現実逃避
朝、目を覚ましたマリーは、しばらく毛布にくるまったまま、馬小屋の天井を眺めていた。
寒くない。
それだけでも、ずいぶんありがたいことだった。
隙間風に震えることもなく、誰かの足音に怯えることもなく、一晩を過ごせた。すぐそばにはティスがいて、パリカールもマトリスもいる。
「……もう、このままここでもいいかもしれませんね」
珍しく弱気な言葉が口をついた。
馬小屋とはいえ、水も使える。雨や雪をしのげて、横になる場所もある。
村を出てきたときのことを思えば、十分すぎるほどだった。
マリーが顔を向けると、マトリスと目が合った。
「……ひとまず、朝ごはんにしましょうか」
マリーは毛布から起き出した。
手持ちの食料で軽い朝食を済ませ、後片づけをする。それが終わると、マリーは昨夜と同じ場所に腰を落ち着けた。
「さて、昨日のお話の続きですが」
ティスの耳が動いた。
マリーは膝の上に手を揃えた。
「劉備さんと、関羽さんと、張飛さん。この三人が義兄弟になったところまで、お話ししましたね」
ティスは顔を背けた。
「生まれた日は違っても、死ぬときは同じ日を、と誓うんです」
パリカールが、ゆっくり耳を動かした。
「……なかなか、できる約束ではありませんね」
マリーは少し考えた。
「できれば、皆さん長生きしていただきたいのですけれど」
ティスが立ち上がった。
マリーは、その小さな背中を目で追いながら話を続けた。
「ともかく、三人は力を合わせて戦うことになります。劉備さんには、まだ立派なお城も、大きな軍勢もありません。でも、関羽さんと張飛さんがいます」
ティスは寝ていた場所から少し離れると、こちらに背を向けて座った。
「……そちらの方が聞きやすいですか?」
返事はなかった。
マリーはパリカールに顔を向けた。
「張飛さんは、とても強い方なんですよ。ただ、少々気が短くて」
パリカールは鼻を鳴らした。
「ええ。そこは心配なところです」
聞き手の反応を都合よく受け取り、マリーは頷いた。
「ですが、この三人が出会ったことで、ここから話が大きく動いていくんです」
そのとき、マトリスが動いた。
マリーの話を聞いていた場所を離れ、馬小屋の扉へ向かっていく。
「あら。どちらへ?」
マトリスは扉の前で振り返った。
そして、マリーを見た。
マリーは微笑む代わりに、少しだけ首をかしげた。
「……まだ、朝のお話が終わっていませんよ」
マトリスは動かなかった。
「昨日、途中になってしまいましたから」
やはり動かない。
話に興味がないわけではなさそうだった。続きを話せば、ちゃんとこちらを見る。
けれど、扉の前から戻ってはこなかった。
「……館を調べるお話でしょうか」
マトリスの視線は、まっすぐだった。
先に済ませることを済ませよう。
そう言われている気がした。
マリーは膝の上で手を重ね直した。
「それは、もちろん覚えています。ただ、今、いいところなんですよ」
マトリスを見つめる。
「ここから面白くなるんです」
念を押してみたが、効果はなかった。
それどころか、ティスまで立ち上がった。
マリーは顔を向けた。
「ティス?」
ティスはマリーのそばを通り過ぎ、マトリスのいる扉へ向かった。
そのまま扉の前に座り、外へ出るのを待ち始める。
「……あなたも、ですか」
ティスが振り返った。
話の続きを聞くくらいなら、外に出たい。
その顔には、そんな気持ちが表れていた。
昨夜はあれほど、マリーのそばで丸くなっていたのに。
「劉備さんたちは、これから出発するところなのですけれど」
ティスは扉へ向き直った。
こちらも早く出発したいらしかった。
マリーは最後の聞き手に目を向けた。
「……パリカール」
パリカールは顔を上げた。
「少しだけ、続きを聞きませんか?」
長い耳が、片方ずつ動いた。
それから、顔が扉の方へ向いた。
マリーはしばらく黙っていた。
「……皆さん、朝はお忙しいのですね」
小さく息をつき、ようやく腰を上げる。
「わかりました。先に、館を見てきましょう」
マトリスが、待っていましたとばかりに動いた。
「ただし、少し調べるだけですよ」
マリーはそう言い添えた。
誰も、その条件に同意した様子はなかった。
馬小屋の扉を開けると、冷たい空気が頬に触れた。
外には、昨夜の雪が残っていた。
その向こうに、古い館が静かに佇んでいる。
マリーは扉の前で足を止めた。
迷いの森。
村から、それほど遠くはない。
それなのに、村では誰も、この館のことを話していなかった。
少なくとも、マリーは聞いたことがない。
村から追い出された美少女が、森の奥にある謎の館へたどり着く。
「……追い出されたというより、自分で出てきたのですけれど」
美少女については、ひとまず訂正しないことにした。
そして、館の中で待っているものは――。
「……これが、いわゆるフラグというやつでしょうか」
足元をティスが通り過ぎた。
マトリスは、もう先へ進んでいた。
「……お待ちください」
マリーも、しぶしぶ歩き始めた。
雪の残る地面を確かめながら、館へ向かう。
「こういうときは、慎重にした方がいいんですよ」
マトリスの背に話しかける。
「あのお話でも、知らない場所へ不用意に入ると、大変なことになりますから」
ティスがマリーを見上げた。
「……まだ、そのお話はしていませんでしたね」
マリーは少し考えた。
「先に、そちらをお話ししましょうか。なぜ用心が必要なのか、わかりやすいと思います」
ティスは顔を戻し、歩く速度を上げた。
マトリスは館の玄関へたどり着くと、迷わず段を上っていった。
扉の前で振り返る。
早く開けて。
そんな様子だった。
マリーは段の下から、扉を見上げた。
「……ずいぶん、積極的ですね」
返事の代わりに、じっと見つめられた。
マリーはゆっくり段を上がった。
近くで見ると、扉はしっかりした造りだった。取っ手には細かな装飾が施されている。
マリーはその周りを眺めた。
取っ手の下を見る。
横も見る。
反対側も確かめる。
「……鍵穴がありませんね」
マリーはマトリスへ顔を向けた。
「これは入れないですよ」
言いながら、少しだけ肩の力が抜けた。
「残念ですが、仕方ありませんね。戻って、昨日のお話の続きをしましょう」
馬小屋の方へ目を向ける。
「ちょうどいいところだったですよね。三人が揃って、いよいよこれからというところで」
マトリスは、黙ってマリーを見つめていた。
マリーも見つめ返した。
「……鍵がありませんから」
視線は逸らされなかった。
「鍵穴も、ありませんし」
やはり、逸らされない。
足元では、ティスまで待っていた。
あれほど話を聞きたくなかったティスが、今は帰ろうとしない。
マリーは取っ手を見た。
まだ、一度も触れていなかった。
「……開けてみるだけですよ」
誰にともなく念を押す。
「開かなければ、戻りますからね」
マトリスの目は、取っ手へ向けられていた。
マリーは小さく息をついた。
そして、おそるおそる手を伸ばした。
指先が、取っ手に触れる。
かちり。
扉の奥で、何かが作動する音がした。
マリーが手を引くより早く、目の前の扉が、ゆっくりと開き始めた。




