星降る世界編 前編
目が覚めると、そこにあったのは見知らぬ天井ではなく、満天の星空だった。
記憶にあるどんな星空とも違う。
数えきれないほどの星々が、まぶしいほどに輝いている。
そのあまりの美しさに、思わず息をのんだ。
「きれい……」
そっと星空に向かって手を伸ばす。
届くはずがない。
そんなことはわかっているのに、思わず伸ばしていた。
ふと、違和感を覚えた。
手が軽い。
伸ばした手を目の前に戻し、じっと見つめる。
傷一つない、白くすべすべとした手。
指をゆっくりと開いたり、閉じたりしてみる。
「あれ……?」
まりはゆっくりと体を起こした。
そして、もう一度息をのんだ。
頭上に広がっていた星空が、足元にも続いている。
どこまでも、どこまでも。
空と地面の境界がわからない。
足元には薄く水が張っているようだった。
けれど、服も体も濡れていない。
まりはゆっくりと立ち上がった。
「あら……?」
驚くほど簡単に立ち上がれた。
一歩踏み出してみる。
肩も、腰も、膝も。
どこも痛くない。
思わず腕を回し、軽く体をひねってみる。
こんなに自由に体が動くのは、何十年ぶりだろう。
まりは小さく息をついた。
「終わったのですね……」
最後の記憶は、やっぱりあの人だった。
珍しくノクティスがお願いをしてきた。
『まりさん。ホットケーキが食べたいです。』
その一言が少し嬉しくて。
粉を混ぜ。
生地を休ませ。
一枚ずつ丁寧に焼き上げた。
今日は今までで一番良い出来だった。
焼き色も。
厚みも。
香りも。
全部、自信があった。
ホットケーキを二人分並べ。
いつものアイスミルクティーも用意した。
そこまでは覚えている。
でも、その先の記憶がない。
「まさか、この状況で食べていませんよね。」
頬に手を添え、小さく首をかしげる。
「さすがに私でも、この状況では食べませんよ。」
背後から、聞き慣れた声が返ってきた。
「まりさん。」
まりはゆっくりと振り返った。
優しくて。
穏やかで。
少し甘えん坊な、大好きな声。
そこには、神官服のような白い衣装をまとった青年が立っていた。
金色の髪。
青い瞳。
出会った頃と変わらない姿。
まりは少し目を細めた。
「神様のコスプレですか?」
青年は困ったように笑う。
「この状況で、それを言えるのはまりさんだけですね。」
「私は私ですから。」
「その通りです。」
青年は静かに頷いた。
「そして僕は、まりさんの言うところの神様です。」
「そうですね。」
「ただし、この世界ではありません。別の世界の神様です。」
まりは少しだけ考える。
「……一つ、お聞きしてもいいですか?」
「もちろんです。」
「私は神様と結婚して、神様との子供を産んだのですか?」
ノクティスは小さく首を横に振った。
「いいえ。」
「地球にいた僕は、人間として存在していました。」
「だから、子供たちも人間です。」
まりはほっと胸をなで下ろした。
「それなら安心しました。」
「少し気になったものですから。」
ノクティスは優しく微笑む。
「まりさんらしい質問ですね。」
まりも小さく微笑み返した。
「ホットケーキ、食べられなかったのですね。」
その一言に、ノクティスは少し寂しそうな顔をする。
「今日は今までで一番良い出来だったのですよ。」
ノクティスは何も言わず、右手を静かにかざした。
次の瞬間。
二人の前に木製のテーブルと椅子が現れる。
その上には、焼きたての香りが漂うホットケーキ。
そして、大きな氷が入ったアイスミルクティー。
見慣れた、二人分の朝食だった。
「本当に神様みたいですね。」
「神様ですから。」
まりは小さく頷く。
「便利な言葉ですね。」
ノクティスは少し照れくさそうに笑い、椅子を引いた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
まりは静かに腰を下ろす。
向かいにノクティスも座った。
目の前のホットケーキを見つめる。
こんがりときつね色に焼き上がった、厚みのあるホットケーキ。
表面には小さな気泡の跡が残り、重ねられた生地の上では、四角いバターがゆっくりと溶け始めている。
たっぷりとかけられたメープルシロップが、黄金色の生地を伝って皿へ流れ落ちる。
甘く香ばしい匂いが、二人の間に漂っていた。
「最高傑作ですよ。」
まりは少しだけ誇らしそうに言った。
「食べてください。」
「いただきます。」
ノクティスはナイフを入れた。
ふんわりとした生地が、ほとんど抵抗もなく切れていく。
切り口からは、まだ温かな湯気が立ち上っていた。
バターとシロップを絡め、フォークで一口運ぶ。
口に入れた瞬間、ふんわりとした生地が舌の上でほどける。
米粉ならではの、しっとりとした口当たりと、ほんのりもっちりした食感。
バターの塩気とメープルシロップの優しい甘さが広がる。
「……おいしいです。」
ぽたり。
涙がホットケーキの上に落ちた。
ぽたり。
もう一粒、涙がホットケーキに落ちた。
「あまり泣くと、しょっぱくなりますよ。」
まりが静かに言う。
「それは困りますね。」
ノクティスは涙を拭いながら、小さく笑った。
二人は何も言わず、最後までホットケーキを食べ終えた。
アイスミルクティーを一口飲み、ノクティスは満足そうに微笑む。
「おいしかったです。」
少し間を置いて、もう一度。
「今まで食べた中で、一番おいしかったです。」
そう言い終えた瞬間だった。
ノクティスは両手で顔を覆い、声を上げて泣き始めた。
「助けられなくて……。」
「ごめんなさい……。」
肩を震わせながら、何度も謝る。
まりは静かにその姿を見つめていた。
(この人は、何を謝っているのでしょう。)
そう思った次の瞬間。
ノクティスは椅子から立ち上がり、まりの前まで歩いてくる。
そして、その場に膝をついた。
「まりさん……。」
まりの腰へ、そっと腕を回す。
子どものように、すがりついて離れない。
「お願いします。」
「僕の世界へ来てください。」
「まりさんがいない世界は、もう嫌なんです。」
ぽろぽろと涙がこぼれ続ける。
まりは困ったように小さく笑い、金色の髪を優しく撫でた。
(やっぱり、あの子に似ていますね。)
幼い頃のるりが、どうしても譲れないことがあると、こんなふうに抱きついてきたことを思い出す。
自然と手が動いていた。
「大丈夫ですよ。」
頭をゆっくり撫でる。
背中を優しくさする。
神様をあやすことになるとは思わなかった。
「まりさん。」
涙声のまま、ノクティスが見上げる。
「僕の世界に転生しませんか?」
「いいえ、結構です。」
「返事が早い!」
「即答です。」
「もう少し考えてください。」
「もう充分幸せでした。」
まりは穏やかに微笑んだ。
「あなたと57年を過ごすことができました。」
「子どもにも恵まれました。」
「孫の成人式まで見届けました。」
「人生に悔いはありません。」
「ゆっくり休ませていただきたいです。」
ノクティスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息をつく。
どうやら。
泣き落としは通用しないと悟ったらしい。




