その4
この人、彼氏がいたの?
まあ……いても不思議じゃないか。人と積極的に関わるタイプみたいだし、美人だし。
「あたしたちと同じクラスの遊歩道光希。知らなかった?」
伯楽さんが自分の彼氏の名前を挙げた。
僕は遊歩道光希が一体誰なのか思い出そうとしてみた。
駄目だった。
伯楽さんの名前だってさっきまでちゃんと知らなかったのに、その恋人の名前なんてなおさら知っているわけがない。
「ほら、さっき教室を出る時、棲絡くんにぶつかったあいつだよ」
伯楽さんに言われて、僕はその時のことを思い返してみる。
それでやっと、僕は遊歩道光希がどんな人物だったのか思い出すことができた。
「ああ、あの、サッカーのクラブに入っているっていう……」
「正解。光希はプロサッカーのチームのアカデミーに所属しててね。本当なら今日はアカデミーの練習がオフで、学校が終わったらあたしと一緒に出かけるつもりだったんだけど……」
「だけど?」
僕が尋ねると、伯楽さんは大きいため息を吐いた。
「やっぱりああいうチームにいる人って熱心なんだね。ラインで先輩に自主トレに誘われたからって、そっちに行くことにしたんだって」
「休みの日に練習?」
「うん」
「彼女とのデートを切ってまで?」
「そういう事」
「……信じられない」
僕は呆然とした。
自分を好きでいてくれる彼女がいるのに、それよりも走ったり、ボールを蹴り回して奪ったり奪われたりして、肺が破れて喉の奥から血が出そうなほど息が苦しい思いをするほうが大事だって?
「今日は帰りに出かけるつもりで朝から一日過ごしてたんだけどなあ。なのに六限が終わってからアカデミーの先輩から光希の携帯に連絡が入っちゃって」
「断れなかったの」
「別に断ろうと思えば断れたんだろうけど、携帯を握って、縋るような目でこっちを見られたら、あたしとしても行かないでって言えないじゃん」
冗談っぽく言うと、伯楽さんは口もとに笑みを浮かべながら肩をすくめた。
「ま、いいんだけどね。慣れっこだし」
「前にも同じようなことが?」
「何度も」
伯楽さんは簡潔に返した。
「……僕だったら、絶対に伯楽さんを選ぶのに」
僕は何気なく思った言葉をそのまま口にした。
すると横にいる伯楽さんが僕に向かってにやけ顔を浮かべてきた。
「へえ。それって、サッカーより付き合ってる彼女の方を大事にするって意味?」
どうして伯楽さんがにやにやと笑っているのか、その理由に気がつくと、僕は全身の血が熱く煮立って、頭が一気に噴火しそうになったのを感じた。
「え、いや、僕が言おうとしてたのは、そういうんじゃなくって!」
しどろもどろになって慌てふためく僕を、伯楽さんは「あはは!」と笑い飛ばした。
「判ってるって! ちょっとからかっただけなのにそんなに慌てて、棲絡くんってかわいいなあ」
そう言ってカラカラと笑い続ける伯楽さんに僕はむっとした。心配する僕の気持ちを弄ぶなんて……心配して損した気分になった。
「ねえ、そんなに怒らないでってば」
僕の様子を見て、伯楽さんは僕を宥めるように言う。
「そうやって好きな人に一途になってくれるんだから、棲絡くんの彼女になる子は幸せだよ。きっと」
からかったお詫びとばかりに伯楽さんは僕をフォローする言葉を投げかけた。
「……そんなこと言って、僕と付き合う気なんて無いくせに」
「まっ、本当に付き合ったら浮気だからね」
伯楽さんは悪びれずに言った。
「それと……あいにく僕に彼女を作る予定なんてないよ。今のところ。相手が出てくる見込みもないし」
「恋人は出て来るのを待つもんじゃないよ。自分で好きな人を見つけなきゃ」
「そう言う伯楽さんは、自分から彼氏に告白でもしたの」
「あー……偉そうなこと言って何だけど、あたしの場合は向こうから告ってきてさ」
僕の質問に、伯楽さんは気まずそうな態度で答えた。
「向こうから? 彼氏のほうから?」
僕が訊くと、伯楽さんはこくりと頷いた。
「光希とは中学の時から一緒で、中学を卒業する前に、アカデミーでU-15からU-18に昇格できたら、付き合ってほしいって言われて」
サッカーどころかスポーツ自体全く知らない僕でも、伯楽さんの言っていることはなんとなく理解できた。
クラブで上のランクに昇格するための試験とかそういうのに合格できたら、彼女になってほしいという、そういう話なんだろう。
「それで彼は上のランクに昇格できて、伯楽さんと付き合ってると」
「そう、めでたくね。高校も同じところに入れて万々歳だよ」
伯楽さんは変わらずに軽い調子で僕に言った。
「……でも、それってさ」
僕はそう呟くとその場に立ち止まった。するとそれに気がついた伯楽さんも、僕の数歩前で立ち止まった。
「つまり伯楽さんは、向こうから告白されて付き合っているのに、向こうの都合でデートを断られたり、全然恋人らしいことができてないってこと?」
僕がそう言うと、伯楽さんはこっちを向いて小さく笑った。
「しょうがないよ。あのチームにいる人はみんなプロのサッカー選手を目指してて、本気でやってるんだから」
「しょうがないって……」
僕はその場で両手を強く握ると、胸の奥から何かが込み上げて来るのを感じた。そしてそこから湧き上がってきたものを、そのまま口から言葉として出した。
「だったら付き合ってほしいとか、なんでそんなこと言っちゃうんだよ。サッカーの練習が忙しくなるなんて、プロを目指しているんだったら、そんなの初めから判りきってた話じゃないか。なのに伯楽さんを自分に付き合わせて、そのうえひとりにさせてるなんて、そんなの──」
「いいんだって」
僕の言葉を伯楽さんが遮った。アスファルトの地面に顔を向けていた僕は、その声の主に目線を向けた。
振り向いてこちらを見る彼女の口は笑っていて、瞳は真夜中の湖の水面のように澄んだ色をしていた。
「そんなに熱くならないでよ。さっきも言ったじゃん。こんなの慣れっこなんだから」
自分と彼氏とのことを何でもないように話す伯楽さんの顔を、僕はじっとまっすぐ見た。
「……伯楽さんはそれでいいと思ってるの?」
「あたしが光希に別れ話を切り出したりしてないのが全ての答えだよ」
伯楽さんは言った。
「光希とは日中は休み時間とか移動教室に行く時とか、学校じゃよく一緒にいるし。それに週末は光希が出る試合の応援に行くんだ。学校が終わった後にデートしたりするのが、恋人の全てじゃないんだよ」
伯楽さんのその返事に僕は何も反論することができなかった。
結局のところ、しょせん僕は今までの人生で一度も恋人がいたことのない人間で、誰かと付き合うことがどういうことか知らないやつでしかなかったからだ。
「でも、棲絡くんは本当に女子のことを思ってそんなこと言ってくれるんだ。やっぱり君は、いい彼氏になれるよ」
伯楽さんは後ろで手を組みながら、僕に向かって小さく笑った。
「……別に僕はいい奴なんかじゃないよ」
僕は伯楽さんの褒め言葉を素直に飲み込む気になれなかった。
さっきの僕の胸の中に湧き上がってきた感情。
その源が一人の女子が恋人から冷たい扱いをされていることへの怒りなのか、それともスポーツの分野で活躍していて、そのうえ美人の恋人がいる男子への単なるやっかみなのか判らなかったからだ。
そんな後ろめたさから、僕は伯楽さんから目を逸らした。すると前から「うーん」という伯楽さんの声が聞こえてきた。
「少なくともデートをキャンセルして、彼女を教室に置いてひとりで出てっちゃう彼氏よりは、ずっといい奴だと思うけど?」
そう言った伯楽さんの顔を見上げると、彼女は僕に向かっていたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「それって冗談で言ってる? それとも本気で?」
僕がややためらいがちに尋ねると、伯楽さんは「うーん」と唸った。
「冗談だよ。半分くらいね」
「じゃあ半分本気ってことじゃないか!」
伯楽さんの言葉に突っ込みを入れると、伯楽さんは「あははっ」と声をあげて笑った。
「今の話、彼氏とか、彼氏とわたしの共通の友だちでもなんでもない棲絡くんとだから話せた秘密の話だから! 内緒だよ、他の人には絶対言わないでね」
「言わないよ……」
言う相手もいないし、という言葉を僕は心のなかで付け足した。
「まあ、イラッと来る時はあるよ。本当にこいつ、あたしのこと好きなのかなって思う時もね」
腰に手を当てながら伯楽さんは腹立たしげにうそぶく。
だけど「でもさ」と言葉を続けると、伯楽さんは僕に背を向けた。
「なんだかんだ試合とか練習を頑張って一生懸命なところ見ると、素直に応援したくなっちゃうんだ。約束をフイにされた時のムカつきなんか忘れちゃってさ。だからやっぱり好きなんだよ、あたしも彼氏のことね」
そう話すと、伯楽さんは日が長くなってまだ明るい空を見上げた。
僕も伯楽さんと同じように彼女の目線が向かっている先を見上げたけれど、伯楽さんが何を見ているのか、僕が理解できる気はしなかった。




