その18
「じゃあ、棲絡くんはあたしが嫌いだったんだ」
伯楽さんは自分の両脚に肘を乗せて、上に伸ばした手のひらにあごを乗せながら、どこかうつろなぼんやりとした目で前を見つめていた。
「避けてた。関わりたいとも思わなかったから。伯楽さんに限らず誰とも」
僕は横目で伯楽さんをちらりと見た。
「ごめん。酷いこと言って」
「いいよ。あたしのこと好きって言ってくれたから」
伯楽さんも僕と同じようにこちらに視線だけを向けて言うと、小さく笑った。
「棲絡くんは強いよ。そんなひどいいじめをされたのに、ちゃんと学校に来てるんだから」
伯楽さんは手を階段の自分の両脇に置くと、天井を仰ぎ見た。
「あたしが部活で先輩と揉めて辞めたって話した?」
「なんとなくは。……詳しくは訊かないでおくけど」
「逃げたんだよ」
上を向いたまま、伯楽さんは言葉を続けた。
「毎日先輩とか、その取り巻きの人にグチグチ言われたり嫌がらせされて、そろそろキツくなってきたなって時に、あたしを庇ってくれた友だちとか彼氏の存在に甘えて、部活から逃げ出したんだよ。先輩に立ち向かうのに疲れちゃったからさ」
「伯楽さんには逃げられる場所があったんだよ。僕は違う。どこにも逃げる場所を作れなかっただけだ。強いとかそういう話じゃなくって……」
「あたし、今度はその逃げた場所からも逃げ出そうとしてる」
僕の話にかぶさるように伯楽さんが声を発した。
「棲絡くんはあたしのこと、仲間や恋人同士で楽しくやってるって思っていたかもしれないけど、いつもそういう訳じゃないんだよ」
伯楽さんがそう話すのを聞きながら、僕は今朝教室で友だちや彼氏と一緒にいた伯楽さんの姿を思い返した。
「光希が……あたしに逃げる場所を作ってくれた彼氏がいるのに、その彼氏がアカデミーの練習を優先してるせいで自分に構ってくれなくて嫌だってそんな話、周りには言えなくってさ」
僕は伯楽さんの横顔を見つめる。今僕の隣にいる伯楽さんは、今朝見た彼女と全く違って見えた。
「もうここしばらく恋人らしいことしてないし、なんで付き合ってるんだろうなって、時々むなしくなったりする時もあるんだ。あたしよりサッカーのほうがずっと大事なのかなって」
伯楽さんは遠い目をしてそこまで言うと、でもさ、と言葉を続けた。
「でもそれって、光希のせいじゃないからさ。彼氏が自分がやるべきだって思ってることに一生懸命になって頑張っているのに、あたしよりサッカーのほうが大事なら別れてなんて、そんなのワガママすぎるでしょ? 友だちにもあたしがそんなヤツだって思われて嫌われたくない。今自分がいる場所から逃げ出したいのに、その場所を壊すのも怖かったんだ」
そう言うと、伯楽さんは天井から僕へ顔を向けた。
「そんな時に棲絡くんがいたんだよ。あたしにとって都合のいい逃げ道。同じ帰宅部の仲間で、光希やあたしの友だちとは関わりがないし、おまけに口は堅そう。だから君を選んだんだよ」
僕を見つめながら、伯楽さんはにっこりと微笑みをこぼした。
「昨日の街へのデート、本当に楽しかったよ。男子とデートなんて、本当に久しぶりだった。それに図書室で教えてくれたあの本。帰ってから読み始めたんだけど、面白過ぎちゃって、結局一気に最後まで読んじゃった」
「『エヴァンス』をもう最後まで?」
僕は前に自分で読んだ、伯楽さんが借りていったその本の厚みを思い出した。一日で読み切るには難しい分量だったはずだ。
「夜更かしでもしたの」
「夜更かしなんて、初めてしちゃった」
伯楽さんはさっき僕に見せたのとはまた違った、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ドキドキしちゃった。怪しいやつのいる屋敷に潜入するところとか、あの主人公のふたりが両方とも無事で助かるのか先が気になって読み進めてたら、いつの間にか外から新聞配達のバイクが走る音が」
そこまで言ったところで伯楽さんは両腕をめいいっぱい挙げて伸びをすると、大きな欠伸をした。
「おかげで一時間目の授業、眠気が酷すぎて全然集中できなかったんだ。ちょうど今も、すっごく眠くてまともに勉強にならなさそうでさ。だからサボって抜け出してきちゃったんだ」
「抜け出した? 抜け出したって、どうやって?」
「みんなには調子が悪いって言って誤魔化したんだ。普段真面目にしてると、こういう時疑われなくて楽だよね」
それを聞いて、僕はやっと伯楽さんがどうやってここまで来たのかを知った。
「だから棲絡くんのせいだよ。あたしがこんなワルになったのはさ」
「僕のせいかよ……」
急に僕をからかい出した伯楽さんに、僕は呆れて困惑した。
「そう。だから責任取ってよね」
「責任? 責任なんてどうやって取ればいいって──」
僕がそこまで言いかけた時、何か重たいものが僕の左肩の上にごろんと転がり込んだ。
伯楽さんは頭を僕の肩に乗せて、上半身を僕の身体に預けたのだった。
「ここで眠らせて。昨晩、棲絡くんの勧めた本のせいで眠れなかった分さ」
そう言うと伯楽さんは僕の返事も待たずにゆっくりと瞼を閉じて、そのまま眠りに落ちてしまった。
声が聞こえる。
それは教室で数十人の生徒を前にして教壇に立つ教師の声だったり、グラウンドで走り回りながら自分が持っているボールをパスする相手に向かって叫ぶ生徒の声だったりする。
どれも遠くから聞こえてくる声だ。声の主から僕がいるところに届くまでの間にその声は輪郭を失い、ぼやけた音の塊として僕の耳に伝わってその内容をはっきりと聞き取ることはできない。
それらの声に混じって、僕のすぐ近くで聞こえる声がある。
……いや、声じゃなくてそれは単なる息、呼吸音だった。
学校の三階から屋上に繋がる薄暗い階段に腰掛けている僕の隣には、僕と同じようにこの階段に腰を下ろしている女子生徒がいる。
彼女は頭を僕の左肩に預けて上半身を僕の身体に寄せ、そのまま穏やかに眠りながら、微かな寝息を立てている。
彼女は瞼を閉じて睫毛を下ろし、小さく唇を開け、彫刻のように美しく整ったその顔を無防備に僕に晒していた。
伯楽さんがこうやって眠っているところを見るのは初めてだった。
とはいえ僕が初めて伯楽さんと言葉を交わしたのがつい昨日のことなのだから、今まで見たことがなかったのはある意味当然のことだった。
だけど今、伯楽さんが僕に見せているこの寝顔を、彼女の恋人は見たことはあるのだろうか?
サッカーチームに所属してプロのサッカー選手となるべく連日連夜のトレーニングに情熱を注ぎ、その代償に付き合い始めて一年になる恋人とすれ違う日々を送っているという彼に、こんな彼女の姿を知るチャンスなんて存在しているんだろうか?
僕は今いる場所から動いたり、階段から立ち上がることができなかった。深い眠りに落ちている伯楽カエデを起こすことなんてできなかったからだ。




