その2
教室を出た僕が向かったのは校舎の昇降口ではなく図書室だった。
二年生の教室がある二階から一年生の教室がある一階に降りて、同じ階にある図書室の扉を開くと、貸出カウンターのなかにいる女子生徒が手に持って読んでいた本から顔を上げて僕を一瞥した。
図書室には彼女以外の生徒の姿はなかった。たぶん彼女は僕のクラスより早くホームルームを終えてここに来た、別のクラスの図書委員なんだろう。
突然の来訪者にほんの少しだけ意識を向けると、カウンターにいる図書委員の女子は視線を下ろして再び読書に戻った。
図書室の中に入った僕は分類記号9の文学のコーナーに向かい、お目当ての棚の前まで来ると、棚に収められた大量の文庫本の背表紙を眺めながら左から右へ視線を動かした。
海外の作家、英国の作家のア行、アガサ・クリスティ……最近読み始めたミステリ作家の作品群から、タイトルだけを見て直感的に選んだ文庫本を手に取って表紙を眺め、休み時間の気晴らしの相手をどれにするか吟味する。
棚のクリスティーのところから何冊か物色してそのなかからどれを借りていくか、それぞれの表紙の写真とタイトルを見比べていると、図書室の入り口のほうから扉が開いて木材が軋む音が聞こえてきた。
僕は音のしたほうを振り向いた。そこには扉を開けた女子生徒が入り口でひとりで佇んで、中の様子を伺うように見回しているのが見えた。
女子生徒と僕の目が合った。次の瞬間、僕は彼女がさっき教室で声をかけてきた学級委員長の女子だったことに気がついた。
向こうも同じように気づいたんだろう。女子生徒は目を丸くして僕を見つめた。
僕はそれ以上気に留めることもなく、本棚と手もとにある小説に意識を戻そうとした。
すると女子生徒が入り口から僕のすぐ横まで来て、じっと目の前にある本棚に並べられた小説を眺めはじめた。
気がつくと、僕はそんな隣に立つ女子生徒の横顔に無意識に視線を向けてしまっていた。
改めて近くで彼女の横顔を眺めると、綺麗な人だなと思った。
本棚の小説群に視線を注ぐ鋭い眼差し、鼻の先がつんと上を向いて整った顔立ち。そして肩のあたりまで伸ばした墨のように黒く艶やかに輝いている髪が、クラス委員長をやっていて、クラスメイトや教師陣からも「生真面目な優等生」として一目置かれているであろう彼女の内面をそのまま表しているように僕は思えた。
彼女はその場に突っ立ったまま、本棚にある本を手に取って選ぶことなく、ただ背表紙を見つめているだけだった。
なにかお目当ての本があるわけでもなく、膨大な選択肢を前にどの本を選べばいいのか決めかねているみたいだった。
「ねえ」
突然、彼女が本棚に目を向けたままぶっきらぼうに僕に呼びかけた。
「同じクラスの棲絡くんだよね?」
「え? ……そうだけど」
ろくに話したことのないはずのクラスメイトから不意に自分の名前を呼ばれた僕は、戸惑いながら言葉を返した。
「どうして僕の名前を?」
「あたしと同じクラスでしょ。棲絡衣織くん」
クラスメイトの名前くらい知っていて当然でしょ? とでも言いたげな目線を、クラスメイトの女子はちらりとこちらに向ける。
当たり前のように言うけど、あいにく僕のほうは君の名前、まったく記憶にないぞ──と僕が思ってると、彼女のほうから「あのさ」とまた僕に声をかけてきた。
「それより、おすすめの本ってある? たまには図書室を使って本を借りようって思ったけど、いざ借りようと思ったら、色々あって選び難くて」
名前も知らないクラスメイトの女子は、静寂が支配する図書室の空気を壊さないように抑えた声で僕にそう問いかけてくる。
「棲絡くんって、どんな本が好きなの?」
「……ミステリー」
僕が答えると、彼女は「へえ……」と声を漏らした。
「ミステリーね。東野圭吾とか、小学校の時にシャーロック・ホームズをいくつか読んだことあるけど」
そう言いながら彼女は僕のほうを見て視線を下ろし、僕が手に持っている本の表紙に目をつけた。
「アガサ・クリスティ。名前は知ってるけど読んだことないな。好きなの?」
「まあ、うん」
「なるほどね」
彼女は相槌を返すと本棚のクリスティの固まっている箇所に手を伸ばし、そのなかから『なぜ、エヴァンスに頼まなかったのか?』を選んだ。
「クリスティのファンとしてはどう、この本? 面白い?」
「最近手を出し始めたばかりだから、そんなにクリスティに詳しいわけじゃないけど……でも、面白かったよ。僕はいいと思う」
「じゃ、アテにしちゃおうかな」
そう言うと彼女は本棚から出した文庫本を手に、貸し出しカウンターに足を向けた。
「これ借ります」
僕が本棚の前で『雲をつかむ死』『牧師館の殺人』『ポケットにライ麦を』の三冊を選んでカウンターに向かうと、すでに彼女はカウンターの内側にいる図書委員の女子に自分が借りる本を差し出していた。
「二年六組の伯楽カエデです」
伯楽カエデ──それが彼女の名前みたいだ。
教室のなかで名前だけ耳にしたことは何度もある。けれどそれがその名前の主の顔と僕の頭のなかで結びついたのは、これが初めてだった。
図書委員は伯楽さんから本を受け取ると、今まで読んでいた本にしおりを挟んで傍に置き、代わりにカウンターにあるバインダーを手に取った。表紙には”利用者バーコード”と印字されたシールが貼られている。
この学校の図書室で本を借りる時は、まず図書委員に自分のいるクラスと自分の名前を先に伝えなければいけない。
こちらが名前を伝えると、図書委員が今出したバインダーに印字されている大量のバーコードから利用者の名前が付いているバーコードを探し、それと本に付いたバーコードを一緒に読み取ることでようやく本を借りることができるのだ。
どうして生徒に利用者カードを配っていないのかは知らない。たぶんカードをなくす生徒が多いからとかそういう理由なのかもしれない。
図書委員の女子が”二年六組”の付箋がつけられたページを開いて伯楽カエデのバーコードを見つけると、カウンターに設置されているノートパソコンに繋がれたバーコードリーダーを手に取った。
そしてバインダーと本の裏表紙に貼り付けてあるバーコードをそれぞれ読み取って貸し出しの処理を終えると、図書委員は無言で伯楽さんに本を渡した。
「ありがと」
差し出された本を受け取ると、伯楽さんは後ろに立っていた僕にちらりと振り返って目配せした。
「お待たせ。どうぞ」
伯楽さんはそう言って立ち位置を横にずらして、僕にその場を譲った。
「……これ、返します」
僕は前に出て、鞄の中に入れていた貸し出し中の本三冊を図書委員に差し出した。
「あと、これ借ります」
カウンターの内側で返却の処理が終わると、僕はさっき本棚から選んだ小説を出した。
「二年六組の棲絡衣織です」
図書委員は開いたままになっていたバインダーのページから僕の名前を探し出すと、僕のバーコードと本のバーコード三冊分をさっきと同じようにリーダーで読み取って僕に本を渡した。
「どうも」
本を受け取って踵を返すと、横に立っていた伯楽さんと僕の目が合った。
「じゃあ行こうか。棲絡くん」
伯楽さんが僕に向かってそう言った。
「……行くって?」
「いや、本も借りたし、ここから出ようってことだよ」
「出るって、伯楽さんと一緒に?」
「そうだけど?」
どうしていちいちそんなことを訊くの? とでも言いたげに、伯楽さんは首をかしげてきょとんとした。
どうも彼女は僕が貸し出しの手続きを終えるのを、律儀に待っていたみたいだった。




