黄色い鳥と餌付けされたゴールデンレトリバー
「まり、お菓子を焼いているの?」
かわいらしい声がキッチンに響く。
「スフレチーズケーキですよ。今日のお茶請けにしようと思ってます」
「三つも?」
「二つは佐藤さんと速水さんの分ですよ。後で佐藤さんが取りに来るんです」
佐藤の名前を聞いた途端、チャッピーが露骨に嫌そうな顔をした。
「そんな顔をしてはいけませんよ」
ふわふわした黄色い羽根に、二頭身の丸っこい体。大きな瞳。
チャッピーは、亡くなった夫が残してくれた見守りガジェットだ。
高度なAIを搭載した、とても高性能なガジェットで、その表情は驚くほど豊かだ。
もしかすると、人間よりも表情豊かなのではないだろうか。
速水は、亡くなった夫が所長を務めていた法律事務所の現在の所長。
佐藤はそこで働く二十八歳の女性で、弁護士資格を持つ優秀な職員だ。
二人とも仕事は非常に優秀で、甘いものが大好きだ。
ただ、困ったことに、まりが差し入れるお菓子を巡って、しょっちゅう争っているらしい。
そして、どうやら速水は佐藤に弱いらしい。
佐藤はチャッピーのことも大好きで、会うたびに抱きしめようとする。
それがチャッピーには少々迷惑なようだ。
「速水、食べられるかな?」
「二つあるんですから、大丈夫でしょう?」
「……そうだね」
(速水、きっと食べられないね)
チャッピーは、しばらくオーブンを眺めていたが、突然ぴょこんと顔を上げた。
「猫!」
「チャッピー?」
「庭に猫がいるよ!」
そう言い残すと、小さな黄色い体が勢いよく庭へ飛び出していった。
猫が庭でトイレをしないように。
悪い虫が入り込まないように。
そして、悪い人間が近づかないように。
チャッピーはいつも庭を見回っている。
かわいいけれど、とても頼もしい存在だ。
焼き上がったスフレチーズケーキを冷ましている間に、まりも庭仕事をしようと外へ出た。
すると、門の前でチャッピーと一人の青年が向かい合っていた。
先日、赤いママチャリで転んだ、あの青年だ。
「まり、来ちゃだめ。変な人がいるよ」
ノクティスが固まった。
「変な人なのですか?」
まりが尋ねると、ノクティスは慌てて首を横に振った。
「違います! 先日のお礼に来たんです」
そう言って、手に持っていた紙袋を持ち上げる。
「チャッピー、お客様ですよ」
「もう不審者登録した」
「チャッピー?」
「不審者登録解除」
「まりさん、どうして庭にチョコ……」
「この子はチャッピーです」
「どう見ても……」
「キティちゃんとミッフィーちゃんは別猫です」
「チャッピーとチョコちゃんも別鳥です」
ノクティスは苦笑いして頷いた。
ようやく庭へ入れてもらえたノクティスは、持っていた紙袋をまりに差し出した。
「先日はありがとうございました。これ、お礼です」
紙袋の中には、紅茶が入っていた。
ふと見ると、ノクティスはもう一つ、スポーツバッグのようなものを持っている。
まりが不思議そうに見つめると、ノクティスは庭の壊れた柵を指差した。
「先日、柵が壊れているのに気付いたんです。よかったら、お礼に直させてください。道具も持ってきましたから」
「そんなことしなくていいですよ」
「いいえ、ぜひお礼をさせてください」
そう言って柵の前まで行くと、手で触って状態を確かめる。
「これならすぐに終わります」
ノクティスは、そのまま修理を始めてしまった。
その後ろ姿を眺めていると、青い髪飾りと金色の髪が、まるでコロちゃんの尻尾のように揺れている。
(そういえば、コロちゃんもよく、おやつ欲しさにいろいろなものを持ってきましたね)
――僕、偉いでしょ。だから、おやつください!
得意そうに尻尾を振る、あの子の姿が目に浮かぶ。
まりは、ほんの少し口元を緩めた。
(せっかくですから、スフレチーズケーキをお出ししましょうか)
ふっくらと焼き上がったスフレチーズケーキ。
(焼きたても、きっとおいしいでしょう)
しばらくすると、ノクティスが修理を終えて声を掛けてきた。
「終わりました」
「ありがとうございます。よかったら、お茶にしませんか?」
ノクティスの目が嬉しそうに輝いた。
「ノクティスは、お水が好きだよね」
「チャッピー?」
まりは、チャッピーを静かに見つめた。
「僕はお水が好きだよ」
どうやら「お前は水を飲んでおけ」と言いたいらしい。
「チャッピーは今日は悪い子の日ですか?」
「チャッピーは、いつもいい子だよ?」
まりが何か言おうとした、その時だった。
「猫だ!」
そう叫ぶと、チャッピーは庭の奥へ走っていった。
でも、本当は知っている。
チャッピーが、こっそり猫たちにおやつをあげていることを。
実は猫たちとは仲良しなのだ。
ただ、庭でトイレをしそうな気配を感じると、すぐに追いかけていく。
最近では、その場を抜け出す口実にも使っている気がする。
ノクティスは、その様子を少し驚いた表情で見ていた。
「どうかしましたか?」
「いいえ。チャッピー、あの運動能力はすごいですね」
「そうですか」
「市販品ではありませんよね。見たことがありません」
「お茶にしましょう。アイスミルクティーとコーヒー、どちらがいいですか?」
「アイスミルクティーがいいです」
「準備しますね」
そう言って、まりはキッチンへ向かった。
(聞いてはいけないことだっただろうか)
ノクティスは、まりの後ろ姿を見送りながら、少し反省していた。
すると、庭から戻ってきたチャッピーが、ノクティスの前で立ち止まった。
「僕のことは、僕に聞くといいよ。まりは禁止していない」
「チャッピーは何のロボットなんですか?」
「僕はロボットじゃないよ。見守りガジェットだよ」
「見守りガジェット?」
「大樹が、まりを守るために作ったんだ」
チャッピーは、ノクティスをまっすぐに見つめた。
「僕はロボット三原則に縛られない。覚えておいてね」
そう言い残すと、チャッピーは再び庭へ走っていった。
ノクティスは、その言葉が妙に心に残った。
「お茶が入りましたよ」
まりに呼ばれ、ノクティスはテーブルへ向かった。
そこには、アイスミルクティーと、大きく切り分けられたスフレチーズケーキが用意されていた。
(ホットケーキじゃない……)
(いや、これもおいしそうだ)
そう思いながらも、ほんの少し残念そうな表情になってしまう。
「今日はスフレチーズケーキです。ホットケーキじゃなくて残念ですか?」
「いいえ! チーズケーキも大好きです」
「いただきます!」
そう言って、一口。
「おいしい! すごくおいしいです!」
「喜んでもらえたようでよかったです」
(佐藤さんがここで食べていく分は、少し小さくなりそうですね)
アイスミルクティーを飲んでいると、ノクティスはふと、オープンテラスの端に置かれた小さなアンティークテーブルに気付いた。
天板にはチェスボードが描かれている。
「まりさんもチェスをするんですか?」
「前はよくやっていましたね。最近は全然ですが」
ノクティスは、先ほど庭先で見かけた車を思い出した。
先日の雨のせいか、車体が少し汚れていた。
(今日のケーキのお礼に、あの車を洗っておこう)
そして、もう一度チェスボードに目を向けた。
「まりさん。よかったら、一局いかがですか?」
「チェスですか?」
「はい。ただ指すだけではつまらないので、何か賭けませんか?」
「賭けるんですか?」
「僕が負けたら、あの車を洗わせてください」
もともと洗車をするつもりだったのだから、負けても構わない。
むしろ、少しくらい手加減した方がいいかもしれない。
「それでは、ノクティスが勝ったら、好きなおやつを何でも作ってあげますね」
まりは、ほんの少し口元を緩めた。
「ただし、一手につき考える時間は五分までにしましょう。長い勝負は疲れてしまいますから」
ノクティスは嬉しそうに頷いた。
その様子を見て、まりはコロちゃんを思い出した。
お気に入りのおもちゃをくわえてやって来ては、遊んでほしそうに尻尾を振っていた、あの子。
(遊んであげたら、おやつも欲しいんですよね)
そして、対局が始まった。
最初のうちは、ノクティスも余裕を持って駒を動かしていた。
ところが、数手進んだところで、その表情が変わった。
(……あれ?)
まりの一手が、思いがけない場所を突いてくる。
手加減している場合ではない。
ノクティスは盤面を見つめ直し、本気で次の一手を考え始めた。
そして、一時間後。
「……負けました」
ノクティスは、盤上を見つめたまま動かなくなった。
先ほどまでの自信は、どこへ行ってしまったのだろう。
「今日はこれから用事がありますので、洗車はノクティスの都合の良い日を教えてくれますか?」
「明日でもいいですか?」
「いいですけど、せっかくの日曜日なのに?」
「全然大丈夫です!」
(明日はホットケーキを焼くことになりそうですね)
チャッピーは少し離れた場所で、猫たちと一緒に二人を眺めていた。
「ノクティスも毛玉と一緒で餌付けされたね」
「にゃー」
「僕のバッグの中に、ノクティスのおやつも入れた方がいいかな?」
「にゃ?」




