#53 束の間の安らぎ
馬車が領都の門を出ると車外の喧騒は聞こえなくなり、思わず溜息を1つ吐いた。
今回のグレイス領への帰還は、当初の予定では婚約者であるクリスティーナ嬢のお披露目が目的で、ここまで忙しい3ヵ月になるとは想像していなかった。
だが、そのおかげで得る物は非常に多く、大いに学び、成長することができた手応えがあった。8歳のトーマスが成長するのは当然のことだが、50代中年の記憶を持つ俺でも、まだまだ学ぶことがいくらでもあり、チャレンジできることは喜ばしいことでもあった。比喩ではなく、本当に人生をやり直している気持ちになれる。
そして、俺以上にクリスティーナ嬢の成長も、目を見張るものがあった。
知り合った頃から侯爵家の令嬢として完璧だったが、この3ヵ月で、気品や振る舞いだけでなく、グレイス家跡継ぎの婚約者としての気概や責任感が備わり、周りが手を焼くほど頑固な芯の強さを見せるようになった。
彼女のこの気質は、貴族教育や俺が家庭教師代わりに教えた程度で身に付くものではなく、彼女自身が本来持っていたものだろう。それが、この3ヵ月の経験で自信が備わり、表に出すようになったものだと考えていた。
2年前に彼女の才能に目をつけて、その才能を伸ばすための教育を始めたが、今にして思えば、あの時の俺の目に狂いはなかったということだ。そんな彼女を婚約者としてグレイス家に迎え入れることになったのは、グレイス家にとっても俺にとっても幸運なことだと思う。
「トーマス様?お疲れのようですが、寝不足なのでしょうか?」
「ああ、うん。領都を離れる前に、お世話になった方たちにお礼をしなくてはと思いまして、お礼の書状を書いていたのですが、書き始めたら、あの方もこの方もとドンドン数が増えてしまって、気付いたら0の刻を回っていました」
「そのようなお仕事でしたら、わたくしにも声をかけてくだされば、お手伝いしましたのに」
「王都まで三日の旅路が控えているのに、君に無理をさせるわけにはいかないよ」
今、話をしていて気づいたが、クリスティーナ嬢との会話も、以前ほどの他人行儀さは薄れてきたように感じる。婚約者同士とはいえ、お互い侯爵家の子息子女として、言葉遣いには相当気を付けていたし、会話の内容も遠慮や気遣いが多かった。
それが、少しではあるが遠慮がなくなっていた。クリスティーナ嬢は頑固虫を発症するようになったのもそうだし、俺も弱音を吐いたり、愚痴っぽいことも言えるようになった。
「でしたら、移動のあいだはわたくしに気を遣わず、お休みになってください」
「いや、大丈夫ですよ」
「いけません。トーマス様は、働きすぎです。お休みになってください」
ほら、また頑固虫が発症しちゃったよ。
でも、こうなると周りは大変だけど、俺は彼女のこういう気質は好きだった。
やっぱり、芯が強い人には、安心して信頼をおける。
「では、お言葉に甘えて、少しだけ仮眠を取らせてもらおうかな」
そう断って、腕組みをして座ったまま寝ようとしたら、対面に座っていたクリスティーナ嬢は席を立ち、俺の隣に座り直した。
「わたくしの膝を使ってお休みください」
「いや、さすがにそれはできないよ。ブラン家のご令嬢をマクラにしていたなんて知れたら、大ごとになってしまう」
「ここには世話係もいませんし、二人だけですので問題ありません」
背筋を伸ばして普段と同じようにお澄まししているが、真っすぐに見つめてくるその眼差しには、妙な圧を感じる。
「わたくしはトーマス様の婚約者ですよ?夫となる方の体を労わるのも、婚約者としての務めです」
「少し、ムキになっていませんか?」
「いえ、ムキになどなっていません。ですが、お城でも視察先でもトーマス様はお忙しくて、こうして二人きりになれたのは久しぶりなのですよ?今だけは、婚約者としての時間を大切にしたいのです」
クリスティーナ嬢が、珍しく不満を口にしている。
そして、今の俺にその言葉は、焦りや不安を覚えてしまう。50代中年の記憶にある、結婚生活で失敗した嫌な記憶を思い出してしまうからだろう。
確かに、王都の屋敷では二人きりでの時間をたくさん過ごしていたのに、グレイス領に来てからは、俺はあれもこれもと働いてばかりで、常に誰かが傍にいた。先日の三日間の休暇でも常に世話係がいたから、ティータイムですら二人きりではなかったな。
ここは、素直に反省するべきか。
「すみません。仕事にかまけてばかりでしたね。では、王都に戻るまでは仕事のことは忘れて、二人だけの時間をのんびり過ごしましょうか」
「はい。遠慮なさらずに、わたくしに甘えてください」
甘えてくれと言われても、貴族の跡継ぎとしての振る舞いを強制されてきた身では、どうやって甘えればいいのか分からなくて戸惑ってしまう。それに、50代中年の記憶でも、伴侶や恋人に甘えた記憶なんてものは無い。
仕方ないので、言われた通りに体を横にして、クリスティーナ嬢の膝に頭を乗せてみる。
すると、クリスティーナ嬢は俺の顔を見つめながら、頭を優しく撫で始めた。
7歳の女児に頭を撫でられるなんて、50代中年の記憶にもない体験だ。
でも、不思議なもので、妙に落ち着く。
相手が、最も信頼して、最も気を許せる人だからだろうか。
それとも、クリスティーナ嬢から漂う甘い香りに、安らぎの効果でもあるのだろうか。
なんてことを考えていたが、あっという間に寝てしまった。
目を覚ますとヨダレを垂らしていたが、クリスティーナ嬢はドレスが汚れても嫌な顔一つ見せず、「おはようございます。ゆっくりお休みになられましたか?」と微笑み、俺を見つめていた。
寝惚けていたせいなのか、返事をするのも忘れて見惚れてしまう。
「トーマス様?まだお疲れですか?」
「あ、いえ、君のおかげでゆっくり休めました。ありがとう」
揺れる馬車で寝てしまうほど、寝不足と疲労が溜まっていたのかもしれない。
なんだか、もう少しだけ、クリスティーナ嬢の温もりを感じていたいな。
「もうしばらく、このままでもいいですか?」
「はい。お心赴くままに、どうぞ」
甘えるというのは恥ずかしい行為だと考えていたが、これほど気が休まるものだとは知らなかった。
おかげで、甘えられる人がいる幸せと、その存在の大切さを知れた気がする。
50代中年はそれを知らなかったから、人生の終わりが孤独だったのかもしれないな。




