第42話:会談:王国インフラ実験場へようこそ
どれほどの時間が経ったのだろうか。
第一騎士団長は、ゆっくりと重い瞼を開いた。
視界に映るのは仄暗く穏やかなアンバー色の魔石灯と高い天井。
そして自分の頬に触れている、なめらかで温かい黒い石板だった。
彼は身をよじり上半身を起こした。
普通ならば三十キログラムの鋼鉄の板金鎧を着込んだまま冷たい石の床で眠れば関節は悲鳴を上げ、筋肉はこわばり、二度と立ち上がれないほどの疲労に見舞われるはずだ。
だが、違った。
彼の身体には、かつて経験したことのないほどの心地よい軽さが満ちていた。
床暖房から供給され続けた熱が、冷たい檻だった鎧を蓄熱器へと変え、極限まで張り詰めていた筋肉の強張りを解きほぐしていたのだ。
長きにわたる迷宮探索の疲労も、死の恐怖も、すべてが汗とともに洗い流されている。
湯気の立つ湯に長く浸かり、そのまま深く眠った後のような脱力だった。
「……信じられん。本当に、ここは迷宮の最深部なのか……?」
息を呑んで呟きながら彼は自分の手を見た。
剣ダコで硬くひび割れていたはずの手のひらまでが、適度な湿度と温もりによって潤いを取り戻している。
彼の手からこぼれ落ちた白銀の大剣は少し離れた床に転がったままだった。
もはや、それを拾い上げて構えようという闘争心は心のどこを探しても見当たらなかった。
「はぁっ!はぁっ!来るな、悪魔め!俺を焼き殺そうとしたって無駄だ!」
静寂の空間に耳障りな絶叫が響き渡った。
団長が視線を向けると数メートル先でゼクスがミスリルの剣を虚空に向かって狂ったように振り回していた。
彼の目は真っ赤に血走り口角には白い泡が溜まっている。
極上の床暖房の熱を「自分を焼くための火柱」と誤認し、適温の微風を「神経毒のガス」だと思い込んだゼクスの脳は、狂信的な自己防衛システムによって完全に現実と乖離した幻覚を見続けていた。
かつては王国が期待を寄せた若き勇者の姿。
だが完全に毒気を抜かれ冷静な思考を取り戻した団長の目には、その姿はただ滑稽であまりにも哀れな道化にしか見えなかった。
その時だ。
コツ、コツ、と。
回廊の奥から規則正しい足音が近づいてきた。
それは重武装の騎士のブーツでもなく、魔物の爪の音でもない。
歩き慣れた平滑な床を柔らかい革靴で歩く静かな音だった。
団長は床に座り込んだまま足音の主を見つめた。
薄暗がりから現れたのは一人の若い男だった。
質素で機能的な作業着に身を包み腰にはいくつかの工具を収めた革袋を提げている。
丸腰だ。
武器らしいものは一切持っていない。
その代わりに男の腕には何枚にも巻かれた羊皮紙の束が大切そうに抱えられていた。
「よくここまでお越しくださいました、第一騎士団長殿」
青年は張り詰めた緊張感など微塵も感じさせない穏やかで理路整然とした声で口を開いた。
「ようこそ、王国インフラ実験場へ」
「……王国、だと……?」
団長は低い声で聞き返した。
「ここは魔王軍の軍事拠点ではないのか。お前が勇者ゼクスを陥れたという裏方の男か」
青年――リアンは、小さく苦笑して首を振った。
「ええ、いずれそうなる予定の、ですがね。軍事拠点など冗談でしょう。この空間のどこに軍隊を駐屯させる機能があるというのです。ここは我が王国の将来の住環境技術を飛躍的に向上させるための純粋な実験施設です」
そう言うとリアンは抱えていた羊皮紙の束を広げ、床に座り込む団長の目の前に提示した。
「ご覧ください。これがこの階層の設計図です」
魔石灯の光に照らされたその図面を見て団長は言葉を失った。
そこに描かれていたのは恐ろしい殺人トラップの構造でも魔物を培養する魔法陣でもなかった。
均一な光量を保つための魔石灯の計算式。
最適な酸素濃度と湿度を維持し微風を循環させる換気ダクトの流体力学的な配置。
地下深くから汲み上げた水をクリスタルスライムの特性を用いて浄化し適温の温泉を作り出す魔導熱源パイプの回路図。
そして彼ら残存兵の筋肉を的確にほぐしたマッサージチェアの体圧分散の構造から今まさに団長の身体を包み込んでいるこの床暖房の地熱利用システムに至るまで。
すべてが一切の無駄なくミリ単位の精度で緻密に計算され尽くしていた。
人を殺すためではない。
人を傷つけるためでもない。
ただひたすらに「人間が最も安全で、快適に過ごせる環境」を構築するためだけに注ぎ込まれた圧倒的で狂気的なまでの情熱と技術の結晶がそこにあった。
「少々、環境適応のテストが過酷すぎたかもしれませんが……重武装の騎士の方々にも十分にリラックスしていただける効果が実証され、私としても非常に有意義なデータが取れました」
リアンはさも実地テストが無事に終わって安堵している研究者の顔で、静かにそう語った。
提示された設計図の芸術的なまでの美しさと、この迷宮で自分たちが味わった「おもてなし」の体感は何よりも雄弁にリアンの言葉を裏付けていた。
団長の胸の中で最後に残っていた細い疑念の糸が完全に溶けて消え去った。
(……罠ではない。少なくとも、俺たちを殺すための仕掛けでは)
(だが――これが“兵器として”使われたら?)
一瞬、王国騎士団長としての強烈な警戒感が脳裏をよぎった。
だが目の前で図面の内容を確かめるように語る青年の目には他者を傷つけるような野心も権力への執着も見当たらない。
この男は自分たちを攻撃などしていない。
ただ己の設計したインフラを完璧に稼働させていただけだ。
それに対して自分たちが勝手に怯え、勝手に重武装で熱を溜め込み、そして勝手に極上の快適さに屈服しただけなのだ。
団長はリアンの理路整然とした態度と、その背後にある途方もない技術力に、軍人としてではなく、一人の人間として深い感服を覚えた。
同時にひとつの冷酷な事実――ゼクスの報告が虚偽だったという確信が、彼の脳内で完全に固まった。
「……だまされるな!こいつは魔王の手先だ!団長、そいつを殺せ!殺さないと俺たちが殺されるぞ!」
ゼクスが図面を見つめる団長とリアンに向かって泡を吹きながらわめき散らしている。
団長はゆっくりとゼクスへ冷ややかな視線を向けた。
ゼクスの報告は、まったくのデタラメだったのだ。
この美しく機能的な空間を「魔王軍の軍事拠点」と呼ぶのは、あまりにも無理がある。
己の虚栄心を傷つけられた逆恨み。
被害妄想。
そのくだらない私怨のためにゼクスは虚偽の報告をでっちあげ、王国最強の第一騎士団を動かし、五十名もの精鋭を投入し、その半数を道中で骨抜きにして限界まで消耗させたのだ。
「……見事だ。完全に、我々の負けだ」
団長は床暖房の温もりに両手をつき、リアンに向かって深く頭を下げた。
それは圧倒的な技術と知性に対する純粋な敬意の表明だった。
武力で叩き潰されたわけではない。
だが、この完全無欠のインフラの前に王国の剣は一本残らずへし折られたのだ。
リアンは驚くことも勝ち誇ることもなく、静かにその一礼を受け止めた。
団長の心にはもはや敗北の屈辱はなく、ただ真実を知り得たことへの静かな安堵だけが広がっていた。
図面を見せられ、ついに真実を知った団長。
暴力ではなく行き届きすぎたインフラによる完全な無力化。
これこそがリアンが目指した「実験」の成果でした。
知性と技術が盲目な武力を圧倒する瞬間のカタルシスを感じていただけたら幸いです。




