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その20


「カエデ、一緒に行こうよ」


 一日の全ての授業が終わって、帰りのホームルームも終わった。


 帰りの支度をする僕の視界の端で、伯楽さんの彼氏が自分の彼女に自分のスポーツバッグを抱えて話しかけるのが見えた。


「ごめ。今日は帰りに図書室寄ってくから、先に行ってて」


 自分を誘ってきた彼氏に伯楽さんはそう言いながら、昨日図書室で借りていった文庫本を軽く掲げて自分の鞄の中に入れた。


「返すだけだったら、図書室の外で待とうか?」


「また別の本借りるつもりだからいいよ。それに光希があたしを待ったせいで練習に遅れたりでもしたら悪いから」


「判った。じゃあ先に行くよ。また明日」


「また明日」


 お互い手を小さく振ると伯楽さんの彼氏は教室から出て、それから程なくして伯楽さんも鞄を持って廊下に出ていった。


 普段ならホームルームが終わればこのふたりより先に昇降口から出ているはずの僕は、いまだにひとりで教室に残って伯楽さんの姿を目で追いかけていた。


 このまま図書室までひとりで向かう伯楽さんの後ろについていくか?


 ……さすがにそれは気味が悪すぎると思った。


 僕は余計な考えを追い払って、席を立って教室から出ていった。


 二階から一階に階段を降りて昇降口に向かう時、僕はふと、昇降口の手前を通り過ぎて廊下の奥のほうにある図書室の存在に意識が向いた。


 今そこには伯楽さんがいるんだろう。昨日僕が行った時に横で本棚を眺めながら悩ましげな目線を注いでいたのと同じように、次に読む本をどれにするか品定めをしているのかもしれない。


 また僕もあそこに行って、伯楽さんにお気に入りの本を勧めるべきなのだろうか。『エヴァンス』が好きなら『秘密機関』も気にいるはず、といった調子で。


 すると僕は無意識に図書室の前まで足を運んでいた。そして部屋の扉の取っ手に、手をかけようとした。


 ……けれど扉に触れる寸前で、僕はその伸ばした手をぴたりと止めた。


 そして僕は手を下ろすと、そのまま踵を返して昇降口に足を向けたのだった。


 結局のところ、僕は伯楽さんと会うための口実を思いつくことができなかった。


 自分がまだ伯楽さんにこだわり続けていると思うと、なんだか惨めな気分になってきたし、何よりそれを伯楽さん本人に知られて鬱陶しがられて嫌われたりでもしたら、それを思えばこれ以上彼女に近づくことなんて怖くてできなかった。


 やっぱりあれは束の間の夢だったんだ。だったら、甘い夢のままで終わらせたほうがいい。


 僕は校舎を出ると、グラウンドでウォーミングアップを始める運動部員たちの横を通ってそのまま正門を抜けて、いつものようにひとりで駅へと向かって歩いていった。


 駅まで来て改札口から階段で一番線のホームに降りると、人の数はまばらだった。昨日見たのとあまり変わらない光景だ。おそらく時間もほぼ同じだろう。


 次の電車が来るまでまだ少し時間がありそうだった。


 僕は鞄からワイヤレスイヤホンのケースを出すと、ケースの中にあるイヤホンを両耳に着けて携帯電話の音楽再生アプリを立ち上げた。特に聴きたい曲もなかったけれど、心の空白を何かの刺激で適当に埋めたい気分だった。


 推理ゲームのサウンドトラックを再生して、インターネットのサイトでも眺めようと思ったけれど、何もかもが感覚神経を通ってそのまま上滑りするような感じがして、すぐに飽きて僕は携帯電話をポケットにしまった。


 イヤホンだけ着けたまま僕は向かいの二番線のホームをぼんやりと眺めていた。顔も名前も知らない学校の生徒が何名かと、学校とは何の関係もないであろう妙齢の近隣住民の女性がひとりいるだけだった。


 次の電車が来るまでに、伯楽さんはあのホームにやってくるのだろうか?


 ……やってきたところでなんだっていうのだろう。さっき図書室の前まで行った時みたいに怖気付いて何もできないに決まってるのに。


 ちょうどそう思った瞬間、向かいのホームの階段から問題のその人の姿が現れた。


 上の改札口からホームに降りた伯楽さんは僕のいる場所の真向かいに当たる位置に立つと、さっきの僕と同じように鞄からワイヤレスイヤホンのケースを取り出して、髪をかき上げて両耳にそれぞれケースから出したイヤホンを装着した。


 そしてイヤホンで再生する音楽を選ぶために伯楽さんが携帯電話を制服のポケットから取り出した時、僕は目を見張った。


 伯楽さんの操作する携帯電話には、昨日僕が店で選んだ、オオカミの絵が描かれたケースが取り付けられていたのだ。


 音楽を選び終えたのか、伯楽さんが携帯から顔を上げた。すると正面を向いた伯楽さんと、線路を挟んだ先にいる僕と目線が合った。


 伯楽さんは僕の姿に気がついて最初目を丸くしたけれど、すぐにその表情は柔らかくなって、僕に微笑みを浮かべながら手を振った。


 向かいのホームに立つ伯楽さんのその微笑みは、どこか哀しげに見えた。


『一番線のホームに電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』


 遠くから電車が線路を踏んで走る音が聞こえる。先頭の車両がホームまで来ると電車は減速を初め、ゆっくり停止すると蒸気が噴き出すような音とともに、目の前の車両の扉が開かれた──


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