春を待たずに 後編 修正版です
スキル発動?
ノンナの葬儀が終わった翌日。
マリーは家の隅に座り、ティスを抱いていた。
家の中は静まり返っていた。
ノンナがいつも座っていた椅子も、使い慣れた食器も、昨日までと何も変わっていない。
ただ、そこにいるはずの人がいなかった。
突然、玄関の扉が乱暴に開かれた。
「おい!」
怒鳴り声とともに入ってきたのは、村長だった。
「俺に黙って葬儀をあげるとは、どういうつもりだ!」
マリーは顔を上げた。
村長はノンナの親戚にあたる男だった。
村では長年、村長として権力を振るっていたが、その横暴な態度を快く思わない村人も少なくなかった。
もっとも、面と向かって逆らう者はほとんどいなかった。
「まったく、勝手なことをしやがって。親戚の俺に一言も断りがないとはな!」
村長は部屋を見回すと、ずかずかと奥へ入ってきた。
マリーは何も答えなかった。
「おい、聞いてるのか!」
村長は舌打ちすると、棚の引き出しを開けた。
中のものを乱暴にかき回す。
次に戸棚を開け、箱をひっくり返した。
「金はどこだ。あの婆さん、少しぐらい蓄えていただろう」
食器が床に落ちた。
乾いた音が響く。
「俺に隠れて、誰かが持っていったんじゃねえだろうな!」
村長はマリーを睨みつけた。
マリーはティスを抱いたまま、動かなかった。
村長はさらに家の中を探し回った。
やがて小さな引き出しから、わずかな銅貨を見つけた。
「ちっ、これだけか」
そう吐き捨てると、銅貨を自分の懐に入れた。
「いいか、小娘。よく聞け」
村長はマリーの前に立った。
「俺はノンナの親戚だ。この家も裏の畑も、ロバも、全部俺が引き取る」
マリーはゆっくり顔を上げた。
「お前とあの婆さんには血のつながりがねえ。親戚の俺と違って、お前には何の権利もないってことだ」
村長は薄く笑った。
「それに、保護者のいないガキを村に置いておくわけにもいかねえ」
少し考えるような仕草をしてから、口元を歪めた。
「そうだな。奴隷商人にでも売りつけてやるか。少しは金になるだろう」
マリーは何も言わなかった。
村長の言葉は聞こえていた。
意味も理解していた。
けれど、頭の中はまだどこか遠かった。
ノンナが亡くなってから、ずっとそうだった。
村長はそんなマリーを見下ろし、ふと目を細めた。
「……おい」
マリーは無意識に、服の内側に隠したポーチを守るように胸元へ手を当てていた。
村長の視線が、その手に止まった。
「お前、何か隠してるんじゃねえだろうな」
村長が手を伸ばした。
ノンナの最後の言葉が、頭の中に響いた。
『絶対に誰にも渡してはいけないよ』
『他の人に見せてはいけない』
「何も持ってない!」
マリーが叫んだ。
自分でも驚くほど大きな声だった。
その瞬間、服の内側に隠していた小さなポーチが、音もなく姿を消した。
けれど、マリーはそのことに気づかなかった。
ただ、ノンナから託されたものを奪われたくない。その一心だった。
「なんだと、このガキ!」
村長が顔を真っ赤にした。
そのときだった。
「ちょっと! 何の騒ぎだい!」
隣の家から、クーラが駆け込んできた。
開いた扉の向こうから部屋の中を見て、目を見開く。
床に散らばった食器。
開け放たれた引き出し。
そして、マリーに詰め寄っている村長。
「あんた! 何やってるんだい!」
「うるせえ! これは村の問題だ!」
「村の問題だって? 葬儀が終わったばかりの家で、何をひっかき回してるんだい!」
「この家は俺のもんだ!」
村長は怒鳴り返した。
「俺はノンナの親戚だ! あの婆さんは死んだ! この娘とは血のつながりも何もねえ! だから家も畑もロバも、俺が引き取るんだよ!」
「誰がそんなこと決めたんだい!」
「親戚の俺に決まってるだろうが!」
「馬鹿をお言いでないよ!」
クーラの声が一段と大きくなった。
「ノンナが何十年も働いて守ってきた家だよ! それを亡くなった途端に自分のものだなんて、よくそんな恥知らずなことが言えるね!」
「黙れ! 部外者が口を出すな!」
「部外者だって? あたしゃノンナと何十年の付き合いだと思ってるんだい!」
クーラは村長の前に立ちはだかった。
その声を聞きつけ、近所の人たちも何事かと集まり始めていた。
戸口から家の中を覗き込み、散らばった食器や荒らされた棚を見て顔をしかめる。
村長の横暴は、今に始まったことではなかった。
村人たちは、それぞれに不満を抱えていた。
けれど、一人で逆らえば、あとで何をされるかわからない。
だから、これまでは誰も正面から逆らおうとしなかった。
「それに、あんた今、この子に何をしようとしてたんだい!」
「何もしてねえよ!」
「嘘おつき! 外まで怒鳴り声が聞こえてたよ!」
「このガキをどうするかは俺が決める! 奴隷商人に売ることだってできるんだ!」
その言葉に、戸口がざわついた。
「……奴隷商人?」
「まだ四つの子供だぞ……」
小さな声が漏れた。
しかし、村長が睨みつけると、誰もが口を閉ざした。
「ふざけるんじゃないよ!」
クーラの怒声が家中に響いた。
「ノンナがどれだけこの子を大事にしてたと思ってるんだい! 葬儀が終わったばかりだっていうのに、家を奪って、今度は子供を売るだって?」
「俺は村長だぞ!」
「だから何だっていうんだい!」
クーラは一歩も引かなかった。
「そんなに偉いなら、昨日の葬儀に来て、ノンナに手の一つでも合わせたらどうだったんだい!」
「俺に指図する気か!」
「とっとと出ておいき!」
クーラは玄関を指さした。
「今すぐだよ!」
村長はしばらく睨みつけていた。
戸口には、いつの間にか何人もの村人が集まっている。
誰も村長に味方しようとはしなかった。
やがて、村長は忌々しそうに舌打ちした。
「覚えてろよ。家も畑もロバも、全部俺のものだからな!」
そう吐き捨て、人垣を押しのけるようにして出ていった。
村人たちは黙って道を開けた。
誰も村長を引き止めなかった。
クーラは大きく息を吐いた。
「まったく……なんて男だい」
村人たちは気まずそうに顔を見合わせていた。
「あんなことまで言うなんて……」
「ノンナ婆さんが亡くなったばかりなのに……」
小声で囁き合う者はいたが、誰もそれ以上は口にしなかった。
やがて、一人、また一人と帰っていった。
クーラは床に散らばったものを見て、眉をひそめた。
「マリーちゃん、大丈夫だったかい?」
マリーは小さく頷いた。
「何か取られなかったかい?」
「……わかりません」
「そうかい。怖かったねぇ」
クーラはマリーのそばにしゃがみ込んだ。
「今はもう大丈夫だよ。あんな男の言うことなんか、気にするんじゃないよ」
マリーは黙っていた。
クーラはしばらく一緒に片づけを手伝い、何かあればすぐ呼ぶように言って帰っていった。
けれど、村長が最後に吐き捨てた言葉は、クーラの耳にも残っていた。
『家も畑もロバも、全部俺のものだからな!』
あの男は、まだ諦めていない。
それだけは、クーラにもわかっていた。
再び、家の中が静かになった。
マリーは床に座ったまま、ぼんやりと考えていた。
家。
畑。
ロバ。
奴隷商人。
村長の言葉が、頭の中を通り過ぎていく。
そして、ふと思い出した。
ノンナから預かったポーチ。
マリーは慌てて服の中に手を入れた。
ない。
もう一度探した。
服の内側も、腰のあたりも、何度も確かめた。
ない。
「……あれ?」
確かに持っていた。
ノンナから受け取ったあと、誰にも見つからないように、ずっと服の内側に隠していた。
村長にも奪われていない。
クーラにも渡していない。
それなのに。
「……手紙、どこ?」
思わず声が漏れた。
その瞬間。
ぽとり。
目の前のテーブルに、何かが落ちた。
「…………え?」
小さな革のポーチだった。
ノンナから預かった、あのポーチ。
マリーは目を見開いた。
テーブルの上のポーチを見つめる。
確かに、今まで何もなかった。
それが突然、現れた。
「……え?」
マリーはポーチを手に取り、中を確かめた。
手紙とブローチ、金貨の入った小袋。
何もなくなっていない。
マリーはしばらく呆然としていた。
そして、ようやく思い出した。
そうだ。
この世界には、魔法がある。
「……もしかして」
マリーはポーチを見つめた。
(私にも、収納ボックスが使えるのでしょうか?)
返事はなかった。
ティスが不思議そうに首を傾げている。
マリーは試しに、ポーチを収納ボックスにしまうところを思い浮かべた。
けれど、何も起こらない。
「……おかしいですね」
もう一度、強く念じてみる。
やはり、何も起こらなかった。
「収納ボックスに入ってください」
その瞬間、手の中からポーチが消えた。
「……入りましたね」
今度は、ポーチが戻ってくるところを思い浮かべた。
何も起こらない。
「ポーチ、出てきてください」
ぽとり。
目の前のテーブルに、ポーチが落ちた。
「……なるほど」
マリーは小さく頷いた。
「声に出してお願いしないと、使えないのですね」
もう一度、ポーチを見つめる。
「収納ボックスに入ってください」
ポーチが消えた。
「出てきてください」
ぽとり。
再びテーブルに現れた。
「……間違いありませんね」
マリーは納得したように頷いた。
しばらくして、マリーは手の中のポーチを見つめた。
ノンナから預かった、大切なもの。
これだけは、誰にも渡してはいけない。
そして、村長の言葉が再び頭をよぎった。
『家も畑もロバも、全部俺のものだからな!』
奴隷商人に売るとも言われた。
ノンナが亡くなったことで、この家に自分を守ってくれる大人はいなくなった。
クーラは村長を追い返してくれた。
けれど、あの男がこれで諦めるとは思えなかった。
このまま村に残るわけにはいかない。
「……出ていきましょうか」
足元にいたティスが顔を上げた。
マリーはその頭を撫でた。
「ティスも一緒ですよ」
ティスは尻尾を振った。
もちろん、話の内容を理解しているかどうかはわからない。
マリーは立ち上がり、必要なものを選び始めた。
ノンナが冬を越すために蓄えていた食料を確認した。
「収納ボックスに入ってください」
マリーが声をかけると、食料が次々と姿を消した。
続いてロバ小屋へ向かい、パリカールの冬用の飼葉も収納した。
「これで、しばらくは食べるものに困りませんね」
日用品や家具は、そのまま家に残していく。
準備を終えたマリーは、家の中をもう一度見渡した。
鶏たちをすべて連れていくことはできない。
けれど、一羽くらいなら、パリカールに乗せて連れていけるだろう。
「……一羽だけ、一緒に来てもらいましょうか」
マリーは鶏小屋へ向かった。
鶏たちの中に、一羽だけ体の小さな子がいた。
ほかの鶏たちに押されて、餌を十分に食べられないこともあった。
そのため、マリーはいつも、その子にだけ別に餌をあげていた。
すると、いつの間にか懐いてしまい、マリーの後ろをちょこちょことついて歩くようになっていた。
「あなたも、一緒に来ますか?」
小さな鶏は、返事をするように小さく鳴いた。
「では、一緒に行きましょう」
残った鶏たちの世話は、クーラにお願いすることにした。
家に戻ると、紙を一枚取り出す。
まだ小さな手で、ゆっくりと文字を書いた。
『クーラおばさんへ
鶏たちをお願いします』
書き終えると、食卓の上に置いた。
「これで大丈夫でしょう」
大丈夫かどうかは、クーラ次第だった。
だが、今のマリーにできることは、それくらいしかなかった。
「……雪の中を、いきなり王都まで行くのは難しいですね」
マリーは少し考えた。
以前、薬草を探しに入った迷いの森。
その奥で、古い廃屋を見つけたことがあった。
初めて森に入ったときは、そこが迷いの森だとは知らなかった。
採ってきた薬草をノンナに見せると、どこで見つけたのかと尋ねられた。
場所を説明した途端、ノンナの顔色が変わった。
『あそこは迷いの森だよ。危ないから、もう入ってはいけないよ』
そう注意されたのを覚えている。
けれど、マリーは自分の記憶力には自信があった。
通ってきた道も、目印になる木も、ちゃんと覚えている。
(私は記憶力がいいので、大丈夫だと思うのですが……)
そう考えていたのだった。
「ひとまず、あの家で春まで過ごしましょう。それから王都へ向かえばいいですね」
食料は十分にある。
パリカールの飼葉も用意できた。
「幸い、食料もたっぷりありますし、薪にする枝も、収納ボックスがあればたくさん運べますね」
それに、迷いの森なら村人たちも近づかない。
「村の人たちも近づかないでしょうし、安心して暮らせそうですね」
冬の森で暮らすことに、多少の不安はあった。
けれど、マリーはすでに春までの生活を考え始めていた。
意外とたくましいマリーだった。
外へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
パリカールは小屋の中で、のんびりとこちらを見ていた。
かつては痩せ細り、傷だらけだったロバも、今ではすっかり肉付きがよくなっている。
「パリカール。お引っ越しですよ」
マリーは、ノンナが用意してくれた防寒具を取り出した。
どれもノンナが、三人のために心を込めて用意してくれたものだった。
まず、ティスに赤と白の編み込み模様の暖かい服を着せた。
次はパリカールの番だった。
帽子とネックウォーマーが一体になったような、不思議な形の被り物。
赤い毛糸を基調に、白い雪の結晶の模様が編み込まれている。長い耳が出るようになっていて、頭から首元まですっぽりと覆うことができた。
「はい。これで寒くありませんね」
パリカールは耳をぴくりと動かした。
最後に、マリーも自分の防寒具を身につけた。
赤と白の雪の結晶模様が入った、厚手の毛糸のポンチョ。フードには大きな白いポンポンがついている。
足元には、内側に柔らかな毛が敷き詰められた、暖かい革のブーツ。
小さな足が冷えないようにと、ノンナが用意してくれたものだった。
三人の防寒具は、すべてお揃いだった。
マリーはポンチョの裾をそっと握った。
ノンナが選んでくれた服。
ノンナが用意してくれたブーツ。
もう、あの優しい手で着せてもらうことはできない。
それでも、ノンナが残してくれたぬくもりは、今も三人を包んでいた。
実は、パリカールの背中にマリーとティスが仲良く乗っている姿は、村でもひそかに評判になっていた。
赤と白のお揃いの防寒着を身につけた三人が並ぶ姿は、なんとも愛らしい。
見かけるたびに思わず頬を緩める村人もいたほどだった。
もっとも、当の本人たちは、そんな評判などまったく知らなかった。
「では、行きましょう」
マリーが手綱を引いて歩き出そうとすると、パリカールが動かなかった。
「……どうしました?」
パリカールは首を曲げ、背中を示すようなしぐさをした。
背中には、寒さを防ぐための毛布が掛けられている。
「乗れということですか?」
パリカールは動かない。
どうやら、そのつもりらしい。
「でも、歩けますよ?」
それでもパリカールは譲らなかった。
パリカールが前脚を折って体を低くすると、マリーはティスを抱いて、その背中によじ登った。
すると、パリカールはようやく歩き始めた。
「……ありがとうございます」
マリーは小さく礼を言った。
こうして、一人の幼女と一匹の子犬、一頭のロバ、そして一羽の鶏は、雪の降る夜の村を後にした。
村の明かりが遠ざかっていく。
マリーは一度だけ振り返った。
みんなと暮らした家は、もう見えなかった。
「……さようなら」
小さな声は、夜の闇に消えていった。
空からは、また雪がちらつき始めた。
「まるでブレーメンの音楽隊みたいですね」
マリーはパリカールとティス、そして鶏を順番に眺めた。
「ロバと犬と鶏……ということは、私は猫でしょうか」
少し考えてから、頷いた。
「では、ブレーメンの家に向かいましょうか」
そこで、ふと疑問が浮かんだ。
「ところで、ブレーメンの音楽隊って、結局ブレーメンには行っていませんよね?」
しばらく考え込む。
「この場合、『ブレーメンに行きたい音楽隊』が正解ではないでしょうか?」
もちろん、誰からも返事はなかった。
「……それに、あの家には泥棒が住んでいましたね」
マリーは森の奥を見つめた。
「泥棒は住んでいませんよね?」




