永遠の初夏
永遠の初夏
オープンテラスで一番好きな場所は、スイングチェアかもしれない。
三歳になった瑠璃は、今日もそこで気持ちよさそうに眠っている。
黒い髪は彼女によく似ていた。
瞳だけが僕に似ている。
小さな胸が規則正しく上下しているのを見ながら、僕はガーデンテーブルの上の書類を見る。
初夏の風が吹く。
梅の葉が揺れる。
あの日、赤いママチャリでこの家へ転がり込んできた頃と、あまり変わらない五月だった。
チャッピーは今日も庭を巡回している。
時々猫を追いかけ、時々犬に吠えられている。
それでも彼のおかげで庭に嫌な匂いが残ることもない。
悪い虫が入り込むこともない。
瑠璃が安心して遊べるのも、きっと彼のおかげだった。
僕の視線に気付いたのか、チャッピーが近づいてくる。
『心拍数変化。もうすぐ起床予定』
そうか。
僕は書類を閉じる。
仕事はここまでにしよう。
キッチンへ向かう。
今日は久しぶりにホットケーキを焼く。
瑠璃が食べやすいように、小さなものをたくさん。
三つのフライパンを火にかける。
十分に温まったところで、一度濡れ布巾の上へ置く。
熱すぎるまま焼かない。
少し温度を落としてから生地を流し込む。
そうすると、きれいな狐色に焼き上がる。
これはまりに教わった。
今では僕のほうが上手いかもしれない。
小さなホットケーキが次々に積み重なっていく。
今日はメープルシロップにした。
バターとメープルシロップを混ぜ、二枚の間に挟む。
小さなホットケーキサンド。
横には生クリーム。
ブルーベリー。
ゆすらうめ。
季節の果物を添える。
大きなピッチャーには濃いめに淹れた紅茶。
冷たいミルク。
氷は別の器に。
昔から変わらないアイスミルクティーだった。
ふと、瑠璃が生まれる前のことを思い出す。
医者は止めた。
危険だと言った。
無理だと言った。
けれど彼女は、ほんの少し口元を緩めた。
「なんだか大丈夫な気がするんです」
そして結局、あの時も我が家の決まりで解決した。
問題はチェスで決める。
「まり、それはずるくないかい」
「そうでしょうか」
真顔だった。
昔から変わらない。
彼女がチェスを持ち出す時は、もう心の中で答えが決まっている。
僕はそれを知っていた。
結局、僕はいつだって彼女には逆らえなかった。
テーブルの上にホットケーキサンドを並べる。
アイスミルクティーをグラスに注ぐ。
瑠璃にはオレンジジュース。
そして、もう一つ。
僕は空のグラスを取り出し、少しだけ手を止めた。
いつもの場所に、そのグラスを置く。
五月の風が吹く。
梅の葉が揺れる。
もうすぐ収穫の季節だった。
「今年も梅シロップを作ろうか」
「そうですね。今年もたくさんできそうです」
振り返る。
いつの間にかオープンテラスに立っていたまりが、優しく笑っていた。
瑠璃が目を覚ます。
「ママ」
まりが抱き上げる。
その姿を見ながら、僕は小さく息を吐いた。
「大樹さんの分も?」
まりが、いつもの場所に置かれたグラスに目を向ける。
僕は頷いた。
四つ目のグラスに、アイスコーヒーを注ぐ。
瑠璃が不思議そうな顔をする。
「だれ?」
「天国からママを助けてくれた人だよ」
瑠璃は不思議そうに首をかしげた。
僕は何も言わず、その頭をそっと撫でた。
チャッピーが小さく電子音を鳴らした。
どこか嬉しそうだった。
しばらく静かな時間が流れる。
梅の葉が揺れる。
遠くで猫が鳴く。
ホットケーキの甘い香りが風に乗って漂う。
まりが静かに口を開いた。
「私は死んだら終わりだと思っていました」
誰も言葉を挟まない。
「全部なくなると思っていました」
まりは空を見上げた。
「けれど、そうではなかったんですね」
瑠璃の頭を優しく撫でる。
「大樹さんは今もいます」
チャッピーを見る。
「チャッピーもいます」
そして僕を見る。
「ティスもいます」
腕の中の瑠璃に目を落とす。
「瑠璃もいます」
少しだけ笑った。
「だから、人は死んだら終わりというわけではないみたいです」
その言葉に、僕は返事ができなかった。
まりは昔、死んだら終わりだと言っていた。
残るものに意味はないと言っていた。
けれど今は違う。
大樹が生前に出資していた再生医療の研究は、数年後に実を結んだ。
その頃、まりの病状は悪化し、もはや命が尽きるのを待つばかりだった。
しかし、新たに確立された治療法は、彼女の病状を劇的に改善させた。
かつて大樹は、まりに約束したという。
『俺がお前を看取ってやる』
けれど、先に逝ってしまったのは大樹のほうだった。
約束を守ることはできなかった。
それでも、あの人が残したものは、まりの命をつないだ。
まりは小さく笑う。
「大樹さんの勝ちですね」
初夏の風がオープンテラスを通り抜ける。
梅の葉が揺れる。
首に赤いリボンを巻いた茶色の毛玉が、庭を横切る。
チャッピーがその後を追いかける。
瑠璃が笑う。
まりも笑う。
ホットケーキの甘い香りが漂う。
今年もまた、梅がたわわに実っている。
そしてこの家には、変わらない優しい時間が流れていた。
僕はグラスを持ち上げ、小さく大樹のグラスに当てた。
感謝と約束を込めて。
❤️❤️❤️❤️❤️
読んでくださり、ありがとうございました。
ようやく前世編が完結しました。
ここまでお付き合いいただいた皆様に、心よりお礼申し上げます。
まりとノクティス、そしてチャッピーたちの物語はいかがでしたでしょうか。
前世編は、二人が出会い、少しずつ距離を縮めていくお話でした。
そして、物語はここからようやく本題へと進んでいきます。
次は「白い世界編」。
異世界へと向かう前に、もう少しだけ二人にお付き合いください。
感想などいただけましたら、とても嬉しいです。作者が泣いて喜びます(笑)。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
引き続き、まりとノクティスの物語をよろしくお願いいたします。




