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雲間からの光

 久しぶりの入院だった。


 病室は個室である。


 それは大樹の希望だった。


 まりは一度見聞きしたものを忘れない。人の話し声も、足音も、カーテンの擦れる音も、記憶の中に積もっていく。


 だから入院するときだけは個室にしよう。


 大樹はそう言っていた。


 今となっては、その言葉を守る必要もないのかもしれない。


 それでもまりは、昔と同じように個室を選んでいた。


 静かな部屋だった。


 窓の外には曇った空が見える。


 ベッド脇の小さなテーブルには書類が広がっていた。


 遺言書。


 信託契約。


 不動産関係の資料。


 大樹の財産は事務所へ。


 彼の後を継いだ弁護士へ託す。


 まり自身の財産についても整理は終わっていた。


 家も。


 現金も。


 梅シロップも。


 本棚いっぱいの法律書も。


 持ち主がいなくなれば、いずれ誰かの手に渡る。


 相続税が払えるだけの現金も残してある。


 その先のことは知らない。


 知る必要もなかった。


 死んでしまえば終わりなのだから。


 もともとまりはそう考えて生きてきた。


 自分が死んだあとに残るものなど、どうなろうと構わない。


 毎年たくさんの実をつける梅の木も。


 時折庭を訪れる犬や猫も。


 家も。


 家具も。


 思い出も。


 持って行けるわけではない。


 だからどうでもよかった。


 そう思っていた。


 けれど最近は少し違う。


 あの家に誰かが住む未来を想像することがある。


 ノクティスがオープンテラスのソファーブランコで、だらしなく昼寝をしている姿。


 梅シロップを勝手に飲んで怒られる姿。


 庭で犬にまとわりつかれて困っている姿。


 そんな光景を考えると少しだけ楽しい。


 別に彼のためではない。


 彼が喜ぶからでもない。


 ただ、自分がその光景を想像すると少し嬉しいのだ。


 それだけだった。


 もしかすると自己満足というのだろう。


 それでも構わない。


 誰に迷惑をかけるわけでもない。


 いつか彼が結婚するかもしれない。


 子供ができるかもしれない。


 あの静かな家が賑やかになるかもしれない。


 そんな日が来る保証はない。


 来ないかもしれない。


 それでも想像することはできる。


 想像するだけなら自由だった。


 その未来を思い浮かべると、不思議と少しだけ心が温かくなった。


 まりはペンを置いた。


 窓の外を見る。


 そろそろ退院できそうだった。


 早く帰りたい。


 そう思う。


 家に帰りたいのだろうか。


 それとも。


 ティスに会いたいのだろうか。


 少し考えてみる。


 けれど答えは出なかった。


 たぶん、どちらでもよかった。


 タブレットにはホットケーキのレシピが並んでいる。


 ふわふわに焼く方法。


 しっとり焼く方法。


 果物を添える方法。


 クリームを使う方法。


 一通り読んでしまった。


 もちろん全部覚えている。


 ケーキも焼ける。


 クッキーも焼ける。


 パイだって作れる。


 なのに。


 大樹が飼っていたあの子によく似た人は、なぜかホットケーキばかり食べたがる。


 まりは小さく息を吐いた。


 もうすぐブルーベリーも実るだろう。


 グミも。


 ゆすらうめも。


 たっぷりの果物をのせたホットケーキもいい。


 ベーコンとポーチドエッグを添えるのもいい。


 あれも彼は好きだった。


 ああ、早く帰りたい。


 そう思いながら、まりは書類を封筒へ戻した。


 丁寧に封をする。


 それを鞄の中へしまう。


 病室は静かだった。


 遠くで看護師の足音が聞こえる。


 その音を聞きながら、まりは目を閉じた。


 きっと退院したら。


 大樹が飼っていたあの子によく似た人は、今日も嬉しそうにホットケーキを食べるのだろう。


 そんな気がした。


 その時、まりはふと目を開いた。


 まるで何かに気付いたような顔だった。


 数秒だけ考える。


 そして口元がわずかに緩んだ。


 何か思いついたらしい。

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