終幕
電車が去ると同時に、僕は伯楽さんの視界から消えてしまったはずだ。
ホームにいた他の人たちと同じように、電車に乗ってそのまま去っていったと思ったに違いない。
……だけど車両の扉が閉まる直前、僕は点字ブロックの先に進むことなくすぐ後ろにある登り階段に振り向いて、そのまま上へ駆け上がっていった。
階段を上がった先には、もうひとつのホームに繋がる下り階段がある。今度はそこを駆け降りて、僕は伯楽さんのいる二番線のホームへと向かった。
階段を降りると、さっきやってきた電車はすでに発車し、こちらに背を向けてホームに立つ伯楽さんは、走り去っていくその電車の姿をただただ目で追いかけていたのだった。
ここまで走ってやってきた僕は、膝に手をついて前屈みになりながら呼吸を整えていた。
僕が伯楽さんの後ろ姿を見つめていると、その視線を感じたのか──伯楽さんがゆっくりと後ろを向いて、僕の存在に気づいた。
「どうして」
伯楽さんはぽかんと口を開くと、唖然としながら耳につけていたイヤホンを外した。
「なんでここに? もう行っちゃったんじゃ──」
「伯楽さんに伝えたいことがある」
僕は膝から手を離すと背を伸ばして起き上がり、一歩前に進んで伯楽さんの顔をまっすぐ見据えた。
「浮気相手でもいい」
僕は自分の両手を硬く握ると、伯楽さんの手にある携帯電話を見た。
その携帯電話には確かに、僕が昨日選んだオオカミの絵が描かれたケースが取り付けられていた。
「僕が持っている力なんて大したことないかもしれない。でも少しでも伯楽さんの心を動かすことができるなら、今はまだ浮気相手でも伯楽さんの中をいつか埋め尽くして、今いる彼氏より大事な存在になれるかもしれない。いや、必ずなる。絶対に。だからそうさせてほしい。お願いだ」
僕の言葉に、伯楽さんは黙ったままこちらの顔を見つめた。
当然だけど伯楽さんは戸惑って、不安そうな顔を浮かべていた。
その瞳には僕自身の顔が映っている。彼女のなかの感情が僕にも伝わって怯んでしまいそうになるけれど、それでも僕はその場から立ち去らずに、目の前にいる好きな人からの返事を待った。
「棲絡くん、あたしは──」
伯楽さんが口を開いてそこまで言った時、それを遮るかのようにホームに取り付けられたスピーカーからアナウンスが流れ出した。
『一番線のホームに電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』
余計な邪魔が入ったせいで、伯楽さんは言いかけた言葉を引っ込めてしまった。
そのまま電車が凄まじい速度でこちらにやって来ると、ゆっくりと速度を落としてホームに停車した。
目の前の車両のドアが開かれると伯楽さんはそちらに目をやって、そしてその中に飛び込んでしまった。
「伯楽さんっ」
僕は電車のほうに思わず手を伸ばして、電車のなかで僕に背を向ける伯楽さんを見つめた。
すると伯楽さんはくるりとこちらに振り向いて、僕を見ながら一歩後ろに下がった。車両のドアと伯楽さんが立っている間には、ちょうど人がひとり入るくらいのスペースができていた。
僕はそこから顔を上げて、伯楽さんの顔を見つめた。
僕と伯楽さんの目線が交わる。お互い黙ったまま、成り行きに身を任せすだけだった。
『間もなく電車が発車します。ご注意ください』
駅のアナウンスが流れる。車両のドアが閉まり、発車する合図だ。
アナウンスを聞くと僕はその場から駆け出し、家に帰る方向とは真逆に向かっていく電車の中に飛び乗った。僕が入ったと同時に後ろの扉が閉まり、そのまま電車はゆっくりと発進した。
電車の走る速度が速くなっていき、走行音と揺れが大きくなっていくのを感じながら、僕は目の前に立つ伯楽さんの顔を見た。
「ひとつ訊いていい?」
伯楽さんがどこか曇った表情を浮かべながら、僕を見て言った。
「クラスメイトの浮気相手になる青春って、アリだと思う?」
伯楽さんのその問いに、僕は少し考えて答えを出した。
「……ナシに決まってるでしょ!」
僕のその言葉に、伯楽さんは目をにして呆気に取られたみたいだった。
でも「ふっ」と小さく笑みを漏らすと、伯楽さんはそのまま堰を切ったようように大笑いし始めた。僕もそれに影響されて、声に出して大きく笑い出してしまった。
他の乗客がどう思うかなんて構うもんか。公共のマナーを知らない高校生ふたりの笑い声が響く列車は、そのまま遠くへと向かって走っていった──
終




