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その19


 ……で。


 僕の肩に自分の頭を預けた伯楽さんは心地良さそうにすやすやと眠り続けて、一向に目覚める気配はなかった。


 相変わらず今どれくらい時間が経ったか判らない。二時間目が終了する時のチャイムが聞こえるまで、ずっとこのままなんだろうか。別にそれ自体は構わない。僕が我慢すればいいだけだ。


 問題は、誰かに僕たちがここにいるのを見られるんじゃないかってことだった。


 さっきは目の前を通りがかった女の先生に見つからずに済んだけれど、また同じラッキーが起こるとは限らない。


 僕ひとりが見つかる分にはあとで叱られるだけで済むけれど、そこに伯楽さんもいるのを見られたら?


 授業から抜け出したふたりが隠れて一緒にいたことが知られたら、伯楽さんにとって厄介なことが山ほど起こってしまうはずだ。何が起こるのか想像もするだけでうんざりしそうなことが。


 だからといって、すっかり寝入っている女子を叩き起こす方法を僕は知らない。


 したがって僕がこの状況に何も手出しすることができなかったのだけど、どうやらそうやって構えているのにも限界が来たみたいだった。


 誰か来る。


 ぺたぺたと底がゴムでできたスリッパが床を踏む音が聞こえて、こちらに近づいてくる。


「伯楽さん」


 僕は危機を感じてとっさに伯楽さんの肩を掴んで軽くゆすった。


「うーん……」


 伯楽さんは薄目を開けると、口からうなり声を漏らす。


「まずいよ、誰か来るって」


 僕が伯楽さんに耳もとで呼びかけると、伯楽さんは目を手でこすった。まだ眠気は抜けていないみたいだけど、何とか起きてくれたみたいだった。


 でも伯楽さんを起こしたところで何の解決にもならないと気づいた時にはもう遅かった。


 目の前に女子生徒の姿が映った。


 視界の左側から現れたその女子生徒は頭を片手で抱えながら、どこか青ざめた面持ちでこちらのほうへゆっくりとした足取りで向かってきた。


 そしていかにも具合の悪そうな彼女は下の階にある保健室に行くためか下り階段に足を向けると、上り階段にいた僕たちの姿に気がついて顔を上げた。


 視線が合うと、僕らはしばらくの間お互い見つめあったまま黙り込んだ。現れた女子生徒のほうは、頭痛か何かで強張った顔をしながらも、どこかきょとんとした目でこちらを見ている。


「……大丈夫?」


 先に言葉を発したのは女子生徒のほうだった。


「その人、調子が悪いの?」


 目の前にいる女子は、伯楽さんの姿を見ながら言った。さっき起きたばかりの伯楽さんはまだ寝ぼけ眼で、ぼんやりとした表情を浮かべている。


「わたし……これから保健室に行くんだけど、一緒に行こうか?」


 心配そうに女子生徒は僕と伯楽さんに向かって言う。彼女は具合が悪いという僕の推測はどうやら当たっていたみたいだった。


 この人が僕たちを見ておかしな想像を膨らませていないのは良かったけれど、それはそれとして完全に危機が過ぎ去ったわけではなさそうだった。


 伯楽さんが保健室まで連れられたあと、この人が伯楽さんは別の男子と一緒にいたと養護教諭の先生に伝えたら結局またややこしいことになる。でもここでこの人からの申し出を断るのも、不自然に思えた。


 つまりはっきり言って、僕は手詰まりの状況に陥っていた。


「ええっと、それは……」


 前へ進むことも、後ろに退くこともできない僕はしどろもどろになった。


 そんな僕に対して前にいる女子生徒は怪しむような目を向けてくる。


 たとえ面識のない相手でもこれはまずい。何とかしないと、と思いつつ何もできないでいた僕の左手の手首を隣にいる伯楽さんが急に掴んだ。


 伯楽さんは僕の手を弄り、手の指を人差し指だけ立てて他は全部握るようにしてそれを自分の口もとの前まで持っていくと「しーっ」という仕草を僕の手を使って、目の前にいる女子に見せつけた。


「えっ……」


 僕は言葉を失った。そして伯楽さんの横顔を見ると、伯楽さんは階段の下にいる女子生徒を妖艶な眼差しで見下ろしていた。


 その光景を前にして、女子生徒は最初少しだけ呆然とした。


 しかし伯楽さんが何をやっているのかを理解したのか、彼女は一気に顔を赤く染めると、そのまま階段を駆け降りていってしまった。


 見知らぬ女子生徒がいなくなると、伯楽さんは口を開いて気楽そうに軽い調子で言った。


「見られちゃったね、あたしたちが一緒にいるとこ」


「いやいや!? こんな所、人様に見せていいの!?」


「いいよ。知り合いでも何でもないし。棲絡くんは知ってる人だった?」


「僕も知らないけど……」


「じゃ。大丈夫でしょ。変な夢でも見たと思ってすぐ忘れるって」


 僕は自分の左手を挙げた。まだ伯楽さんが僕の手首を掴んでいた。


「だからこんな変な真似を?」


「急にパッと思いついてやったんだ。結構いいアイディアだったでしょ」


「……二度としないで」


 僕は伯楽さんの手を振りほどいた。


「まだ時間あるかな」


 伯楽さんが言う。僕はその言葉に小さくかぶりを振った。


「さあ。時計持ってないから」


「もうしばらくここにいようよ。他に行くあても無いんだしさ」


 そう言うと、伯楽さんはまた僕に身を寄せて身体を預けた。


「大丈夫。今度は寝たりしないし、誰かに見つかってもあんなことしないから。ただ、一緒にいさせて」


 伯楽さんは僕の肩に頭を乗せると、肩の上で自分の髪を軽くこすりつけた。


「これが最後だから」


 僕の耳もとで、伯楽さんがぼそっと言った。


「好きだって言ってくれたのにごめん。あたし、彼氏と別れられない。棲絡くんのこと浮気相手にしたけど、これ以上はもうできない。ごめん」


 そう言うと、伯楽さんはもう一言だけ付け足した。


「酷いやつだよね、あたし」


「……知ってるよ」


 そこからはチャイムが鳴るまで、お互い黙ったまま残りの長い時間を過ごした。その間、その静寂を邪魔する者が現れることはなかった。


 二時間目が終わってから次の授業までの休み時間の間に、僕と伯楽さんはそれぞれ少しだけタイミングをずらして教室に戻った。僕が先で、伯楽さんが後にした。


 クラスではすでに移動教室から帰ってきた人たちがいて、同じ時間に授業を休んだ僕と伯楽さんの関係を疑う人なんていないみたいだった。


「カエデ、調子はいいのか?」


 伯楽さんが戻ると、伯楽さんの友だちが集まって心配そうに彼女に声をかけた。朝、授業が始まる前に伯楽さんと一緒にいた人たちで、その中には当然のように伯楽さんの彼氏がいた。


「おかしいと思ったんだ。朝、電車で一緒に来た時も、何かぼんやりして元気がなさそうだったから……」


「大丈夫だって。心配させてごめん」


 彼氏の気遣う言葉に、伯楽さんは手を振って返した。


「ちょっと休んだらすぐ元気になったから」


「ならいいけど」


 そう言う伯楽さんの彼氏の言葉からは、不安の色が抜けきっていないようだった。


「ねえ、それよりさっきの授業のノート見せてくれない? 授業の頭のところしかノートに書けなかったからさ」


「ああ、それなら良いよ」


 伯楽さんの彼氏は物理室から持ち帰った自分のノートを出すと、それを恋人に渡した。


「ありがと。昼休みが終わるまでに返すから──あ、そうだ」


 伯楽さんが何か思いついたように声を発する。


 すると「ねえ!」と声が飛んできた。


 彼女が向けている視線からして、明らかにそれは僕に呼びかける声みたいだった。


 ……どうして、今、僕を?


 僕は戸惑いながらも、顔を伯楽さんのいるほうに向けた。


「そう、君だよ、君」


 振り向いた僕と視線が合うと、伯楽さんは彼氏のほうを見た。


「実は棲絡くんも、保健室であたしと一緒に授業休んでたんだ。棲絡くんにもノート貸していいかな?」


「いいよ。我ながらあまり綺麗な字じゃないけど、参考にできるなら見ていってくれよ」


 僕の返事を待つ間もなく、伯楽さんの彼氏は僕に向かって笑いかけて言った。


 どこからどう見ても善良そうな人物だった。健全なる精神は健全なる肉体に宿るというけれど、彼はそれを体現しているような男に見えた。


「だって。あたしが終わったら貸してあげるから」


「えっと、うん……」


 僕が口を挟む暇もなく、一方的に全てのことが決まったらしい。


 次の授業の後に伯楽さんが彼氏のノートの内容を自分のノートに写し終えると、伯楽さんはそのノートを僕に渡した。


 昼休みの時間になって弁当を食べ終えると、僕も同じように休んだ授業の内容を急いですべて写して、ノートを伯楽さんの彼氏に返した。


「……ごめん。返すの遅れて」


 僕はまだ食事中の彼に恐る恐る話しかけながらノートをもとの持ち主に差し出した。


「気にするなって。困った時はお互い様だ」


 そう言って大量の弁当をかきこんでいた彼は、僕に向かって爽やかな笑みを浮かべた。


 こんなに気のいい人を僕は欺いていたんだ。


 僕は彼と一緒に机を囲んで昼食をとっていた伯楽さんに目をやった。


 だけどすぐに罪悪感で胸が一杯になって僕は彼女から目を逸らすと、そさくさと席に戻って読み始めたばかりの小説を開き、再びひとりの世界に戻ったのだった。


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