第41話:心理的敗北:抗えない床暖房の心地よさ
背後から微かに響いていたマッサージチェアの低い駆動音と部下たちの弛緩しきった吐息がやがて完全に聞こえなくなった。
地下迷宮の最深部へと続く広大な石積みの回廊。
そこを歩くのは王国の威信を背負って踏み込んだ第一騎士団の先遣隊五十名のうち、たった二人だけになっていた。
騎士団長は重い鉛のように引きずる自らの足を進めながら、決して後ろを振り返らなかった。
振り返って己の部下たちが武器を捨てて完全に骨抜きにされた姿を視界に入れてしまえば、自らの中に辛うじて残っている軍人としての最後の芯が音を立てて折れてしまうとわかっていたからだ。
隣を歩くゼクスは、すでに現実の世界にはいない。
彼は充血した目を大きく見開き虚空に向かって意味不明な呪詛を吐きながら見えない拷問器具の幻覚と戦い続けている。
団長の喉は極度の脱水でひび割れ胃の腑は長時間の過度な緊張でせり上がっている。
厚い綿の肌着と革の鎧下そして通気性のない三十キログラムの鋼鉄の板金鎧は
限界までかいた汗によって完全に冷え切り、今度は容赦なく彼の体温を奪い始めていた。
全身の筋肉は強張って悲鳴を上げ一歩踏み出すごとに足の骨がきしむ。
それでも彼は歩みを止めなかった。
王国最強の剣であるという矜持。
国を護る盾としての責任感。
それだけが、この孤独で絶望的な行軍において彼を立たせている唯一の動力だった。
二人は巨大な両開きの扉を抜け、玉座へと続く最後の回廊に足を踏み入れた。
そこは、これまでの明るく穏やかな居住空間とは趣が異なっていた。
壁には等間隔で静かなアンバー色の魔石灯が灯り、床には重厚で滑らかな黒い石板が隙間なく敷き詰められている。
いよいよ敵の本陣だ。
団長は乾いた唇を強く噛み締め右手で大剣の柄を握り直した。
罠だろうと未知の魔物だろうと構わない。
最後の一兵になろうとも敵の将と刺し違える。
冷たく暗い迷宮の石の床に血を流し王国の名のために果てるそれが、敗北を運命づけられた指揮官に許された、せめてもの美しい最期だった。
だが一歩、また一歩と黒い石の床を踏みしめた時。
団長の研ぎ澄まされた感覚器官が、足の裏から伝わる決定的な「矛盾」を感知した。
冷たくない。
地下深くの日の当たらない分厚い石の床だ。
本来であれば、鉄のブーツの底を通して骨の髄まで凍りつくような冷気が這い上がってくるはずだ。
彼がこれまで経験してきた数々の過酷な戦場が、野営の夜の底冷えが、そう教えている。
しかし彼が今踏みしめているこの滑らかな黒い石板からは春の陽だまりのような穏やかで柔らかな熱がじんわりと立ち昇っていた。
迷宮の奥底で発生する地熱が、どこかで完璧に制御され石板の下をくまなく巡っている。
ここは見えない何者かの手によって意図的に敷設された巨大な床暖房の上だった。
その熱は分厚いブーツの底を容易く透過し冷え切っていた団長の足先へと到達した。
極度の緊張と恐怖、そして自らがかいた大量の汗によって冷え固まっていた末端の毛細血管がその優しい温度によって強制的に開かされていく。
「……いかん、これは、罠だ……っ!」
団長は本能的な危機感を覚え反射的に一歩後ずさろうとした。
両手で大剣の柄を強く握り直し、隣を歩くゼクスに撤退の指示を出そうと口を開く。
しかし――声が出ない。
脳は「動け」と命じているのに戦うために極限まで張り詰めていた太ももやふくらはぎの筋肉が下から供給される極上の熱によって勝手に緊張状態を放棄しようとしているのだ。
「動け……っ、構えろ……!」
歯を食いしばり、必死に抗おうとする。
だが足元から静かに登ってくるその温もりは、冷たい檻だった三十キロの鋼鉄の板金鎧を蓄えた熱を離さない器へと変えてしまっていた。
冷え切っていた鎧の内側に心地よい熱が滞留し、胸や背中、凍えていた内臓までをも内側から優しく撫で強烈な睡魔となって彼の意識を麻痺させていく。
カタン、と。
団長の左手から最後の最後まで手放さなかった鋼鉄の大盾が滑り落ちた。
横ではゼクスが虚空に向かって狂ったように剣を振り回し、顔を真っ赤にして何事かを叫び続けている。
しかし狂信的な自己防衛システムによって幻覚に囚われた彼の声は、もはや意味を成していなかった。
団長の耳には、それが単なる遠いノイズとしてしか届かない。
ガシャン。
重い金属音を響かせ、団長はついに抗うことをやめ黒い石の床に両膝をついた。
重い鎧の膝当て越しに石のダイレクトな温もりが伝わってくる。
過酷な野営の夜、凍える体を寄せ合った焚き火の熱よりも、ずっと優しく、圧倒的に確かな温度。
彼は震える両手で兜の留め金を外し頭から引き抜いて横へ転がした。
そして、まるで疲れ切った赤子のように滑らかな石の床にそっと手をつき、うっ血して冷え切った頬を、その温かい石板に直接すり寄せた。
頬の皮膚から伝わる陽だまりの熱が脳の芯を深く痺れさせる。
──もう、いい。
心の奥底で彼を支えていた最後の矜持が決定的に折れる音がした。
「……戦い、たくない……」
ひび割れた唇から誰に聞かせるでもない、彼自身の本当の弱さがこぼれ落ちる。
大剣の柄を固く握りしめていた右手の指が、一本、また一本と、ゆっくりと開いていく。
最後まで彼を軍人たらしめていた白銀の長剣が、ガラン、と重い音を立てて床に転がり、彼の手から完全に離れた。
王国の剣。
第一騎士団長。
部下の命を背負う者。
そのすべての重圧と責任感が、下から包み込む陽だまりのような熱に溶かされてどこか遠くへ消えていく。
「……ここで……このまま、眠ってしまいたい……」
団長は石の床に体を丸めるようにして、ゆっくりと目を閉じた。
強力な攻撃魔法で吹き飛ばされたわけでもない。
圧倒的な武力でねじ伏せられたわけでもない。
ただ冷え切った限界の体に寄り添う、行き届きすぎた温度。
それだけが歴戦の指揮官から戦意を根こそぎ奪い去った。
肉体を破壊されるよりも残酷で、そして甘美な、戦士としての完全なる「心理的敗北」だった。
虚空に向かって一人で剣を振り回し続けるゼクスの狂態をよそに、王国最強の騎士団長は床の温もりに抱かれながら深く安らかな眠りへと落ちていった。
静寂の回廊を、ただ心地よい微風だけが撫でていく。




