第44話:称号剥奪:勇者の終焉
ズズッ、という低い駆動音とともに黒い石板の床が再びスライドして開いた。
リアンが壁面の一部に偽装された魔力パネルを静かに操作すると、三十メートル下の汚水処理槽から、メンテナンス用の魔導リフトがゆっくりと上昇してくる。
アンバー色の穏やかな魔石灯の光の中に引き上げられたのは、もはや人間の形を保っているのがやっとの、惨めな汚泥の塊だった。
「ぶほっ!げほぉっ!あ、あぁぁ……っ!」
強烈なアンモニアと腐敗臭が入り混じった悪臭が、清潔に保たれていた玉座への回廊に一気に広がる。
リフトの床にうつ伏せに転がったゼクスは、粘度の高い茶色いヘドロを全身に纏い、激しく咳き込んでいた。
彼が自らの威厳を示すために特注し、磨き上げていた白銀の甲冑は、見る影もなく汚物で黒く塗り潰されている。
誇りであった美しい金髪には、生ゴミを分解するバクテリア・スライムの残骸がべっとりと絡みつき、口からは胃液と泥が混ざった汚水が絶え間なく吐き出されていた。
「だ、団長……っ!助け……!あいつを、あいつを殺せ!やはり罠だったんだ!」
ゼクスは這いつくばったまま床暖房の温もりの中で静かに立ち上がった騎士団長の足元へと、すがるように手を伸ばした。
彼の脳は未だに自らに降りかかった現実を直視することを拒絶していた。
自分がゴミ箱に落とされたという事実も、自分の力では這い上がれなかったという屈辱も、すべてを「魔王の手先であるリアンの卑劣な罠」という設定にすり替えることで辛うじて自我を保とうとしているのだ。
だが、彼が伸ばした泥まみれの手が団長のブーツに触れる直前。
ガッ、と。
無慈悲な力で、その手は冷たい鉄のブーツによって床に踏みつけられた。
「……痛っ!な、何を……団長!?」
「触れるな」
頭上から降ってきたのは絶対零度まで冷え切った声だった。
ゼクスが顔を上げると、そこには彼を助け起こそうとする上官の姿はなかった。
ただ靴底についた泥染みを見下ろすような、凍てつく氷の視線が彼を射抜いていた。
団長は極限の疲労の底にありながらも、軍人としての理性を取り戻していた。
迷宮のインフラがもたらした「極上の快適さ」は、彼の肉体から戦闘の意志を奪い去ったが、同時にゼクスが振り撒いていた狂信的な毒気と恐怖をもきれいに洗い流していたのだ。
冷静な視界で状況を俯瞰すれば、すべての事実は疑いようもなく明白だった。
「貴様の報告は、完全な虚偽だ。ゼクス」
「きょ、虚偽……!?何を言っている!奴は魔王の……っ!」
「黙れ」
団長の静かで重い一喝がゼクスの喉の奥に言葉を押し込ませた。
「ここは魔王軍の軍事拠点などではない。罠もなかった。我々が勝手に怯え、重武装で消耗し、自滅しただけだ」
団長は泥にまみれて呆然とするゼクスを見据え、その罪状を淡々と、しかし決定的な重さを持って突きつけた。
「貴様は己の虚栄心と逆恨みのためだけに、王城で虚偽の報告をでっち上げた。そして、王国最強の第一騎士団を私怨で動かし、五十名もの精鋭をこの地下迷宮で限界まで消耗させた。……その罪は極めて重い」
「ち、違う!俺は勇者だ!国を救った英雄だぞ!あいつが俺を追い出さなければ……!」
「まだ己の非を認めないか。見苦しい」
団長は腰のポーチから高密度の魔力が編み込まれた銀色の手錠を静かに取り出した。
それは極悪人や反逆者を捕縛するための魔力を完全に封じる拘束具だった。
ガシャン!
団長は無造作にゼクスの両腕を背後にねじり上げ容赦なく手錠をかけた。
重装甲のまま泥の重しを引きずっているゼクスに抵抗する体力など残されてはいなかった。
「な、やめろ!外せ!俺を誰だと思っている!勇者ゼクスだぞ!」
「……もはや、貴様は勇者ではない」
ゼクスの絶叫を団長の厳粛な宣告が切り裂いた。
「第一騎士団長の権限において、本日付で貴様の『勇者』資格を一時停止する。正式な裁定と国外追放の判断は、王都へ連行した後に議会で下されるだろう」
「……は?」
ゼクスの動きがピタリと止まった。
血走った瞳が極限まで見開かれ泥にまみれた唇がわなななと震える。
「……ていし……?裁定……?」
その言葉の響きに彼はひどく怯えた。
「俺は勇者だぞ……?勇者ゼクスだぞ!資格を停止?誰がそんなことを!俺は勇者なんだ!」
称号という言葉への異常な執着。
ゼクスは首を激しく振り、泥まみれの手で自分の顔をかきむしるようにして叫び始めた。
「嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だ!そんなこと認めない!俺は選ばれた人間なんだ!太陽の加護を受けた勇者なんだぞぉぉぉぉっ!」
ゼクスは床に頭を擦り付けながら、まるで駄々をこねる幼児のように、手足をバタつかせて醜く泣き叫び始めた。
泥と涙と鼻水が混ざり合い、顔中をぐちゃぐちゃに汚していく。
「頼む、団長!嘘だと言ってくれ!俺は勇者のまま王都に帰るんだ!帰らなきゃいけないんだ!あいつが、リアンが悪いんだ!あいつが俺の人生を台無しにしたんだぁぁぁぁっ!」
誰の心にも響かない、ただ己の保身だけを目的とした見苦しい命乞いと責任転嫁。
団長は感情を削ぎ落とした目でその姿を一度だけ見下ろすと、もはやゼクスを視界から外し回廊の奥に静かに佇む青年へと向き直った。
「リアン殿。我々の愚かな侵入により、施設を汚し、多大な迷惑をかけたことを改めて謝罪する。……この男を連れ帰るための、地上への転送手段を貸してはいただけないだろうか」
「ええ。第三区画の転送陣から、直通で迷宮の入り口までお送りしましょう。案内させます」
リアンは泥まみれで喚き散らすゼクスには一瞥もくれず、ただ施設管理者としての事務的な口調で淡々と応じた。
彼の傍らに、いつの間にか一体の案内用ゴーレムが静かに待機している。
団長は頷きゼクスの鎧の首根っこを力任せに掴むと泥を引きずりながら転送陣のある方向へと歩き出した。
「離せ!離せぇぇ!俺は勇者だ!リアン!お前、俺を笑っているんだろう!答えろ!何とか言えよ、リアンんんんっ!」
引きずられていくゼクスが、首を捩るようにして背後のリアンに向かって呪詛を吐き出す。
だがその言葉に対する返答は、一切なかった。
リアンは腕を組み、ただ静かな、凪いだ水面のような瞳でゼクスが引きずられていく遠ざかる背中を見つめていた。
そこにかつての仲間に対する怒りはなかった。
自分を追い出した男が破滅していく姿を見て溜飲を下げるような、復讐の喜びもなかった。
憐れみも、悲しみも、同情すらも、一切存在していなかった。
自分の存在が、もはやリアンの感情を1ミリも揺らさない「無」でしかないという事実。
それこそが、自己顕示欲の塊であるゼクスにとって、どんな肉体的な拷問よりも残酷で逃げ場のない絶望だった。
「リアン!こっちを見ろ!俺を見ろぉぉぉぉっ!!」
ゼクスの血を吐くような悲痛な絶叫は、やがて転送陣のまばゆい光の中に吸い込まれ完全に途切れた。
団長の重い足音も消え、残されたのは、誰もいなくなった静寂の回廊だけ。
ズン、ズン、と壁の奥で温水パイプが規則正しい脈動を打ち、なめらかな石の床が何事もなかったかのように陽だまりのような熱を供給し続けている。
シューッという換気システムの清浄な微風が、わずかに残った汚泥の匂いを、ゆっくりと吸い込んでいった。




