君(ロバ)の名は……
その日は、穏やかな日差しが降り注いでいた。
夏も終わりに近づき、村を吹き抜ける風には、ほんの少し秋の気配が混じり始めている。
ノンナとマリーは、いつものように村の道を歩いていた。
道の両側には小さな家々が並び、庭先には洗濯物が揺れている。
遠くから鶏の鳴き声が聞こえ、畑仕事を終えた村人が二人に挨拶をして通り過ぎた。
マリーはノンナの隣を、小さな歩幅で歩いていた。
まだ四歳にもなっていない、小柄な少女だった。
整えられた服に身を包み、静かな表情で辺りを眺めている。
そんな二人が村長の屋敷の前を通りかかったときだった。
ばしんっ!
突然、何かを叩く音が響いた。
続いて、弱々しい鳴き声。
「……おや?」
ノンナが足を止めた。
村長の屋敷は、村の家々とは比べものにならないほど立派だった。
二階建ての石造りの建物を高い塀が囲み、大きな門の向こうには広い庭が見える。
その庭先から、再び音がした。
ばしんっ!
「この役立たずが!」
男の怒鳴り声だった。
ノンナが門の方へ目を向ける。
そこには、一頭のロバがいた。
ひどく痩せていた。
肋骨が浮き上がり、腰の骨がくっきりと見えている。
毛並みは泥で固まり、ところどころ毛が抜け落ちていた。
首には粗い縄が食い込み、背中には何本もの鞭の跡が走っている。
足元には空っぽの飼い葉桶。
ロバは立っているのがやっとという様子で、頭を垂れていた。
その前に立っていたのは、村長だった。
「動け! この穀潰しが!」
村長が鞭を振り上げる。
「お待ちなさい!」
ノンナの声が響いた。
村長が振り返る。
「なんだ、ノンナか」
「そんなに叩いたら、死んでしまうよ」
「死ぬなら死ぬで構わねぇさ。荷物も運べねぇ、餌ばかり食いやがる」
村長は忌々しそうにロバを睨んだ。
「肉にするにも痩せすぎだ。皮だって使いものになりゃしねぇ」
ノンナは眉をひそめた。
「だったら、もう少し食べさせてやればいいじゃないか」
「食わせたところで、働かなきゃ意味がねぇだろうが」
村長は鼻を鳴らした。
そして、ノンナの隣に立つマリーを見た。
「お前んところの、役に立たねぇガキと同じだな」
ノンナの表情が変わった。
けれど、すぐにいつもの穏やかな顔に戻した。
村長はノンナの遠い親戚にあたる。
しかも、この村では大きな権力を持っていた。
ここで言い争いをしても、ろくなことにはならない。
「……それなら、そのロバを私に売っておくれ」
「ああ?」
「どうせ役に立たないんだろう? うちで引き取るよ」
村長は目を細めた。
「何に使うつもりだ?」
「さあねぇ。もし死んだら、ゴールディーたちの餌にでもするさ」
ノンナは何でもないことのように答えた。
村長はにやりと笑った。
「銀貨八枚だ」
「高いねぇ」
「俺が買ったときの値段だ」
「買ったときは、もっと元気だったんだろう?」
「うるせぇな。嫌なら帰れ」
ノンナは少し考えた。
ロバのそばには、古びた荷車が置かれている。
車輪は泥だらけで、木枠にも傷が目立つ。
「じゃあ、その荷車もつけておくれ」
「はあ?」
「この子だけ連れて帰っても、荷物は運べないからねぇ」
村長は腕を組んだ。
「その荷車はボロでもまだ動くんだ! 両方合わせて金貨一枚だ!」
ノンナはため息をついた。
「まったく、商売上手なことだねぇ」
そう言いながら、ポケットを探る。
先日、市場へ出かけたときに使わずに残った金貨が、まだ一枚入っていた。
「はいよ」
村長は差し出された金貨をひったくるように受け取った。
歯で噛んで確かめると、満足そうに頷いた。
「よし。持っていけ」
ずいぶん得をしたと思っているらしい。
ノンナはロバの首の縄を解いた。
「さあ、行こうかね」
けれど、ロバは動かなかった。
足を踏ん張る力さえ残っていないのか、頭を垂れたままだ。
「ほら見ろ。役立たずだと言っただろうが」
村長が嘲るように笑った。
ノンナは困ったようにロバを見つめた。
そのときだった。
マリーがロバの前へ歩み出た。
小さな手をポケットに入れる。
何かを取り出し、掌に載せた。
そして、ロバの鼻先へ差し出した。
ロバがゆっくりと顔を上げる。
鼻をひくひくと動かした。
やがて、小さな掌をぺろりと舐めた。
その瞬間。
ロバの長い耳が、ぴんと立った。
もう一度、マリーの掌を舐める。
何かを確かめるように、鼻先を近づけた。
マリーは何も言わず、そっと手綱を引いた。
すると。
ロバが一歩、足を踏み出した。
もう一歩。
ゆっくりと、マリーについて歩き始めた。
「……は?」
村長が間の抜けた声を出した。
「おい、ちょっと待て!」
鞭で叩いても動かなかったロバが、小さな女の子について歩いている。
村長は信じられないという顔で、その後ろ姿を見つめていた。
ノンナは思わず口元を緩めた。
「それじゃあ、失礼するよ」
マリーは振り返らなかった。
ただ静かに、ロバの手綱を引いて歩いていく。
古い荷車が、からからと音を立てた。
穏やかな日差しの中。
二人と一頭は、何事もなかったかのように、のんびりと村の道を歩いていった。
◇
村長の屋敷が見えなくなった頃、ノンナは隣を歩くマリーに尋ねた。
「ところでマリー。さっきは一体、何をやったんだい?」
マリーは小さな手でロバの手綱を握ったまま、ノンナを見上げた。
そして黙ってポケットを探り、茶色い紙袋を取り出した。
「おや、それは……」
ノンナには見覚えがあった。
以前、市場でゴールディーの子犬を買った日のことだ。
マリーへの誕生日プレゼントとして子犬を買ったのだが、思っていたよりずっと安く済んでしまった。
それでは少し物足りない気がして、もう一つ何か買ってやろうと思ったとき、目に留まったのが量り売りの黒砂糖だった。
小さな紙袋に入れてもらった黒砂糖のかけら。
マリーはそれを大事にポケットにしまっていたらしい。
「それを食べさせたのかい?」
マリーはこくりと頷いた。
「草も食べられないみたいだから……甘いものなら食べられると思ったの」
小さな声で、つぶやくように答える。
ノンナは一瞬きょとんとした。
それから、声を上げて笑った。
「あっはっはっは! そうかい、そうかい!」
鞭で叩いても動かなかったロバが、黒砂糖ひとかけらで歩き出したのだ。
「そりゃあ、あの村長も驚くだろうねぇ!」
思い出すと、また笑いが込み上げてくる。
マリーは何がおかしいのかわからない様子で、首を少し傾けた。
その横では、ロバが長い耳を揺らしながら、ゆっくりと荷車を引いていた。
「家に帰ったら、砂糖水を少し飲ませてやろうね。だから、もうちょっと頑張りな」
ノンナはロバの背中を、とんとんと優しく叩いた。
ロバは耳をぴくりと動かした。
荷車の車輪が、からからと音を立てる。
急ぐこともない。
三人はのんびりと家へ向かった。
◇
ノンナの家には、長いこと使われていない小さな馬小屋があった。
昔は馬を飼っていたこともあったが、今では農具や古い木箱を置く場所になっている。
扉を開けると、乾いた藁と古い木の匂いがした。
「さて、まずはここを片づけないとねぇ」
ノンナは腕まくりをした。
壁際に積んであった木箱を外へ運び、使わなくなった農具を隅へ寄せる。
マリーも小さな木箱を一つ抱えた。
よいしょ。
両手で持ち上げ、よたよたと外へ運んでいく。
「おやおや、無理しなくていいんだよ」
マリーは首を横に振った。
「できる」
「そうかい。じゃあ、お願いしようかね」
ノンナは笑って、箒を一本渡した。
マリーは小さな手で柄を握り、床に散らばった古い藁を集め始めた。
しゃっ、しゃっ。
短い腕を一生懸命動かす。
ときどき箒の先が床の隙間に引っかかり、思うように動かない。
それでも黙々と掃き続けた。
ノンナが古い藁を外へ運び出し、新しい藁を厚めに敷き詰める。
壁際には水桶と飼い葉桶を置いた。
「よし。こんなものかね」
小さな馬小屋は、すっかり居心地のよさそうな場所になった。
ノンナはロバを中へ入れ、荷車を外した。
「今日はゆっくりお休み」
ロバは敷かれた藁を鼻先で確かめると、静かに立っていた。
「さて、砂糖を取ってくるからね」
ノンナはそう言い残して家へ戻った。
マリーはロバのそばに残った。
泥で固まった背中。
骨の浮き出た腰。
ところどころ毛が抜け、傷だらけになった体。
マリーは小さな手を伸ばした。
そっと背中を撫でる。
「……早く傷が治るといいね」
ぽん、ぽん。
優しく二度、首を叩いた。
それから空になっている水桶に気づき、井戸へ水を汲みに向かった。
ロバは、その小さな後ろ姿を見送った。
そして、不思議そうに耳を動かした。
痛くない。
先ほどまで、立っているだけでもつらかった足が。
鞭で叩かれ続けた背中が。
縄の食い込んでいた首が。
どこも痛くない。
お腹の奥にあった、重く鈍い痛みまで消えていた。
ロバは恐る恐る前足を動かした。
一歩。
もう一歩。
痛くない。
首を振ってみる。
痛くない。
背中をぶるりと震わせても、あの焼けるような痛みが走らない。
何が起きたのだろう。
あの小さな女の子に撫でられただけなのに。
ロバには、何もわからなかった。
ただ一つ、わかったことがある。
あの小さな女の子が、大好きだ。
また、あの手で撫でてほしい。
ロバは馬小屋の入り口へ顔を向け、長い耳をぴんと立てた。
◇
翌朝。
「さあ、今日はきれいにしてあげようねぇ」
ノンナは馬小屋の前に大きな桶を用意した。
マリーも小さな桶を抱えてやって来る。
ロバは二人の姿を見るなり、嬉しそうに耳を動かした。
「おや。昨日よりずいぶん元気じゃないか」
ノンナはロバの首を撫でた。
まずは水を含ませた布で、泥の固まった毛を少しずつ湿らせていく。
乾いた泥がぽろぽろと落ちた。
「こりゃあ、洗いがいがあるねぇ」
マリーは小さな桶に水を汲み、ノンナのそばへ運んだ。
ノンナが布を洗うと、桶の水はあっという間に茶色く濁った。
「まあ、ひどい汚れだこと」
新しい水に替えようとすると、マリーが空の桶を持ち上げた。
「持ってくる」
「ありがとうね。でも重いから、少しずつでいいんだよ」
マリーはこくりと頷き、井戸へ向かった。
何度も水を運び、汚れた布をすすぐ。
ノンナが背中を洗っている間、マリーは柔らかい布でロバの足を拭いた。
ロバはじっとしている。
ときどき鼻先を伸ばし、マリーの髪に触れようとする。
「こらこら。くすぐったいだろう」
ノンナが笑った。
マリーは何も言わず、ロバの鼻先をそっと押し戻した。
ようやく泥が落ちてくると、ノンナは不思議そうに首を傾げた。
「……おや?」
あれほどひどい鞭の跡があったはずなのに、皮膚にはほとんど傷が残っていない。
首の擦り傷も、すっかりきれいになっていた。
「思ったより傷がなくてよかったねぇ」
ノンナは呑気につぶやいた。
「泥が厚くこびりついていたから、鞭も皮膚まで届かなかったんだろうねぇ」
マリーは何も答えなかった。
ただ、きれいになったロバの背中を撫でていた。
ロバは気持ちよさそうに目を細めている。
洗い終わる頃には、灰色の毛並みがようやく見えるようになっていた。
もっとも、骨と皮ばかりの体は相変わらずだ。
「さあ、あとはしっかり食べて、太ってもらわないとね」
ノンナは満足そうに頷いた。
そして、ふと思いついたように言った。
「そういえば、この子の名前はどうしようかねぇ」
「パリカール」
隣にいたマリーが、ぽつりと言った。
「パリカール?」
ノンナは聞き返した。
「変わった名前だねぇ」
マリーはロバの長い耳を見つめながら、小さな声で答えた。
「ロバの名前は、パリカールって思ったの。どうしてそう思ったのかはわからないの。でも、パリカールなの」
ノンナは少し驚いてマリーを見た。
普段は必要なことしか話さない子が、こんなに長く自分の考えを口にするなんて。
それがなんだか嬉しかった。
「そうかい。じゃあ、パリカールだね」
ノンナはロバの首を優しく撫でた。
「パリカール。これからよろしくね」
ロバは長い耳をぴくりと動かした。
「さて、パリカール。まずはご飯だねぇ」
ノンナが飼い葉桶に餌を入れると、ロバは鼻先を近づけた。
ふんふんと匂いを嗅ぐ。
そして、一口。
もぐもぐ。
もう一口。
もぐもぐ、もぐもぐ。
「おやおや」
ノンナが目を丸くした。
ロバは夢中になって食べ始めた。
昨日まで何も食べなかったというのが嘘のようだった。
「そんなに慌てなくても、もう誰も取り上げやしないよ」
ノンナは笑いながら、食べすぎないよう餌の量を加減した。
マリーは馬小屋の入り口にちょこんと座り、パリカールが食べる様子を眺めていた。
ときどきロバが顔を上げる。
マリーがいることを確かめるように。
そして安心したように、また餌を食べ始める。
「まったく。マリーのことがよっぽど気に入ったんだねぇ」
ノンナは笑った。
マリーは小さく首を傾げた。
パリカールはそんな二人の会話など気にも留めず、もぐもぐと口を動かしていた。
これからは、腹いっぱい食べられる。
痛い思いもしなくていい。
そして、あの小さな女の子がいる。
パリカールにとって、それだけで十分だった。




