その15
次の日の空は曇りだった。日差しが照りつける晴れの日より僕は好きだ。
部活の朝練がある妹のことりに続いて、電車通学の僕も時間に家を出て駅に向かった。
大量の中高生や会社員で電車の中がごった返すラッシュアワーには出くわしたくはない。気持ち早めに駅に着いて、少し余裕のある車両の中で席について腰を落ち着けるのが普段の習わしだ。
豊田市駅で電車を乗り換えて、学校の最寄駅前まで着くと、僕は改札の前で周囲を見回した。
伯楽さんは僕が乗ってきた電車とは、真逆の方面の路線を使っているという話だった。
だからもし伯楽さんと顔を合わせることがあったとしたら、これが最初のタイミングになるのだけれど、近くに伯楽さんの姿はなかった。
待てよ、僕はいったい何を期待してるんだ?
僕は無意識に伯楽さんと会うのを心待ちにしていたことに気付くと、自分に呆れた。
たった一度仲良くしてもらっただけで彼氏気取りか? 向こうにはサッカーチームで活躍して、プロを目指しているような「いけてる」彼氏がいるってのに?
僕は潔くその場から離れると改札を通り、駅舎を出て学校に繋がる長い一本道を歩いていった。
人の姿はまばらだ。今日に限ったことじゃない。これから登校する生徒の数が増えていく頃合いだろう。混み合う時間帯を避けるために早めに家を出てるんだ。当然の話だ。
もしかしたら、伯楽さんはこれから来る生徒の中にいるのかもしれない、と、いつの間にか僕はまた伯楽さんのことが頭に浮かんでしまっていた。
仕方ないだろう! ああやって僕に積極的に関わってきた人なんて初めてなんだから! 僕はそうやって自分に言い訳する。
ここまで来ると僕はいよいよ観念するしかなかった。きのう家に帰ってから、自分の部屋で伯楽さんと過ごした数時間を思い返して、次の日また会うことを期待していたのは、単なる気の迷いではなかったのだ。
ひょっとして、僕は伯楽さんのことを好きになってしまったのか?
それを素直に認めてしまっても良かったのだけれど、僕を”浮気相手”と呼んで、散々振り回してきた人にあっさりと惹かれるというのも、それはそれとしてなんだか癪ではあった。
見定ようと思った。もう少し伯楽さんと関わって、改めて考え直せばいい。
とにかく学校まで着いて教室に行きさえすれば、伯楽さんとは必ず顔を合わせることになる。話はそれからだ。
そんなことをあれこれ考えていると、僕はいつの間にか学校の正門を通って、校舎の昇降口でスニーカーから室内用の上履きに履き替えていた。
二年の自分の教室に入ると、まだ生徒の数は片手で数えるほどだった。その中に伯楽さんの姿はなかった。
僕は廊下側と窓側のちょうど中間、やや後方にある自分の席に着くと、きのう図書室で借りた本を鞄から出した。三冊借りた本のうち、僕は『雲をつかむ死』を選んだ。
小説の最初のページをめくると、パリからロンドンへ向かう飛行機に搭乗するCAや乗客の貴婦人、歯科医の青年や考古学者の親子や私立探偵やらの様子が描かれていた。
だけど今の僕には殺人事件が起こる機内の様子よりも、自分が今いる教室の様子のほうが気がかりだった。
僕が本を開いたままにしていると、教室にはぽつぽつと次第に人の数が増えていった。
やってきた生徒がすでに登校していた生徒に朝の挨拶をしたり声をかけたりしていると、僕の耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「おはよう」
僕はそれを聞いて、開いた小説から顔を上げて扉にいる女子生徒を見た。
そこには伯楽さんの姿があった。
そしてそんな伯楽さんのすぐ隣には、男子生徒がひとり佇んでいたのだった。
「早よー。カエデ、光希」
教室の窓側の席にいた女子生徒が伯楽さんの挨拶に返すと、伯楽さんは一緒に来た男子生徒と一緒に教室の中に入っていって、僕の前をそのまま通り過ぎて窓側にいる女子生徒と、彼女と一緒にいた男子生徒ふたりのもとへ歩いていった。
「よっ。今日は付き合ってる二人どうしで登校か?」
すでに教室に来ていた男子生徒が、伯楽さんと「光希」と呼ばれた男子に向かってにやにやと笑いながら言う。
「そ。光希のほうから一緒に学校に行こうって誘ってきてさ」
伯楽さんはそう言って傍にいる自分の恋人に目配せをする。
すると「光希」は目を伏せて肩をすくめた。
「昨日、おれの都合でカエデと出かけるのを無しにしちゃったからさ。その埋め合わせじゃないけど、代わりになればって」
僕は開いていた本に目を向けたまま、僕は今まで気に留めもしなかったクラスメイトの会話に耳をそばたてた。
教室で話をしている人は他にもいるのに、嫌にはっきりと聞こえる。これがいわゆるカクテルパーティー効果というやつなのか?
「いやいや、それでフォローしたつもりなのかい、光希くんは?」
伯楽さんたちと言葉を交わしていた女子生徒が、嫌味な口調で苦言を呈した。
「いいよ、花奏。そんなこと言わなくても……」
「いーや言うね」
花奏と呼ばれた女子生徒は伯楽さんの言葉を突っ返した。
「カエデは昨日一日、光希とデートするのを楽しみにしてたんだよ? なのにサッカーの練習なんか急に入れちゃって、ひとりぼっちにさせたカエデに失礼とか思わないの?」
花奏という女子生徒が、伯楽さんの恋人である光希を問い詰めるように言った。
最初その言葉に光希は沈黙したが、それからほんの少しだけ経って、彼は口を開いたみたいだった。
「おれはカエデを言い訳にしてサッカーの練習に手を抜くほうが、カエデに失礼だと思う」
僕は顔を上げて、伯楽さんたちのいるほうを見た。
光希は毅然とした面持ちで、自分を非難してきた女子生徒をまっすぐと見つめていた。
「だってさ。カエデのほうはどう思うよ」
グループのなかにいた男子生徒が、伯楽さんに向かってそう訊いた。
「うーん。あたしのほうは、彼氏にそんなこと言われちゃったら敵わないなあ」
そう言うと、伯楽さんは光希の顔を見て小さく笑った。
「えーっ、それで本当にいいの?」
「いいよ、悪いことしてるんじゃないんだし。光希を責めたくないしさ」
「良かったな、光希。理解のある彼女がいてくれてよ」
「もう。カエデは許してるけど、それに甘えちゃ駄目だからね」
「判ってるよ。カエデをがっかりさせないように頑張るから──」
しばらくクラスの人たちの会話を聞いていた僕だったけれど、徐々にその声が遠くなっていくように感じた。
僕なんかお呼びじゃなかったんだ。
あの人には最初からあの人の世界があって、僕がそこに溶け込める余地なんかないんだ。
あらゆる感覚がぼやけて、耳に入る音も、目に映る小説に書かれた文字の内容も頭に入らなくなる。
するといつの間にか朝のホームルームが終わっていて、一時間目の古文の授業が始まっていた。エアポケットに入ったみたいに、僕の記憶に穴ができてしまったみたいだった。
そしてずっとその調子が続いたまま一時間目の授業は終わり、クラスの生徒たちはみんな教科書とノートを持って、次の授業がある物理室へ向かっていった。
僕もそれに気がつくと、バタバタと慌ててテキストと筆記用具を持って、教室からひとりで出た。
僕はひとりで廊下を歩いて、他の人たちに合わせて物理室へ向かっていた。
……なんで他の人に合わせなきゃいけないんだろう。
どんなに期待したり、希望を持ったところで、どうせ僕はみんなと同じにはなれやしないのに。
そう思った時、廊下には僕のほかには誰もいなかった。
自分がひとり立ち尽くすだけの空虚な細長い空間で、僕は世界の全てに取り残されたような気分になった。




