第43話:最後の悪あがき:汚水処理槽への落下
「……見事だ。完全に、我々の負けだ」
床暖房の穏やかな温もりに両手をつき王国最強と謳われた第一騎士団長が丸腰の青年に向かって深く頭を下げた。
圧倒的な技術力と、それを「インフラの実験」と言い切る理路整然とした思想。
その完全無欠の文明の前に、軍人としての最後の矜持を静かに折られた瞬間だった。
リアンは勝ち誇ることもなく、ただ設計者の顔でその一礼を受け止めていた。
だがその美しくも残酷な敗北の儀式を耳障りな金属音と狂気に満ちた絶叫が引き裂いた。
「騙されるな!こいつは詐欺師だ!俺が殺してやる!」
数メートル先でゼクスが新調されたばかりのミスリルの大剣を振り上げ口角から白い泡を飛ばしながら喚き散らしていた。
彼の脳内は処理能力の限界を超えたパニックに陥っていた。
「王国の未来を見据えたインフラ実験場」というリアンの言葉。
提示された緻密な設計図。
そして何より自分たちが道中で身をもって味わった、抗いようのない「極上の快適さ」。
もしそれらがすべて真実だとしたら、どうなるか。
この空間が魔王軍の軍事拠点だというゼクスの報告は完全な虚偽となる。
己の虚栄心と逆恨みのために王国騎士団を動かし、五十名もの精鋭を無用な行軍で限界まで消耗させた大罪人。
勇者の称号は剥奪され、待っているのは名誉ある死どころか泥にまみれた破滅だけだ。
これまで築いてきたすべてが崩れ落ちる恐怖。
その瞬間、極限まで暴走した彼の理性は自分を守るために目の前にある真実をすべて「悪魔の幻惑」として切り捨てた。
この詐欺師を殺せばいい。
この場で斬り捨ててしまえば少なくとも「魔王の配下を討ち取った」という既成事実だけは残る。
そうすれば、自分の嘘は真実になるのだ。
「死ねえええええええええっ!」
ゼクスは血走った目を極限まで見開き、鉄のブーツで床暖房の黒い石板を強く蹴りつけた。
総重量三十キログラムの重装甲を軋ませ丸腰のリアンの背中へと狂ったように突進する。
「やめろ、ゼクス!」
団長は両膝をついたまま掠れた声で叫んだ。
極限の脱水と疲労そして床から供給される極上の熱によって完全に筋肉の緊張を解かれてしまった彼の肉体は、即座には動かない。
間に合わない。
だが標的とされたリアンは、背後に迫る殺気に対して、振り返ろうとすらしていなかった。
焦る素振りも、身構える様子もない。
彼はただ静かな手つきで、広げていた羊皮紙の設計図を巻き直しているだけだった。
上段に構えられた白銀の刃がリアンの頭を真っ二つに叩き割る――その直前。
ダンジョンの心臓部であるコアが、最高管理者に対する「規定値を超えた明確な殺意」を瞬時に感知した。
安全機構が作動する。
しかしそれは、炎でも槍でもなかった。
リアンが構築したこの実験施設において、暴力を暴力で制圧するような野蛮なシステムは存在しない。
発動したのは、純粋なインフラとしての「排除」の機能。
ズズッ……という摩擦音すら、そこにはなかった。
ゼクスが全体重を乗せて踏み込んだ右足の真下。
ミリ単位の精度で敷き詰められていた黒い重厚な石板の一枚が完全な無音でスッと横へとスライドしたのだ。
「えっ――」
虚空を踏み抜いたゼクスの口から間の抜けた声が漏れる。
支えを失った彼の身体は重装甲の圧倒的な質量と重力に従い、そのまま真下へと吸い込まれていく。
振り下ろした大剣の遠心力も手伝って彼は空中で無様に体勢を崩した。
悲鳴を上げる間もなく、ぽっかりと開いた暗い四角形の穴へとゼクスは真っ逆さまに落下していった。
彼が完全に落ちた直後、床石は再び無音でスライドし、元の平滑な床へと戻った。
静寂。
そして数秒遅れて。
ドシャァァァッ!という、水気を含んだ分厚い泥の山に叩きつけられるような、重く鈍い音が床下深くから響き渡った。
遅れて立ち上がった団長がリアンの操作によって再び開かれた床の穴の縁から下を覗き込む。
「……これは」
アンバー色の魔石灯の光がうっすらと届く、三十メートルほど下。
そこは迷宮都市から排出される生活排水や生ゴミをすべて集め、巨大なバクテリア・スライムたちの力で有機肥料へと発酵・分解させるための広大な設備、「汚水処理槽」だった。
強烈なアンモニア臭と腐敗臭が入り混じった空気が、穴の底から立ち昇ってくる。
ゼクスは悪臭を放つ茶色い汚泥の海に頭から突っ込みもがいていた。
極上のミスリルの大剣は汚物の底深くへ沈んで見えなくなり、自慢の金髪も、威厳を示すために着込んでいた輝かしい甲冑も、すべてがドブの臭いのするヘドロにまみれている。
「ぶぼっ、げほっ!ぺっ!た、助け……っ!」
彼は汚水を口から吐き出しながら、必死に這い上がろうと手足をバタつかせている。
しかし粘度の高い泥と鎧の重さが足枷となり、足掻けば足掻くほどにズブズブと汚物の中へ沈み込んでいく。
バクテリア・スライムたちが、新たな「有機物」の到来を歓迎するように、彼の周囲にゆっくりと集まり始めていた。
「……お見苦しいところをお見せしました」
リアンが設計図を腰の革袋にしまいながら静かな足取りで穴の横に歩み寄ってきた。
「あれは巨大な生ゴミや害獣が区画内に侵入した際に、自動でダストシュートへと廃棄する安全装置です。インフラを清潔に維持するためには、不純物の排除機構も不可欠ですからね。まさか、人間サイズの異物が引っかかるとは思いませんでしたが」
リアンは泥にまみれて絶叫するゼクスを冷淡に見下ろした。
その表情に怒りや憎しみはなく、ただ設備の仕様を確認するだけの研究者の顔だった。
ゼクスへの個人的な復讐ですらない。
システムに異物と判定されダストシュートからゴミ箱へと自動処理されただけなのだ。
かつて王国が期待を寄せた若き勇者。
己の虚栄心を満たすためだけに虚偽の報告をでっちあげ、王国最強の第一騎士団を私怨で動かし、五十名の精鋭を限界まで消耗させた男。
その男が今、文字通りの汚水の中で惨めに泥を啜っている。
団長は自らの部下たちを地獄の行軍へと引きずり込んだ元凶の醜悪な末路を、すでに裁きを下した者の目で見下ろした。
彼が振り回した狂信的な正義のメッキは完全に剥がれ落ち、そこにはただ、己の嘘に溺れて身を滅ぼした哀れな小悪党の姿があるだけだった。
「……自業自得だな」
静寂を取り戻しつつある回廊に、団長の冷酷な宣告だけがポツリと落ちた。




