その14
僕が住んでいるマンションは最寄駅からほど近いところにある。歩いて十分ほど、急いで走れば五分ちょっとくらいの距離だ。
正面ゲートの横にあるパネルに暗証番号を入力してオートロックを解除し、玄関ホールに入ると僕は奥にあるエレベーターの呼び出しボタンを押してエレベーターがやってくるのを待った。
「すみません! あたしもそれ乗ります!」
この階に来たエレベーターに乗り込むと、ゲートの方から運動部のユニフォームを着た中学生くらいの髪をポニーテールにまとめた女子がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「あれ、お兄ちゃんじゃん」
エレベーターに駆け込んできたのは僕の妹の棲絡ことりだった。
ことりはきょとんとした目で僕の顔を軽く見上げた。
「こんな時間に帰ってくるなんてめずらし。寄り道でもしたん?」
中学校でバトミントン部に所属していることりは、部活の練習がある自分と違って、いつも授業が終わったらすぐに家路についているはずの兄貴の帰りが遅いことに疑問を感じているみたいだった。
「まあ、そんなところ」
「ふうん?」
僕の代わりにことりが扉の近くのボタンを押すと、エレベーターは僕たちが住んでいる七階まで上がっていった。
「ただいま」
僕とことりが一斉に玄関に上がり込むと、リビングのある奥から「おかえり」という母さんの声が聞こえてきた。
「疲れたぁ。今日の晩ごはん何?」
キッチンで料理の支度をする母さんの横を通りながら、ことりはミズノのロゴが入ったスポーツバックを下ろしてリビングにあるソファに腰掛けた。
「ハンバーグって、朝言ったはずだけど?」
「そうだっけ?」
ソファに座って即座に携帯電話を出して画面を見始めたことりはきょとんとした顔を浮かべた。大方、朝食の時に伝えられたけど、寝ぼけていて聞き漏らしたんだろう。
「衣織はハンバーグいる?」
「僕はいいよ。もう食べてきちゃったし」
僕が母さんにそう言うと、ことりは携帯の画面から目を離して僕のほうを向いた。
「えっ、お兄ちゃん外で食べてきたの?」
「衣織、友だちと食べてきたんだって」
「お兄ちゃんが友だちとご飯!?」
ことりは携帯を放り出すと、ソファから身を乗り出して驚きの声をあげた。
「お兄ちゃん、一緒にご飯を食べに行けるような友だち、いたんだ……」
ことりはわなわなと震えながら手をあてて言った。
「世紀の大事件みたいなリアクションするなよ……」
仮にも兄に対して不躾な物言いだけど、普段の行いを思えば反論できるような信頼を積み重ねていないので、それ以上言い返しようがなかった。
「そうだ。あとで衣織に晩ごはん代を渡さないとね。いくらだった?」
「いいよ、それくらい自分で何とかするし」
「えーっ、もったいない!」
僕が申し出を断って自分の部屋に退散しようとすると、ことりはソファから立ち上がって母さんのもとに駆け寄った。
「じゃあお兄ちゃんがいらないなら、あたしがその晩ごはん代、貰ってもいい?」
「あげるわけないでしょ」
ことりの言葉を母さんは受け流すと、今度は「じゃあお兄ちゃんの分のハンバーグ、あたしが食べてもいいよね?」と強欲な妹は宣った。別に構わないけれど。
僕は自分の部屋に行くと鞄を下ろし、勉強机の上に教科書やノートを出して明日までに済ませなきゃいけない課題に取り掛かろうとした。
だけど鞄の中を開くと、教科書やノートよりも先に、一緒に入っていたカップラーメンと、アイドルグループの写真が写ったクリアファイルが目についた。
僕は献血ルームでもらったその二つを机の上に置いた。あとでことりにあげてしまおうか? ラーメンはともかく、クリアファイルを受け取るかは判らないけれど。
僕は机の上に置かれたカップラーメンとクリアファイルを見つめた。
クラスの女子と放課後に二人きりでお出かけ。普段の単独行動しかしない自分を思えば、夢か幻想みたいな話だ。だけどそれが現実だということを、机の上にある贈答品二つは証明している。
最後、駅で別れた時に伯楽さんは口をぱくぱくさせながら、僕に何かを伝えようとしていたのを思い出した。
『また明日』
記憶が多少朧げにはなってはいるけれど、口の動きからして、伯楽さんは僕にそう言っていたような気がした。
また明日、か。
確かにそれは事実だ。明日学校に行けばお互い同じクラスの生徒どうし、必ず顔を合わせることになる。
今まで学校に行くのに目的を持ったことなんてなかった。みんなが行っているから行っているだけだった。
学校って、何のために行くんだろう?
そう質問された時、その答えはおおよそ次のふたつに分けられるはずだ。
勉強をするため。あるいは同じクラスや、同じ部活にいる友だちと会うため。このふたつだ。
でも本当に勉強をしたくて学校に来る人は……いないわけじゃないだろうけど、そんなにいないはずだ。僕だって勉強をしないで済むのなら、そのほうがずっと楽でいい。
だから本当はみんな、友だちと会ったり話したり、じゃれ合ったりするために学校に行くのだと思う。
だけど僕の場合、それも当てはまらない。なぜなら僕には、友だちと呼べるような人なんていないからだ。
……いなかったからだった。
僕にとって、伯楽さんが友だちと呼べるような人なのかは判らない。
それでも、伯楽さんが僕のことをどう思っているのかは、知ってみたくなった。
僕はもう一度机の上のカップ麺とファイルを見下ろした。そして、あした学校に行くのが楽しみだと初めて思ったことに気がついて、僕はひとりでにやりと笑った。




