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ブレーメンの馬小屋



 森の木々の間から、古い石造りの館が姿を現した。


 マリーは思わず見上げた。


「……近くで見ると、ずいぶん大きいですね」


 高い石壁には蔦が絡まり、ところどころに苔が生えている。


 屋根には雪が積もり、窓には明かりひとつ見えなかった。


 月明かりに照らされた館は、まるで昔話に出てくる幽霊屋敷のようだった。


「……誰も住んでいないのでしょうか」


 マリーはしばらく館を眺めていた。


 昼間なら、少し調べてみたいところだった。


 けれど、今は夜である。


 誰もいないかもしれない古い館に、暗い中で入っていく勇気はなかった。


「……明るくなってからにしましょう」


 マリーはそう決めると、館の横にある建物へ目を向けた。


 そこには、母屋と同じ石造りの馬小屋が建っていた。


「……あちらなら、休めるかもしれませんね」


 パリカールを連れて近づいてみる。


 大きな木製の扉には蔦が絡まり、長い間使われていないようだった。


 マリーはパリカールから降り、扉に手をかけた。


「……開くでしょうか」


 ぐっと力を込める。


 ぎいい。


 重い音を立てて、扉がゆっくりと開いた。


「……開きましたね」


 その途端、マリーは不思議そうに首をかしげた。


「……あら?」


 暖かい。


 外では雪が降り、吐く息も白くなるほど寒かったのに、馬小屋の中には春先のような暖かさがあった。


 冷たい風も入り込んでこない。


 それどころか、扉を開け放しているのに、暖かい空気が外へ逃げていく様子もなかった。


「……どういうことでしょう」


 マリーは一度外へ出てみた。


 冷たい空気が頬を刺す。


 もう一度、中へ入る。


 暖かい。


「……まあ」


 マリーは感心したように頷いた。


「……これは便利ですね」


 中には木の仕切りで区切られた馬房がいくつも並んでいた。


 床には古い藁が散らばっていたが、屋根に穴はなく、雪も吹き込んでいない。


 壁も床も、長い年月を経た石造りのままだった。


 暖炉も火鉢も見当たらない。


「……暖房まで魔法なのでしょうか」


 マリーはそっと石壁に手を当ててみた。


 ひんやりしていると思った石は、意外にもほんのり暖かかった。


 そのとき、石の表面に刻まれた細かな模様が、淡く光った。


「……あら?」


 光はすぐに消えてしまった。


 けれど、どうやらこの馬小屋には、温度を一定に保つ魔法がかけられているらしい。


「……電気代がかからないのは、うらやましいですね」


 前世の感覚で、そんなことを考えてしまった。


 もっとも、魔法の維持に何が必要なのかは、さっぱりわからなかった。


「……まあ、暖かければ十分ですね」


 マリーは小さく頷いた。


 さらに奥へ進むと、石造りの大きな水槽があった。


 不思議なことに、水槽の中央から澄んだ水がこんこんと湧き出している。


「……あら?」


 水は絶えず流れ込んでいるのに、あふれる様子がない。


 マリーが不思議そうに覗き込んでいると、水槽の縁に刻まれた模様が淡く光った。


 その瞬間、水の一部が吸い込まれるように消えていった。


「……なるほど。こちらも魔法ですか」


 どうやら、水を出すだけでなく、余分な水まで処理しているらしい。


「……便利ですねえ」


 前世では、水を使うにも配管や排水設備が必要だった。


 それを魔法で済ませてしまうとは。


「……本当に不思議な世界ですね」


 その横では、パリカールが何の疑問も抱かずに水を飲み始めていた。


 マリーはその姿を見つめた。


「……そうですね。飲めれば十分ですよね」


 どうやら、仕組みを気にしているのは自分だけらしかった。


 マリーは馬房のひとつを覗き込んだ。


「……まずは、お掃除ですね」


 奥には古びた箒と熊手が立てかけられていた。


 四歳の体には少々大きすぎる道具だったが、時間をかければ何とかなる。


 マリーは大きな箒を両手で握り、床に散らばった古い藁を集め始めた。


 さっ、さっ。


 けれど、何度か掃いたところで、手が止まった。


「……ふぁ……」


 小さなあくびが漏れる。


 慌てて口元を押さえた。


「……いけませんね。まだ終わっていません」


 もう一度、箒を動かす。


 さっ、さっ。


 ……さっ。


 気がつくと、箒を握ったまま、こくりと頭が下がっていた。


「……あら?」


 マリーはぱちぱちと瞬きをした。


「……寝ていませんよ」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 足元ではティスがじっと見上げている。


「……本当ですよ。少し目を閉じただけです」


 ティスは小さく首をかしげた。


 マリーは箒を握り直した。


「……あと少しですからね」


 そうして、何度もあくびをかみ殺しながら、ようやく馬房の床を片づけ終えた。


 奥の倉庫には、乾いた藁が残されていた。


 マリーはその中から使えそうなものを選び、少しずつ運んで床に敷いていった。


 途中で何度も休憩したが、ようやく寝床らしいものができあがった。


「……これでよさそうですね」


 パリカールを案内すると、彼は新しい寝床を確かめるように歩き、満足そうに鼻を鳴らした。


 飼葉桶には持ってきた餌を入れた。


「パリカール、今日はお疲れさまでした。ゆっくり休んでくださいね」


 パリカールは長い耳を動かした。


 そのそばでは、鶏がちょこちょこと歩き回っている。


 マリーはふと、その姿を見つめた。


 艶のある濃い栗色の羽。


 首から胸元にかけては、赤みを帯びた金茶色の羽が混じっている。


 馬小屋の柔らかな明かりを受けると、その部分がまるで銅のように輝いて見えた。


「……そういえば」


 鶏が顔を上げた。


「あなたには、まだ名前がありませんでしたね」


「コケッ?」


「いつまでも鶏さんでは、少し寂しいですよね」


 マリーはしばらく考えた。


「……あなたは、とても早起きですから」


 鶏は期待するように首を伸ばした。


「マトリス、というのはどうでしょう」


「コケッ!」


「気に入っていただけましたか?」


「コケコッ!」


「それはよかったです」


 マリーは小さく頷いた。


「では、今日からあなたはマトリスです。よろしくお願いしますね」


 マトリスは胸を張り、誇らしげに一声鳴いた。


 赤銅色の首羽がふわりと膨らんだ。


「……ただし、朝はもう少し静かにしていただけると助かります」


「コケコッ!」


「……そうですか」


 どうやら、そのお願いについては聞き入れてもらえそうになかった。


 マリーは小さく息をついた。


 さて、今度は自分たちの寝床である。


 マリーは隣の馬房を覗き込んだ。


 こちらも古い藁が散らばっていたが、隅の方を片づければ、何とか横になれそうだった。


「……もう少しだけ、頑張りましょう」


 箒を手に取る。


 さっ。


 さっ。


 ……こくり。


「……あら」


 マリーは慌てて顔を上げた。


「……もう少しです」


 そう言いながら、何とか床を片づけた。


 乾いた藁を厚めに敷き、その上に収納ボックスから取り出した毛布を広げる。


「……できました」


 マリーは満足そうに頷いた。


 ティスがさっそく毛布の上に飛び乗った。


「わふっ!」


「……気に入っていただけたようですね」


 マリーは持ってきた食べ物で簡単に夕食を済ませた。


 パリカールも飼葉を食べ終え、マトリスも落ち着いた様子で藁の上に座っている。


 外では雪が降り続いていた。


 けれど馬小屋の中は、相変わらず暖かい。


 冷たい石造りの建物の中にいるとは思えないほど、心地よい温度だった。


「……ありがたいですね」


 マリーは壁を見つめた。


「……魔法をかけてくださった方に、お礼を申し上げたいくらいです」


 そう呟いてから、毛布の上に腰を下ろした。


 ティスがすぐに膝の上へ乗ってくる。


「……ティスも、お疲れさまでしたね」


 マリーはその小さな頭を撫でた。


 そして、毛布にくるまり、ティスを抱き寄せた。


「……今日は、ずいぶん歩きましたね」


「くぅん」


「明日は、あのお屋敷を調べてみましょうか」


 ティスは小さく鼻を鳴らした。


「……誰もいないといいのですが」


 少し考えてから、マリーは首をかしげた。


「……いえ、誰かいた方がいいのでしょうか」


 誰もいなければ、それはそれで怖い。


 誰かいたとしても、こんな森の奥に住んでいる人が、親切な人とは限らない。


「……難しいですね」


 結局、考えても答えは出なかった。


 マリーは毛布を肩まで引き上げた。


「……まあ、明日になってから考えましょう」


 ティスはすでに目を閉じていた。


 パリカールも静かに休んでいる。


 マトリスも藁の上で羽を膨らませていた。


「……皆さん、おやすみなさい」


 小さな声で挨拶をする。


 返事はなかった。


 マリーは目を閉じた。


 雪の降る森の奥。


 古い館の隣に建つ馬小屋で、四人は初めての夜を迎えた。

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