに頷いた。
他人の恋愛事情に、深入りするつもりはなかった。
まずは、家の中を確かめなければならない。
マリーはホールの右側へ目を向けた。
手前の扉へ近づき、取っ手に手をかける。
「……失礼します」
口にしてから、少し考えた。
「もう、言わなくてもいいのでしたね」
扉を開けると、そこは書斎だった。
窓はなく、二面の壁に沿って、L字形に本棚が続いていた。
下の四分の一ほどは開き戸の収納になっており、その上には天井まで本がぎっしりと収められている。
厚い革表紙の本、金文字の背表紙、何度も読み返されたらしい背の擦り切れた本。棚ごとに目を移すたび、違う一冊が気になった。
「……まあ」
マリーは入り口に立ったまま、本棚を見渡した。
左側には、もう一枚の扉があった。
その手前には大きな机が置かれ、机上には羽根ペンとインク壺が整えられていた。
マリーは部屋へ足を踏み入れた。
先ほどまでとは違い、その足取りにためらいはなかった。
「こちらから調べて、正解でしたね」
マトリスとティスを振り返ったあと、マリーはすぐに本棚へ目を戻した。
書棚を眺めていたマリーは、ようやく左側の扉へ目を向けた。
「……先に、こちらも見ておきましょうか」
大きな机の脇を通り、扉を開ける。
その先は寝室だった。
部屋の中央に置かれた寝台を見て、マリーは足を止めた。
四隅の柱が頭上の天蓋を支え、厚い寝具の上には枕がゆったりと並んでいる。
「……まあ。大きなベッドですね」
そばへ寄り、掛け布団にそっと手を置いた。
手のひらが柔らかく沈む。
昨夜の寝床も、十分にありがたかった。
けれど、こちらを見てしまうと、今夜も馬小屋でとは言いにくい。
マリーは開いた扉から書斎を振り返った。
本棚が見える。
寝る前に本を読んでも、扉一枚で戻ってこられる。
「……私のお部屋は、こちらにしましょう」
マトリスがマリーを見上げた。
「私が、もう主人ですから」
静かに言ってから、書斎へもう一度目を向ける。
「それに、お隣が書斎ですし」
ティスがマリーの足元を離れた。
寝台の周りを歩き、床の匂いを確かめていく。マトリスも部屋の奥へ進み、家具の間を覗き込んでいた。
一匹と一羽は、自分たちの場所も決めるつもりらしかった。
「ええ。皆さんも一緒ですよ」
マリーは二人の様子を見守ってから、室内をひととおり確かめた。
やがて書斎を通ってホールへ戻ると、今度は反対側の扉へ向かった。
扉の先には、大きなリビングが広がっていた。
柔らかな絨毯の上に長椅子と肘掛け椅子が置かれ、その間には木製のテーブルがある。
「……こちらも、居心地がよさそうですね」
マリーが部屋へ入ると、ティスが後ろからついてきた。
絨毯に足を踏み入れたところで、その足が止まる。
少し歩いては足元を確かめ、やがて、くるりと小さく回った。
そのまま伏せる。
「……ティス?」
ティスは前足に顎を載せた。
マリーが近づく頃には、もう目が細くなっていた。
「まだ、全部は見ていませんよ」
尻尾が一度だけ、絨毯を撫でた。
それきり動かない。
「……では、ここで待っていてくださいね」
ティスは目を閉じた。
ティスを絨毯の上に残し、マリーはマトリスとリビングの奥へ進んだ。
続いていたのは、キッチンだった。
調理台には汚れひとつなく、棚には鍋や食器がきちんと収められている。
「……お料理の道具も、揃っていますね」
戸棚をいくつか開けてみたが、食料は見当たらなかった。
「食べるものは、自分たちで用意するのですね」
マリーは戸棚を閉めた。
リビングを通り抜けるときも、ティスは同じ場所で眠っていた。
起こさずにホールへ出て、マトリスと正面の階段を上がる。
踊り場から右へ進むと、吹き抜けを囲む二階の廊下へ出た。
手すり越しに見下ろすと、先ほど裏返して置いた額縁が見える。
客室は四つあった。
どの部屋にも寝台と収納が備わり、それぞれに浴室とトイレまで付いている。
浴室の蛇口をひねると、温かな湯が流れ出した。
マリーは蛇口を戻し、そっと手を拭いた。
「……こちらも、馬小屋と同じく魔法道具なのですね」
水を運ぶ必要も、湯を沸かす必要もない。
「お客様同士で、順番を待たなくてもいいのですね」
マリーは感心しながら扉を閉めた。
次の扉を開けると、そこは遊戯室だった。
中央には大きなビリヤード台が置かれ、壁際の棚にはカードや盤上遊戯の道具が並んでいた。
見慣れない遊び道具も多かったが、その中に懐かしいものを見つけた。
「……チェスですか」
マリーは盤の前に立った。
美しく磨かれた駒が、専用の箱に収められている。
前世では、何度も盤を挟んで勝負をしたものだった。
指先で白い駒をひとつ持ち上げる。
「……こちらの世界にも、あるのですね」
マリーはしばらく駒を見つめていた。
やがて、そっと元の場所へ戻した。
「……また、誰かと指せるといいですね」
小さく呟いたあと、ふと思いついたように顔を上げた。
「……ティスと勝負したいですね」
口にしてから、少し考える。
「……ティスは、チェスができませんよね」
なぜ、そんなことを思ったのだろう。
自分でもわからなかった。
ただ、胸の奥に、ほんの少しだけ寂しさが広がった。
マリーはしばらくチェス盤を見つめていたが、やがて静かに部屋を後にした。
マトリスも、その後をついてきた。
最後に残ったのは、廊下の奥にある扉だった。
開けてみると、そこは物置になっていた。
棚には箱や布包みが並び、壁際には使われていない家具が寄せられている。
「こちらは、あとでゆっくり確かめましょうか」
マリーは室内を見渡してから、扉を閉めた。
「……これで、全部ですね」
マトリスと階段を下り、リビングへ戻る。
ティスは絨毯の上で、まだ眠っていた。
「ティス。ただいま戻りましたよ」
声をかけると、片耳だけが動いた。
「……お留守番、ありがとうございました」
マリーはそばにしゃがみ、その頭をそっと撫でた。
「今度は、パリカールのところへ行ってきますね」
その言葉に、ティスが目を開けた。
マリーが立ち上がると、ティスもゆっくり体を起こし、大きく伸びをした。
「一緒に行きますか?」
今度は、足元までついてきた。
馬小屋へ戻ると、パリカールが顔を上げた。
「お待たせしました。お家の中を見てきましたよ」
マリーはそばへ寄り、その首を撫でた。
「私たち、ここで暮らしてもいいそうです」
パリカールは鼻を寄せてきた。
マリーはその鼻先にも手を添えた。
「お家に名前をつけましょうか。ブレーメンの家……いえ……」
少し考える。
「正しくは、ブレーメンに行く途中の家ですね」
パリカールと、そばにいるティスとマトリスを見渡した。
「略して、ブレーメンの家でいいですね」
マリーはパリカールの首を撫で、水や餌の様子を確かめた。
「あなたも、ここでゆっくりしてくださいね」
しばらくパリカールと過ごしてから、マリーたちは館へ戻った。
外から入ると、館の暖かさがよくわかった。
マリーは冷えた指先を擦り合わせた。
「……そろそろ、私たちも食事にしましょうか」
朝は軽く済ませただけだった。
部屋を見て回っているうちに、お腹も空いてきた。
「温かいものが飲みたいですね。スープでも作りましょう」
キッチンへ向かい、使えそうな鍋を取り出す。
持っていた食料を調理台に並べてから、マリーはその脇へ回った。
ふと、何もない壁に手をついた。
かちり。
「……え?」
手のひらの下で、小さな音がした。
マリーは手を離した。
何もなかったはずの壁に、細い線が浮かび上がっていく。
縦に二本。
その上をつなぐように、もう一本。
やがて取っ手まで現れ、そこには一枚の扉があった。
マリーは、調理台に置いた鍋と、目の前の扉を交互に見た。
「……今、ありませんでしたよね?」
不思議な扉の前で、ティスとマトリスとマリーは、揃って同じ方へ首をかしげた。




