その16
二時限目のチャイムが鳴った時、僕は校舎の三階から屋上に繋がる階段に座り込んでいた。
廊下の奥からあちこちの教室で授業が始まる最初の起立、礼の声と椅子が引きずられて動く音が聞こえる。おそらく物理室でも同じようなことを僕抜きでやっているんだろう。
授業を無断欠席したのは初めてだった。どうしてそんなことをしたのか、僕自身判らなかった。なんとなく行く気になれなかっただけだ。今までだって真面目に勉強したくて授業に出ていたわけじゃないのに。
これからどうなるんだろう? 手遅れになってから僕は思った。
今から遅れて授業に出たところで、授業中にひとりで教室に現れた自分の姿をクラスの他の人たちにじろじろ見られるなか、バツの悪い思いをしながら席に着くハメになる。そのくらいならいっそ、丸一時間ズル休みするほうがマシだった。
でもそのあとはどうする? 職員室に呼び出されて先生に叱られたり、家に連絡が行ったりするんだろうか。なんだか面倒なことになりそうだった。
そのくらい始めから判っていたはずなのに授業から逃げ出したあたり、僕を後先考えずに動くタイプだって言った伯楽さんの指摘は正しかったかもしれない。
……また伯楽さんのことを考えていた。もうあの人にこだわるのは、もうやめにしたほうがいいのに。
僕は座ったまま膝に突っ伏した。
そうやって腕の中に顔を埋めていた僕の耳に、こつこつという硬い足音が遠くから聞こえた。
誰かが近づいてくる。僕は顔を上げた。足音は徐々に大きくなっていって、誰かがこちらに向かってきているのは明らかだった。
目の前には廊下がある。校舎の右側から左側に向かってまっすぐ伸びていて、足音がしたのは右のほうからだった。
先生かもしれない。知っている先生であろうとなかろうと、ここで授業をサボっているのを見つかったら厄介だ。とはいえ問題の人物が間近に迫っているこの状況では、ここから逃げ出すこともできそうになかった。
僕は思わず息を止めて、足音の主が現れるのをただじっと待った。
そして目の前に現れたのは──プリントやバインダーを抱えて歩く、眼鏡をかけた若い女性の先生だった。よく知らない先生だ。たぶん僕がいるのとは別の学年を受け持っていて、全校集会とかで見たことがあるくらいだった。
視界の右端から出てきたその先生は左のほうへ顔をまっすぐ前に向けたまま歩いていって、廊下にいる僕の姿には気付なかったみたいだった。
僕は深く息を吐いて、強張った身体の緊張が解けるのを感じた。
足音が聞こえてからあの先生がいなくなるまで、何十分もかかったように感じた。僕は腕時計を着けていないから、実際にどのくらい時間が経ったのか判らないけれど。このままここに一時間居座ることを考えていたら、なんだか気が遠くなりそうだった。
だいたい二時間目が始まってから、今どのくらい時間が経ったのかすら判らない。他の人が教室で授業を受けている間、どうやって時間を無駄遣いすればいいのか僕には判らなかった。
行き場なんてどこにもなさそうだった。かといってここにるのを先生に見られて咎められるんじゃないかとあたふたしていたあたり、学校を飛び出して外に繰り出すような不良になる勇気も僕には無さそうだった。
しかたない。大人しく諦めてここで一時間やり過ごそう。そしてこれに懲りたら、大人しく元の生活に戻るんだ。
真面目に授業に出て、授業と授業の間は静かに本を読んで過ごし、ホームルームが終わったら部活に行く人たちを横目にひとりで電車に乗って帰る気ままな生活。誰にも気兼ねなく過ごせる心地よい毎日だ。
そこに恋人との関係の悩みをわざわざ持ちかけてくる他人の存在が、どうして必要になるんだ? 僕にそんなの関係ないだろ。自分の人間関係くらい自分で何とかしてくれ。
そうだ。そもそも”あんな人たち”に関わること自体、僕は──
「棲絡くんっ」
不意に、僕に向かって女の人の声が耳に飛び込んだ。
ここに誰かが近づいてくることにさえ気づかなかった僕は、顔を上げて前を見た。
階段に座る僕の目の前にいたのは他の誰でもない、僕のクラスの委員長をしている伯楽カエデだった。
「やっぱり。いつも移動教室は誰より早く来て一番乗りしてるのに、授業が始まっても来なかったからおかしいと思ったんだ」
僕に話しかけながら、伯楽さんは廊下からこちらに近づいてくる。
「……なんで伯楽さんがここにいるんだよ。授業はどうしたんだよ」
「棲絡くんのことが気になって探してたんだよ。急にどこかいなくなっちゃうんだもん」
階段の上の段に座って伯楽さんを見下ろしていると、伯楽さんが廊下の窓から入る日差しの入るところと、階段の側面の壁に遮られて影になっている境目の手前に立った。
「調子が悪いの? じゃあ一緒に保健室に行こうよ。ほら、立って」
「来ないでよっ」
こちらに向けて伯楽さんが差し出した手を、僕はバシッと払いのけた。
伯楽さんは僕にひっ叩かれた自分の手を見つめると、口を小さくぽかんと開けて唖然とした。
そしてお互いにしばらく黙り込んでいると、伯楽さんが顔をしかめた。
「……は? 何それ?」
伯楽さんは自分の手から視線を移すと、僕の顔を睨みつけた。
「人が心配してるのに、それ、どういう態度? すごいムカつく。意味判んないんだけど」
「こっちは心配してほしいなんて頼んでない」
刺々しい口調の伯楽さんに、僕も思わず即座に攻撃的な言葉で返す。
「戻りなよ。友だちとか彼氏とかみんないるんだろ。その人たちと僕抜きで楽しくやってればいいじゃないか」
「いや、急に何の話?」
伯楽さんは僕を睨んだまま首を傾げる。
「その話、あたしが今されたことと全然関係無いよね? あたし、棲絡くんに何したっていうの? 棲絡くん、あたしのこと嫌いになったわけ?」
「ああ、嫌いだったよ。ずっと昔からね!」
僕は今、他の教室が授業中だとかそういったことを完全に忘れて、伯楽さんに向かって声を張り上げて言った。
「君らみたいな集まって友情だの恋愛だの楽しくやってるやつが、僕は昔から大っ嫌いだったんだっ」
胸が高鳴って、胸で詰まりそうになっている息を吐き出す。
前を見ると伯楽さんは今の僕の態度に呆然として、その場に立ち尽くしていた。
その伯楽さんの姿を見て、僕はようやく冷静になった。
……本当に僕は何をやってるんだ?
物事が自分の思い通りにならなくてイライラして、それを自分を心配しにやってきた人にぶつけて八つ当たりしただけじゃないか。
僕は改めて伯楽さんの顔を見た。クラスメイトからの理由の判らない罵倒に、明らかに傷ついているみたいだった。
「全部僕のせいだ」
僕は罪悪感に押しつぶされるようにうなだれると、伯楽さんに聞こえるか判らないような声でぼそっと言った。
「僕は……伯楽さんを好きにならないほうが良かったんだ」
目を閉じて、目の前が真っ暗になる。
何も物音はしない。遠くから授業中の教師の声や、グラウンドを走り回る生徒の声が聞こえるだけだ。
伯楽さんはこんな僕を見てどう思っただろう?
どう思われてもいい。早く立ち去って欲しかった。そしてひとりで落ち込ませて欲しい。
「ごめん……ひとりにさせて。そして戻って僕のことなんか忘れて。お願い」
しばらく沈黙が流れた。相変わらず目を閉ざした僕に、伯楽さんがどんな眼差しを向けているのか判らなかった。
そして伯楽さんがここから立ち去るのを待っていると、その沈黙は前触れもなく破れた。
「いや、同じクラスにいる人のことを忘れるなんて無理でしょ」
こちらに近づく足音が聞こえる。
そして僕が顔を上げると、伯楽さんはいつの前にか階段を上がって、僕と階段の同じ段に腰掛けていた。
「昨日、棲絡くんを連れ回したあたしも自分勝手だけど、棲絡くんも相当自分勝手だよね。あたしのこと嫌いって言っておきながら、理由も教えてくれないなんて」
伯楽さんはそう言うと、隣にいる僕のほうを向いた。
「聞かせてよ。あたしらのことが嫌いだったって……その意味をさ」




