終わりの始まり 異世界編幼少期スタート!
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長らくお待たせしました!
やっと異世界編のスタートです。
……ですが、いきなり甘くないスタートとなりました。w
苦労あり、笑いあり、涙あり。
そして、もちろん犬あり!
神様の思惑どおりには、なかなか進まない異世界生活。
果たして、まりは平穏な人生を送れるのでしょうか?
前世編、星降る世界編からお付き合いくださっている皆様、本当にありがとうございます。
ここから始まる新しい物語も、温かく見守っていただけると嬉しいです。
それでは、異世界編の始まりです!
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終わりの始まり 異世界編幼少期スタート!
夜道を、一人の老婆が走っていた。
両腕には、古びた大きな黒い革鞄を抱えている。
底が広く、ずっしりと重そうな鞄だった。
その傍らを、一匹の老犬がついていく。
長い毛はもっさりと伸び、少々太り気味の体を揺らしながら、懸命に老婆の歩調に合わせていた。
口には、淡い光を放つ魔導ランプをくわえている。
ランプの光が、暗い夜道をぼんやりと照らしていた。
「はっ……はっ……」
老婆の荒い息が漏れる。
足元はおぼつかない。
何度もよろめきながら、それでも鞄だけは両腕でしっかりと抱きしめていた。
老犬も短い息を繰り返しながら、老婆の横を離れない。
だが、ついに老婆の足がもつれた。
「あっ……!」
体が前のめりに倒れる。
抱えていた鞄が腕から飛び出し、地面に叩きつけられた。
留め金が外れ、大きく口が開く。
中から転がり出たのは、血の染みついた布の塊だった。
「あ……ああ……」
老婆は倒れたまま、呆然とそれを見つめた。
老犬が足を止める。
くわえていた魔導ランプをそっと地面に置くと、老婆のそばへ近づいた。
そのときだった。
布の塊が、かすかに揺れた。
「……?」
老婆が息を止める。
もう一度、小さく動いた。
そして。
「……みゃ……」
まるで生まれたばかりの子猫のような、か細い声が聞こえた。
老婆の目が大きく見開かれる。
布の内側で、何かがもぞもぞと動いていた。
ずれた布の隙間から、小さな手が現れる。
「……生きてる……」
老婆の唇が震えた。
「生きてる……!」
這うようにして布の塊へ近づく。
震える両手でそっと抱き上げると、胸にしっかりと抱き寄せた。
「ああ……あああ……!」
老婆の顔がくしゃくしゃに歪んだ。
涙が次々とこぼれ落ちる。
何かを言おうとしても、言葉にならない。
ただ、小さな命を胸に抱きしめ、声を上げて泣き続けた。
老犬は老婆のそばに腰を下ろした。
そして、泣き続ける老婆に、そっと鼻先を寄せた。
老婆は赤ん坊を抱いたまま、いつまでも泣いていた。
* * *
街道を、一台の立派な馬車が走っていた。
車体には、イーストン公爵家の紋章が刻まれている。
馬車の中には、公爵アレクサンダーとその妻、そして幼い息子のアスターが乗っていた。
本来なら、出産を間近に控えた公爵夫人が長旅をする予定などなかった。
事の発端は、王家の第二王子ノクティスだった。
わずか二歳にして天才的な頭脳を持ち、明るく人懐っこい性格で、誰からも愛されている王子である。
そのノクティスが、ある日突然、言い出したのだ。
『公爵家に生まれる二人目の子供は女の子なんでしょう? だったら僕のお嫁さんにするんだ!』
もちろん、ノクティスは公爵夫人を王都へ呼び寄せようとしたわけではない。
ただ、生まれてくる女の子をお嫁さんにしたいと、繰り返し言っていただけだった。
ところが、その話を聞いて浮き足立ったのが、先代のイーストン公爵だった。
『第二王子殿下が、うちの孫娘をお望みだと?』
まだ生まれてもいない孫娘の話に、すっかり気をよくした先代は、王都にいる自分のもとへ娘一家を呼び寄せたのである。
出産を間近に控えているのだからと、アレクサンダーも一度は断った。
けれど、義父は引き下がらなかった。
せめて出産前に、一度だけでも殿下にご挨拶を。
そう繰り返され、結局、王都へ向かうことになってしまった。
「まったく……義父上にも困ったものだ」
アレクサンダーは、向かいに座る妻を気遣わしげに見つめた。
「ふふ。父も、嬉しかったのでしょう」
「嬉しいのはわかるが、君の体を考えてほしいものだ。言い出したら聞かないのだから……」
今度ばかりは押し切られまいと思っていたのに、結局こうして馬車に乗っている。
アレクサンダーはため息をついた。
夫人は、そんな夫に申し訳なさそうな眼差しを向け、大きく膨らんだお腹を優しく撫でた。
「ねえ、母上。赤ちゃん、聞こえてるかな?」
アスターが母親のお腹に顔を近づける。
「聞こえていますよ、きっと」
「本当?」
「ええ」
「赤ちゃん、早く出ておいで! 一緒に遊ぼうね!」
その声は、お腹の中にも届いていた。
――聞こえていますよ。
まりは、心の中で返事をした。
もっとも、返事をしたところで外に届くわけではない。
それよりも、今は別の問題があった。
――狭いですね。
とにかく狭い。
自分が母親のお腹の中にいることは理解している。
そして、もう一人いることも。
どうやら双子らしい。
それ自体は仕方がないとしても、問題はその相手だった。
先ほどから、やたらと押してくる。
少し体勢を変えようとすれば、邪魔をされる。
ようやく落ち着けそうな場所を見つけても、すぐに押し返される。
――……何か恨みでもあるのでしょうか。
まりは、心の中でため息をついた。
前世の記憶は、まだ残っている。
だからこそ、自分の置かれた状況が理解できてしまう。
とはいえ、今の体では何もできない。
――生まれるまでの辛抱ですね。
そう考えた途端、また隣から押された。
――……。
どうやら、平穏な時間はまだ遠そうだった。
馬車は王都へ向かっていた。
予定では、夕方には王都にある公爵家のタウンハウスへ到着するはずだった。
しかし、その予定は突然崩れることになる。
「……っ!」
公爵夫人が小さく息を呑んだ。
「どうした?」
アレクサンダーが妻の顔を覗き込む。
「お腹が……少し……」
夫人は膨らんだ腹部に手を当てた。
「痛むのか?」
「ええ……でも、まだ……」
言い終わらないうちに、再び痛みが走った。
「……っ、ああ……!」
「馬車を止めろ!」
アレクサンダーが御者に声をかける。
馬車が速度を落とした。
「近くに村はないか!」
「少し先に小さな村がございます!」
「そこへ向かえ! 急げ!」
馬車は再び走り出した。
アスターは不安そうに母親を見上げていた。
「母上……?」
「大丈夫ですよ、アスター」
夫人は息を整えながら、息子の頭を撫でた。
「赤ちゃんが、少し早く会いに来たくなったのかもしれませんね」
そう言って微笑もうとしたが、次の痛みに顔を歪めた。
やがて馬車は、小さな村へと入った。
突然現れた公爵家の馬車に、村人たちが驚いて道を開ける。
事情を聞いた村長は、すぐに自宅を提供した。
夫人は村長の家の寝室へ運ばれた。
「医者を呼んでくれ!」
アレクサンダーの声に、村長は困ったように首を振った。
「申し訳ございません。この村には医者がおりません」
「では、近隣の町からでも!」
「今からでは、とても間に合いません」
村長は少し考え、顔を上げた。
「ですが、産婆ならおります」
「産婆?」
「はい。ノンナという老婆です。数年前にこの村へ移ってきたのですが、故郷でも長年、産婆をしていたそうです。こちらでも、何人もの子供を取り上げております」
アレクサンダーは迷わなかった。
「すぐに呼んでくれ!」
「承知いたしました!」
村長は家の者に声をかけた。
「ノンナ婆さんを呼んでこい! 急ぐんだ!」
* * *
村長の家は、村の中心から少し離れた場所に建っていた。
古い石造りの屋敷だったが、壁には丁寧に補修された跡があり、庭木もきれいに刈り込まれている。
建物の中も、長い年月を感じさせる家具が並んでいたが、隅々まで掃除が行き届いていた。
その屋敷に、産婆のノンナが駆けつけた。
「お、お待たせいたしました……!」
息を切らせて玄関に入ったノンナは、そこに立つ人々を見て足を止めた。
立派な衣服をまとった男性たち。
そして、その中心にいるのは、イーストン公爵その人だった。
「こ、公爵様……!」
ノンナは慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません! このような田舎の産婆で……」
「あなたがノンナか」
「は、はい……!」
「妻が産気づいている。どうか診てやってほしい」
「は、はい! すぐに!」
ノンナは案内されるまま、寝室へ向かった。
寝台には、公爵夫人が横たわっていた。
額には汗が浮かび、時折、苦しそうに息を吐いている。
ノンナは寝台のそばで、もう一度深く頭を下げた。
「こ、このような者が、お体に触れるご無礼を……」
すると、公爵夫人が静かに声をかけた。
「あなたがノンナさんですね」
「は、はい……!」
「来てくださって、ありがとう」
ノンナは驚いて顔を上げた。
夫人は痛みをこらえながらも、穏やかな表情を浮かべていた。
「どうか、よろしくお願いいたします」
「そ、そんな……! こちらこそ……!」
ノンナは恐縮して、何度も頭を下げた。
夫人はそっと手を伸ばし、ノンナの手に触れた。
「そんなに緊張なさらないで。今は、あなたが頼りなのです」
その言葉に、ノンナはしばらく目を瞬かせた。
そして、小さく息を吸う。
「……はい。精いっぱい、務めさせていただきます」
ノンナは持参した大きな黒い革鞄を開いた。
中には、長年使い込まれた道具が、きちんと収められていた。
震えていた手が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
やがて、公爵夫人の出産が始まった。
夫人に長年仕えている侍女たちも、寝室で手際よく準備を進めていた。
アスターが生まれたときにも付き添っていた者たちである。
湯を用意し、清潔な布を並べ、夫人の汗を拭う。
ノンナは夫人の様子を確かめながら、声をかけ続けた。
「奥様、もう少しです。ゆっくり息をしてくださいませ」
「……はい……」
どれほど時間が過ぎただろう。
ついに、小さな産声が寝室に響いた。
「お生まれになりました! 元気な女の子でございます!」
侍女たちから安堵の声が上がる。
ノンナは赤ん坊を清潔な布で包み、夫人のそばへ運んだ。
「……赤ちゃん……」
夫人は疲れ切った顔で、そっと娘を見つめた。
小さな手が動く。
夫人の口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「……よかった……」
侍女の一人が、公爵へ知らせるために部屋を出ていった。
ノンナは、残っていた侍女たちに声をかけた。
「こちらは私が。赤ちゃんのほうをお願いいたします」
侍女たちはうなずき、赤ん坊を抱いて隣室へ移った。
寝室には、ノンナと公爵夫人だけが残された。
夫人は疲労と後産のため、意識がもうろうとしていた。
ノンナは寝台のそばで、後産の処置を続けていた。
そのときだった。
「……え?」
ノンナの手が止まった。
もう一人。
赤ん坊が現れたのである。
「ふ、双子……?」
ノンナは息を呑んだ。
取り上げた赤ん坊は、小さかった。
あまりにも小さく、ぐったりとしている。
産声を上げない。
胸も動いていないように見えた。
「……そんな……」
ノンナは震える手で、赤ん坊の様子を確かめた。
反応がない。
呼吸も感じられない。
「……死んで……いる……?」
背筋が冷たくなった。
公爵家の出産。
しかも、誰も知らなかった二人目の赤ん坊。
もし、この子が死んでいると知られたら。
自分の手落ちだと言われるのではないか。
責任を問われるのではないか。
ノンナの頭の中で、恐ろしい考えばかりが膨らんでいった。
寝台の夫人は、目を閉じたまま動かない。
隣室からは、最初に生まれた赤ん坊の泣き声が聞こえていた。
ノンナはもう一度、手の中の小さな赤ん坊を見下ろした。
「……ごめんなさい……」
震える声で呟く。
そして、そばにあった布で赤ん坊を包んだ。
血の染みた布を重ね、小さな体を覆い隠す。
ノンナは自分の黒い革鞄を引き寄せた。
道具を片側へ寄せ、布の塊をそっと中へ収める。
留め金を閉じる音が、やけに大きく聞こえた。
ノンナはしばらく、その鞄を見つめていた。
やがて隣室から声がかかった。
「ノンナさん、奥様はいかがですか?」
「は、はい! お疲れでございますが、落ち着いておられます!」
ノンナは慌てて立ち上がった。
誰も気づいていない。
誰も、もう一人の赤ん坊が生まれたことを知らない。
しばらくして、公爵夫人も落ち着き、アレクサンダーが寝室へ入ってきた。
「よく頑張ったね」
夫は妻の手を握った。
「……あなた……」
「可愛い娘だ」
「ええ……」
夫人は嬉しそうに微笑んだ。
その傍らで、ノンナは深く頭を下げていた。
「ノンナ」
公爵に呼ばれ、肩がびくりと跳ねた。
「は、はい!」
「妻と娘を救ってくれたこと、感謝する」
「い、いえ……その……」
「本当にありがとう」
今度は公爵夫人が声をかけた。
「あなたのおかげです」
ノンナは顔を上げられなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
公爵は侍従に命じ、金貨の入った袋を持ってこさせた。
「少ないかもしれないが、礼として受け取ってほしい」
「こ、こんなに……!」
ノンナは慌てて首を振った。
「わ、わたくしには、とても……!」
「遠慮することはない」
公爵は穏やかに告げた。
さらに、公爵夫人が小さな装飾品を差し出した。
楕円形の金色のブローチ。
中央には、イーストン公爵家の紋章である薔薇が刻まれていた。
「これも、受け取ってください」
「お、奥様……?」
「もし何か困ったことがあったら、これを持って公爵家を訪ねていらっしゃい」
夫人は優しく微笑んだ。
「きっと力になれると思います」
ノンナはブローチを見つめた。
そして、震える手で受け取った。
「……ありがとう……ございます……」
声がかすれた。
夫人は、そんなノンナに変わらず優しい眼差しを向けていた。
やがて、ノンナは深く頭を下げて寝室を後にした。
片手には金貨の袋。
懐には薔薇のブローチ。
そして、もう片方の腕には、大きな黒い革鞄。
誰にも中を見られないよう、しっかりと抱えていた。
屋敷の外では、連れてきた老犬が待っていた。
もっさりとした毛を揺らし、ノンナの姿を見るとゆっくり立ち上がる。
口には、魔導ランプをくわえていた。
「……帰るよ」
ノンナは小さく呟いた。
老犬は黙って、その後についていった。
屋敷から離れるにつれ、隠してしまったことへの恐ろしさが込み上げてきた。
今からでも戻って、打ち明けるべきではないか。
けれど、優しく声をかけてくれた公爵夫妻の顔を思い浮かべると、足がすくんだ。
ノンナは金貨の袋を鞄に押し込み、両腕で抱え直した。
背後で誰かに呼び止められるような気がして、歩く足が次第に速くなる。
やがて、ノンナは走り出していた。
屋敷の中では、生まれたばかりの娘を囲んで、公爵一家が幸せな時間を過ごしていた。
アスターは父親に抱き上げられ、小さな妹の顔を覗き込んでいる。
「父上、赤ちゃん、ちっちゃいね!」
「ああ。お前も生まれたときは、こんなに小さかったんだぞ」
「ほんと?」
「本当だ」
夫人がくすりと笑った。
「アスター、お兄ちゃんになりましたね」
「うん! 僕、赤ちゃんを守ってあげる!」
その言葉に、父と母は顔を見合わせ、微笑んだ。
穏やかな笑い声が、部屋を満たしていた。
父と母、兄と生まれたばかりの妹。
四人の幸せな時間が、そこにはあった。
けれど、彼らは知らなかった。
もう一人の娘が生まれていたことを。
そして、その小さな命が、すでに屋敷を去っていたことを。




