思い出のかけらが見つかった日
夏も終わりに近づいていた。
日差しにはまだ夏の名残があったが、木陰を吹き抜ける風には、ほんの少し秋の気配が混じり始めている。
ノンナの家の裏手には、小さな雑木林が広がっていた。
背の高い木々が枝を伸ばし、重なり合った葉の隙間から、細い日差しが地面に落ちている。
足元には柔らかな落ち葉が積もり、その間からシダや小さな草花が顔を覗かせていた。
遠くでは蝉が鳴いている。
ときおり、風に揺れた枝から乾いた葉が一枚、くるくると回りながら落ちてきた。
マリーは小さな籠を片手に、林の中を歩いていた。
まだ五歳にもならない、小柄な少女だった。
柔らかな髪が歩くたびに揺れ、木漏れ日がその上を滑っていく。
幼い顔立ちには、年相応の愛らしさがあった。
ただ、その表情はひどく静かだった。
大きな瞳は周囲を注意深く見つめているのに、そこに喜びや驚きが浮かぶことはほとんどない。
マリーは足元に目を落とした。
木の根元に、小さな薬草が群生している。
しゃがみ込んで葉を確かめ、必要な分だけ丁寧に摘み取った。
籠の中には、すでに何種類かの薬草が入っている。
この林は家から近く、危険な獣もほとんど出ない。
ノンナに教わった薬草を探すには、ちょうどよい場所だった。
ノンナの家は貧しいわけではない。
食べるものにも困らないし、必要なものはきちんと揃えてくれる。
それでも、少しでもおばあさんの役に立てたらいい。
薬草は薬にもなるし、余れば売ることもできる。
自分にもできることがある。
それが嬉しかった。
マリーは立ち上がり、少し先に見つけた薬草へ向かって歩き出した。
木の根をまたぎ、低い枝をくぐる。
少し足場の悪いところでは、幹に手をついて体を支えた。
そして、ふと立ち止まった。
苦しくない。
胸も痛くない。
息も切れない。
こんなに歩いても、熱が出ることもない。
それだけで、幸せだった。
以前は、少し動くだけでも苦しかった。
走ることなど考えられなかった。
立ち上がるだけで胸が痛み、息ができなくなることもあった。
熱を出して寝込むことも珍しくなかった。
痛いことも、苦しいことも、数え切れないほどあった。
マリーは自分の小さな手を見つめた。
指を開き、握りしめる。
もう一度、開く。
思いどおりに動く。
痛くない。
不思議だった。
これは、今の自分の記憶ではない。
もっと前の。
ずっと前の、自分。
私は、転生したのだろうか。
そんな考えが、ぼんやりと浮かぶ。
けれど、はっきりとは思い出せない。
記憶は霧の向こうにあるようで、手を伸ばしても届かなかった。
ただ、苦しかったことだけは覚えている。
何度も何度も、痛い思いをした。
病院の白い天井。
消毒薬の匂い。
機械の規則正しい音。
そして、何度も繰り返された言葉。
『五歳まで生きられません』
『十歳まで生きられないでしょう』
『十五歳まで生きるのは難しいでしょう』
それでも、生きていた。
五歳を過ぎた。
十歳を過ぎた。
十五歳も過ぎた。
けれど、生き延びるたびに、次の余命宣告が待っていた。
いつまで生きられるのか。
あと何年、生きられるのか。
そんなことばかりを考えていた。
最初の頃、母親はよく泣いていた。
父親は何も言わず、医師の説明を聞いていた。
二人とも、いつも疲れていた。
自分の病気のために、何度も病院へ通い、仕事を休み、眠れない夜を過ごしていた。
やがて、両親は離婚した。
母親の顔を思い出す。
悲しそうな顔。
疲れ果てた顔。
そして、最後に見た顔。
母親は、自ら命を絶った。
父親は、いつの間にか笑わなくなっていた。
何を話しかけても、表情が動かなくなった。
やがて父親も、病院に入った。
私が先のはずだったのに。
私の死に怯えていた両親の方が、先に行ってしまった。
マリーは木の幹に小さな手を添えた。
風が吹き、頭上の葉がさわさわと揺れる。
その音を聞きながら、ぼんやりと考える。
いつからだったのだろう。
笑えなくなったのは。
泣けなくなったのは。
痛いと言わなくなったのは。
苦しいと訴えることさえ、できなくなったのは。
少しずつ。
本当に少しずつ。
痛みと悲しみの中で、心が凍りついていった。
最後には、自分が何を感じているのかさえ、わからなくなっていた。
そして。
どうやら、終わったらしい。
その先の記憶は、ほとんどない。
気がつけば、ノンナの家にいた。
温かなミルクを飲ませてもらった。
柔らかい布に包まれ、優しい腕に抱きしめられていた。
ノンナはいつも、穏やかな声で話しかけてくれた。
寒い夜には、タルドがそばに寄り添ってくれた。
大きな体は温かく、安心して眠ることができた。
自分は、拾われた子供らしい。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
ノンナがいる。
タルドがいる。
二人は、自分の家族だ。
今は幸せだった。
苦しくない。
痛くない。
温かなご飯が食べられる。
夜になれば、安心して眠れる場所がある。
誰かが自分を待っていてくれる。
それなのに。
マリーはそっと自分の頬に触れた。
今も、うまく笑えない。
泣くこともできない。
嬉しいと思っても、それをどう表せばいいのかわからない。
悲しいと思っても、顔には何も出てこない。
心の中には確かに何かがあるのに、それを外へ出す方法を忘れてしまったようだった。
マリーは小さく息を吐いた。
そのとき、ふと、あの子のことを思い出した。
ゴールディーの子犬。
ティス。
初めてあの子を見たとき、不思議なことが起きた。
胸が痛くなったのだ。
けれど、それは病気のときのような苦しい痛みではなかった。
懐かしいような。
何か大切なものを、ようやく見つけたような。
そんな、不思議な感覚だった。
気がつけば、抱きしめていた。
名前を呼んでいた。
ティス。
どうしてその名前が出てきたのか、わからない。
たぶん、本当はあの子の名前ではない。
誰かの名前。
ずっと昔に知っていた、誰かの名前。
でも。
あの子の名前は、ティスなのだ。
そう思った。
理由はわからない。
けれど、いつかわかる日が来るような気がしていた。
あの子を抱きしめたとき。
自分の頬を、何か温かいものが伝っていた。
ぽろぽろと。
止めようとしても、止まらなかった。
涙だった。
ずっと泣けなかったのに。
あの子を抱きしめたら、涙が出た。
あのとき、ほんの少しだけ。
凍りついていた心が、動いたような気がした。
マリーはしばらく、その場に立っていた。
やがて、足元に咲いている小さな花に気づいた。
淡い色の花びらが、風に揺れている。
その隣には、探していた薬草が生えていた。
マリーはしゃがみ込み、そっと葉を摘んだ。
籠の中に入れる。
もう少し集めたら、家に帰ろう。
ノンナが待っている。
タルドもいる。
ティスもいる。
それから、新しくやって来たパリカールも。
木々の向こうから、柔らかな風が吹いてきた。
夏の終わりを告げる風だった。
マリーは籠を持ち直すと、木漏れ日の落ちる小道を、ゆっくりと歩き始めた。




