懐かしいけれど、違う犬の話
辺境の小さな村に移り住んで、三年の月日が流れた。
「マリーも今日で三歳なのね……」
ノンナはしみじみと呟いた。
王都に近い村から、逃げるようにしてこの辺境の村へやってきたのが、つい昨日のことのように思える。
あの頃、あまりにも小さく、か弱かった赤ん坊は、今ではすっかり元気になった。
ただ、少し気になることもある。
マリーはあまり喋らない。
表情も乏しく、嬉しいのか悲しいのか、何を考えているのかさえ、わからないことがある。
小さく生まれた影響なのかもしれない。
それでも、頭の良さには驚かされるばかりだった。
一度教えたことは、二度と教える必要がない。
薬草の名前も、採り方も、あっという間に覚えてしまった。
最近では、一人で薬草を見つけて持ち帰ることもある。
しかも、一度も間違えたことがない。
「本当に、不思議な子ね……」
ノンナは小さく息をついた。
ふと、部屋の隅に目を向ける。
そこには、年老いた使い魔のタルドが丸くなって眠っていた。
タルドは、ゴールディーという種類の使い魔だ。
普通の犬とは違い、五十年以上も生きる。
生まれてから十年間は、どんくさい子犬の姿のまま成長しない。
そして十年が過ぎると、とてつもなく強い使い魔になることもあれば、そのまま何の役にも立たないこともある。
そのため、別名「無駄飯食らい」。
タルドは残念ながら、後者だった。
五十年以上生きているというのに、相変わらずのんびりしていて、使い魔らしい働きなどほとんどしない。
それでも、ノンナにとっては長年連れ添った大切な家族だった。
三年前、あの小さな赤ん坊が息を吹き返した瞬間も、一緒に見届けている。
「あなたも歳を取ったわね。……私と一緒ね」
眠っているタルドに、そっと声をかける。
自分も、もう若くはない。
タルドも同じだ。
あと何年、あの子のそばにいてあげられるだろう。
自分もタルドも、いつかはこの世を去る。
そのとき、マリーはまだ一人で生きていける年齢ではないかもしれない。
あの子を一人ぼっちにしてしまう。
それだけは、どうしても避けたかった。
「そうね……。そろそろ、あの子にも使い魔が必要ね」
強くなくてもいい。
特別な能力などなくてもいい。
ただ、あの子のそばにいてくれる存在が欲しかった。
幸い、お金の心配はない。
マリーが大人になるまで暮らしていけるだけの蓄えは、十分にある。
ノンナは棚の奥から小さな革袋を取り出した。
中から金貨を一枚選び、そっとポケットに忍ばせる。
「今日は、あの子の誕生日だものね」
ちょうどそのとき、玄関の扉が開いた。
小さな足音が近づいてくる。
マリーが帰ってきたのだ。
「おかえり、マリー」
マリーはこくりとうなずいた。
その顔には、相変わらずほとんど表情がない。
「今日はね、一緒に市場へ行きましょう」
マリーが小さく首をかしげた。
「市場?」
「ええ。あなたに、誕生日の贈り物を買ってあげたいの」
マリーはこくりとうなずいた。
ノンナは微笑んだ。
この子が喜んでくれるかどうかは、わからない。
それでも、いつか自分がいなくなったとき、この子の隣にいてくれる誰かを見つけてあげたい。
そんな願いを胸に、ノンナはマリーの小さな手を取った。
二人は連れ立って、市場へと向かった。
市場にて
今日はちょうど旅の行商人が来る日だった。
普段は静かな辺境の村も、朝からずいぶん賑わっている。
村の広場には色とりどりの布を張った屋台が並び、野菜や果物、日用品などが所狭しと積まれていた。
焼きたてのパンの香りに、肉を焼く香ばしい匂いが混じる。
威勢のいい呼び込みの声や、値段を交渉する村人たちの声が、あちらこちらから聞こえてきた。
子供たちは屋台の間を駆け回り、久しぶりの賑わいを楽しんでいる。
ノンナはマリーの小さな手を引きながら、ゆっくりと店を見て回っていた。
「おや、ノンナさんじゃないか!」
野菜や卵を扱う屋台の前を通りかかったとき、店の親父が声をかけてきた。
日に焼けた丸い顔に、立派な口ひげ。恰幅のいい男が、木箱に積んだ野菜の向こうから身を乗り出している。
「今日は卵は売らないのかい?」
親父はそう言って、にかっと笑った。
ここ最近、ノンナは何度も卵を売りに来ていた。
すっかり顔を覚えられてしまったらしい。
「今日は買い物なの」
「そうかい。そりゃ珍しい。何かいいものが見つかるといいな!」
「ありがとう」
ノンナは軽く会釈して、その店を離れた。
それにしても。
最近、家の鶏たちの様子がどうにもおかしい。
飼っている雌鶏は五羽。
それなのに、毎朝卵を集めると、十個を超えている。
昨日は十三個。
その前は十五個だった。
最初は、数え間違えたのかと思った。
けれど、何度数え直しても、卵の数は変わらない。
鶏が一日に何個も卵を産むことがあるとは聞いたことがある。
しかし、五羽そろって毎日というのは、さすがにおかしい。
しかも、卵はどれも立派で、殻もしっかりしている。
おかげで食卓には毎日のように卵料理が並ぶようになった。
それでも食べきれず、近所に配ったり、市場で買い取ってもらったりしている。
おかげで、ちょっとした小遣い稼ぎにもなっていた。
ありがたいことではある。
あるのだけれど……。
ノンナはちらりと、隣を歩くマリーを見た。
小さな女の子は、いつもの無表情で屋台を眺めている。
……まあ、いいか。
世の中には、不思議なこともあるものだ。
何となく、それ以上考えてはいけないような気がした。
ノンナは小さく首を振り、今日のお目当ての店を探すことにした。
くいくい。
不意に、スカートの裾が引かれた。
足を止めて見下ろすと、マリーが小さな指で広場の端を指していた。
「あれ、見てもいい?」
いつもより、ほんの少しだけ大きな声だった。
ノンナは指差す先へ目を向けた。
そこには、使い魔を扱う屋台があった。
ほかの店よりも少し広い場所を取り、大小さまざまな籠や木箱が並べられている。
籠の中では、小さな魔物たちが丸くなって眠っていたり、落ち着きなく動き回っていたりする。
羽の生えたもの、長い耳を持つもの、毛むくじゃらのもの。
おとなしいものは籠の外に出され、杭につないだ紐の届く範囲で、のんびりと過ごしていた。
時折、甲高い鳴き声が上がり、それに応えるように別の籠からも声がする。
「気に入った子がいたのかい?」
ノンナが尋ねると、マリーはこくりとうなずいた。
珍しいこともあるものだ。
この子が自分から何かをねだることなど、ほとんどない。
普段は何を見せても、欲しいともいらないとも言わず、ただ静かに眺めているだけなのに。
今日は、自分から足を止めた。
ノンナは少し嬉しくなった。
ちょうど使い魔を買ってあげようと思っていたところだ。
気に入った子がいるのなら、それが一番いい。
「どの子がいいの?」
マリーが、もう一度指を差した。
ノンナはその先を目で追った。
そして、思わず足を止めた。
ほかにも、たくさんいるというのに。
なぜ、よりにもよって……。
屋台の端。
日陰になった地面に、べったりと腹をつけて寝そべっている子犬がいた。
ゴールディーの子供だった。
「本当に、その子にするのかい?」
ノンナは、地面に寝そべっている子犬を見つめながら尋ねた。
マリーは小さくうなずいた。
市場には相変わらず、威勢のいい呼び込みの声が響いている。
すぐ隣の屋台では、焼き菓子を売る女が客を呼び込み、少し離れたところからは、値段を巡って言い合う男たちの声が聞こえてきた。
使い魔の屋台でも、小さな魔物たちが鳴いたり、籠の中で羽ばたいたりしている。
そんな賑やかな場所で、問題の子犬だけが、まるで周囲の騒ぎなど関係ないとでもいうように、地面にべったりと寝そべっていた。
「おや、その子が気に入ったのかい?」
屋台の奥から、店の親父が声をかけてきた。
日に焼けた顔に無精ひげを生やした、がっしりとした体格の男だった。
使い込まれた革の前掛けを身につけ、腰には餌袋や小さな道具をいくつもぶら下げている。
男はマリーの指差す先を見て、何とも言えない顔になった。
「ああ……そいつか」
そして、困ったように頭をかいた。
「悪いことは言わねえ。そいつはやめときな」
ノンナも内心では同じことを考えていた。
ゴールディー。
十年もの間、子犬の姿のまま過ごし、その後に大きな力を得ることもあれば、何の役にも立たないまま一生を終えることもある。
当たり外れの激しい使い魔だ。
そして、ノンナの家には、その外れを引いたタルドがいる。
「見た目はかわいいんだがな。十年がかりのギャンブルだぜ。しかも、当たる確率はかなり低いときたもんだ」
親父は子犬を顎で示した。
「こいつなんか、特にひどい。飯だけはよく食うくせに、ちっとも動きやしねえ」
そう言いながら、男は子犬のそばにしゃがみ込んだ。
「ほら、起きろ」
軽く背中をつつく。
子犬は片方の耳をぴくりと動かした。
それだけだった。
「な?」
親父は両手を広げた。
「何度か売れたんだが、あまりにも動かなすぎてな。三回も返品されちまったんだ」
男はため息をついた。
「もう肉にしようかと思ってたところさ」
ノンナは眉をひそめた。
使い魔として役に立たない以上、商売人がそう考えるのも仕方がないのかもしれない。
けれど、長年タルドと暮らしてきたノンナには、あまり気持ちのいい話ではなかった。
「それより、こっちの鳥はどうだい?」
親父は気を取り直したように、隣の止まり木を指差した。
そこには、鷹によく似た魔物がとまっていた。
茶褐色の羽毛に覆われた体は引き締まり、鋭い目が周囲を油断なく見渡している。
親父が指を鳴らすと、鳥はすっと翼を広げ、止まり木の上で姿勢を正した。
「こいつは賢いぜ。よく言うことを聞くし、ウサギ狩りにも使える。今なら安くしとくよ」
なるほど、確かに賢そうだ。
狩りができるのなら、食べ物を手に入れる助けにもなる。
マリーが大きくなって、一人で暮らすことになったときにも、役に立つだろう。
ノンナはそう考え、隣のマリーに声をかけようとした。
「マリー、あの鳥は……」
しかし、言葉は途中で止まった。
マリーがいない。
いや、正確には、すぐ足元にいた。
いつの間にかしゃがみ込み、あのゴールディーの子犬を両腕で抱き上げていたのだ。
小さな体には少し大きすぎる子犬を、落とさないようにしっかりと抱えている。
子犬は抵抗することもなく、されるがままだった。
前足がだらりと垂れ、尻尾も力なく揺れている。
「……ティス」
マリーが、小さな声で呟いた。
「え?」
「ティス」
今度は、はっきりと聞こえた。
どうやら、もう名前まで決めてしまったらしい。
ノンナは子犬とマリーを交互に見つめた。
そして、小さくため息をついた。
こうなっては、仕方がない。
そもそも今日は、この子に使い魔を買ってあげるために市場へ来たのだ。
強くなくてもいい。
特別な能力などなくてもいい。
ただ、マリーのそばにいてくれる存在が欲しかった。
ノンナは店の親父に目を向けた。
男も、子犬を抱きしめるマリーを見ていた。
その顔には、先ほどまでの商売人らしい威勢のよさがなくなっていた。
「……参ったな」
親父はぼりぼりと頭をかいた。
「そんなに気に入っちまったのか」
マリーは何も答えなかった。
ただ、子犬を抱く腕に少しだけ力を込めた。
親父はしばらく二人を眺めていたが、やがて苦笑いを浮かべた。
「まあ、肉にしちまうのもかわいそうだしな」
そう言って、指を五本立てた。
「銅貨五枚でいいよ」
ノンナは少し驚いた。
肉として売るよりも安い値段だったからだ。
「そんなに安くていいのかい?」
「ああ。どうせまた返品されるくらいなら、気に入ってくれた子のところに行くほうがいいだろ」
男はそう言って、肩をすくめた。
口では散々なことを言っていたけれど、何度も売れては戻ってきた子犬に、いつの間にか情が移っていたのかもしれない。
「ありがとう」
ノンナは銅貨を五枚取り出し、親父に手渡した。
「毎度あり。……まあ、元気でな」
最後の言葉は、ノンナたちに向けたものなのか、それとも子犬に向けたものなのか。
親父はそれ以上何も言わず、ほかの客の相手をしに戻っていった。
ノンナはマリーのそばにしゃがみ込んだ。
「さあ、マリー。帰りましょうか」
そう声をかけて、ふと顔を覗き込む。
その瞬間、ノンナは息をのんだ。
マリーが泣いていた。
大きな声を上げるわけでもない。
顔をくしゃくしゃにするわけでもない。
いつもとほとんど変わらない表情のまま、小さな頬を涙が伝っていた。
ぽろり。
また一粒、涙が落ちる。
今まで、ほとんど泣いたことのない子だった。
転んでも、怪我をしても、滅多に声を上げない。
嬉しいときでさえ、表情が変わることはほとんどない。
そんなマリーが、子犬を大切そうに抱きしめながら、静かに涙を流している。
「……そんなに嬉しかったのかい?」
ノンナがそっと尋ねると、マリーはこくりとうなずいた。
子犬は相変わらず、何も知らないような顔で、その小さな腕に抱かれていた。




