その7
僕は階段を駆け降りると、他に誰もいないホームで呆然と立ち尽くした。
何をバカなことを言ったんだ、僕は?
熱くなった頭が冷えて落ち着くにつれ、さっきの勢い任せの一連の言動が克明に思い返される。
きっとおかしな奴と思われただろう。突然一緒に出かけようと誘ってきたかと思ったら、いきなり態度を変えて逃げ出したんだから。
どうしてこんなことしたのか判っている僕でもそう思っているんだから、彼女の目にはなおさら不可解に写ったはずだ。
伯楽さんがどうしているのか、階段の上のほうを見返す勇気はなかった。
ただその場に立って困惑しているか、僕を追いかけて階段を降りてくるかのどちらかだろう。
それから十秒、二十秒、三十秒と経った。
階段から足音が聞こえることはなかった。
靴のつま先の先にある点字ブロックを見つめて俯いていた僕は顔を上げた。前には向かいのホームが見えた。
そして向かいのホームの階段の影から女子生徒が現れると、彼女はさっき別れたばかりの僕の顔をじっと見つめた。
怒るわけでも、悲しむわけでもなく、ただ僕が自分のところから逃げ出した理由を求めるような眼差しを伯楽さんは向けていた。
僕は伯楽さんからの視線に耐えきれず、思わず目を逸らした。
もしかしたら今までも僕が電車で帰る時、駅の向かいのホームに同じクラスの生徒で、同じタイミングで学校を出てきた伯楽さんが立っていたということがあったのかもしれない。
とはいえ気付かないのも無理はない。現代人はたいてい駅のホームで電車を待っている時、手に握っている携帯電話の画面を眺めているのに夢中で、線路を挟んだ数メートル先に誰が立っているのか気にかけたりなんかしないんだから。僕も含めて。
そして伯楽さんとはその程度の関係に戻るんだ、これで。
『二番戦のホームに電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』
互いに長い沈黙が続くと、ホームのどこかに取り付けられたスピーカーから音声が流れた。
そしてそのアナウンスの通り、遠くから電車がこの駅に向かって走ってきて、線路をガタガタと踏み鳴らしてきた。
視界の右側から左側に向かって電車が駅に滑り込むようにたどり着くと、蒸気が噴き出すような音とともにゆっくりと停車し、二本の線路を挟んで向かい合っていた僕と伯楽さんとの間を遮った。
電車は十秒ほど経って再び発進すると、線路の伸びている先へとあっという間に過ぎ去っていった。
正面を見ると、車両に遮られてこちらから見えなくなっていたクラスメイトの姿は、すでになくなってしまっていた。
それを知って、僕は安堵の息を吐いた。
そもそも伯楽さんと関わり合いになんかなるべきじゃなかったんだ。
伯楽さんは友だちが多くて人と話すのが好きな人で、僕は友だちがいなくて人と話すのも得意じゃない人見り。住む世界が違う。なのに伯楽さんにほんの少し仲良くしてもらえただけでいい気になって、恋人にでもなったつもりか?
そもそも彼女には彼氏がいる。不満はあるけど嫌いにはなれない彼氏がいて、そんな人にデートまがいのことを誘っていいわけがない。僕なんかが入り込む余地なんてあるわけがないんだ。
だからこうするべきなんだ。気楽なおひとり様の青春を謳歌する僕と、サッカーのできる彼氏がいる彼女で、それぞれの場所に戻るんだ。
「……これで良かったんだ」
「何が良かったっての?」
いきなり僕の隣から女性の声が聞こえた。
横を向くと、そこには不満げに腕組みをして立つ伯楽さんの姿があった。
「……なんで!?」
僕が驚いて仰け反ると、伯楽さんは僕に目線だけを向けて呆れたように口を開いた。
「今日もともと入ってた、市駅のほうに彼氏と一緒に行く言ってたあの予定さ。じつは最初は彼氏のほうから誘われたんだよね」
「……はあ?」
「いつも一緒に出掛けられなくて悪いから、アカデミーが休みの日に一緒に行こうって言われて、スケジュールを空けたままにしてたんだ」
僕は伯楽さんがいきなり始めた話についていけなかった。けれど伯楽さんはそんなことお構いなしに話を続けてきた。
「でも向こうから誘ってきたのに、向こうの都合でデートがおじゃんになった。それが一回目。で、さっき階段の上で棲絡君にも同じことやられた。これで二回目。あたし、今日男のせいで散々放課後の予定振り回されてるんだよ」
伯楽さんはそう言うと、もう一度腕を組み直した。
「やられっぱなしは性に合わないんだよね」
伯楽さんは前のほうをまっすぐ見据えながら僕にそう言った。
「だからあたしのほうから改めてお願い」
伯楽さんは顔をこちらに向けると、ゆっくりと口を開いた。
「棲絡くん。これから二、三時間、あたしの浮気相手になってよ」
……浮気相手?
一瞬頭の中が真っ白になって僕がその言葉を飲み込めずにいると、伯楽さんは不敵な笑みを漏らした。
「彼氏には前からの約束を羽子にされた仕返しを。棲絡くんにはあたしの気持ちを振り回した罰ゲームとして……ね!」




