第40話:骨抜きにされる精鋭たち:マッサージ機の猛威
極上の温泉がもたらす暴力的なまでの「癒やし」の誘惑。
それを唇から血が滲むほど歯を食いしばり、軍人としての最後の矜持で辛くも振り切った者たちがいた。
だが王国の威信を背負って地下迷宮第五層へと踏み込んだ第一騎士団の先遣隊五十名の戦力は、その温泉エリアを通過した時点ですでに半数にまで減少していた。
湯気の中、剣も鎧も岸に積まれたまま目を閉じた無防備な背中だけがいくつも揺れていた。
辛うじて理性を保ち、前進を続ける残存兵たち。
先頭を歩くゼクスと騎士団長に続くおよそ二十五名の歩みは、死地へ向かう亡者のように重く、生気がなかった。
温泉から立ち昇る適度な湿気を含んだ温かい空気を通過したことで、彼らが着込む通気性のない鋼鉄の板金鎧の内部は、さらに過酷な蒸し風呂状態と化していた。
限界まで汗を吸った分厚い綿の肌着は鉛のように重く皮膚に張り付き、歩を進めるたびに体力を容赦なく削り取っていく。
三十キログラムを超える重装備を支え続ける彼らの肩と背中、そして腰の筋肉は極度の緊張と疲労の蓄積によって岩のように硬く収縮し、一歩踏み出すごとにギリギリと神経を軋ませるような鈍い痛みを脳へ発信し続けていた。
その疲労困憊の彼らの前に新たな空間が開けた。
そこは目に優しい仄暗いアンバー色の魔石灯で均一に照らされた、広大な「休憩ルーム」だった。
気温も湿り気も、息をした瞬間に「楽だ」と身体が判断する按配へ、きっちり整え直されていた。
微風が心地よく流れている。
そして微かな弾力を持つ床材の上には、奇妙な形状をした一人掛けの大型の座席が、等間隔で何十台も整然と並べられていた。
それはダンジョンの環境を統括するリアンが、迷宮内の素材を組み合わせ探索者たちの疲労を物理的に回復させるために開発した「全自動マッサージチェア」であった。
座面と背もたれの部分には特殊な処理を施されたクッション・スライムが薄い膜に封じ込めて組み込まれている。
そしてその内部には緻密な魔力回路によって制御された小型の駆動系ゴーレムの骨格が、人間の掌と指先の動きを完全に再現するよう設計され、静かに待機していた。
「……罠だ。警戒を、怠るな。陣形を維持しろ」
極度の脱水で言葉が割れ喉から血の味がする。
団長の命令は形にならず乾いた息と一緒に途切れた。
残された騎士たちの限界を迎えた肉体は、すでにその命令を拒絶し始めていた。
彼らの目は薄暗い空間に並ぶその柔らかそうな座席に完全に釘付けになっていた。
一人の古参の騎士の膝が笑って重い鋼鉄の大盾が手から滑り落ちた。
ガガァン、と鈍い音が響く。
その一音で隊列の芯が折れた。
「おい、戻れ!何をしている!」
彼はよろめく足取りで隊列から外れ、団長の制止を無視し、朦朧とした意識のまま兜を脱ぎ捨てた。
胸甲の留め具に指をかけたが汗で滑って外れない。
苛立ってベルトを半分ちぎるみたいに緩めた。
背当てがずれて隙間がひらく。
そこへ崩れ落ちるように座席へ背中を預けた。
その瞬間、座席の表面を覆うクッション・スライムが、ずれた鎧の隙間へとぬるりと入り込み、重装甲の内側で直接肉体に密着した。
人体のすべての凹凸に隙間なくフィットし、三十キログラムの装備の重みがどこにも食い込まないよう均等に散っていく。
──痛みごと。
──肩が、勝手に落ちた。
重力から解放されたような圧倒的な浮遊感が騎士の全身を包み込んだ。
直後、座席の内部で小型ゴーレムの駆動骨格が静かに起動した。
ウィィィン……という極めて低い駆動音とともにスライムの膜越しに絶妙な硬さを持ったゴーレムの球状の「指」が騎士の背中の筋肉へと沈み込む。
それは力任せの打撃ではない。
凝りの筋を外さず、逃げ道を塞がず、奥へ奥へと“当ててくる”。
手練れの揉み手がいるみたいに、圧が少しもずれていない。
「あっ……あぁ……っ」
古参の騎士の口から声にならない吐息が漏れた。
三十キロの装備を支え続け硬直して悲鳴を上げていた僧帽筋と広背筋。
そこにゴーレムの指が深く、そしてゆっくりと入り込み、骨に張りついた硬いこわばりの層を物理的に引き剥がしていく。
痛気持ちいいという究極の感覚。
血流を阻害していた筋肉の収縮が強制的に弛緩させられ、滞っていた血液が一気に全身を駆け巡る。
溜まっていた重だるさが血の流れにほどけて引いていく。
同時に、脳の奥が勝手に褒美を出しはじめて痛みが甘い痺れに変わっていく。
続いて座面の下部から伸びたアームが、歩き続けて限界を迎えていたふくらはぎの腓腹筋を絶妙な力加減で挟み込みリズミカルに揉み上げ始めた。
「た、隊長……もう……一歩も動けません……」
騎士は、だらりと両腕を投げ出し完全に白目を剥いて天を仰いだ。
「ここは……天国か……」
彼の口元はだらしなく緩み、戦場で培ってきた一切の警戒心も騎士としての誇りも圧倒的な物理的快楽の前に完全に瓦解していた。
毒も酸も仕掛けられていない。
ただ「凝り固まった筋肉を的確にほぐす」というインフラの機能が、彼から自発的に立ち上がる意志を完全に奪い去ったのだ。
その古参の騎士の恍惚とした姿と彼が発した至福のため息は、残っていた二十数名の騎士たちの理性の糸を、連鎖的にそして完全に断ち切った。
ガシャァッ、ガラン、ゴトッ。
次々と武器と盾が床に捨てられる音が休憩ルームに連続して反響する。
「やめろ!貴様ら、正気を保て!」
団長の悲痛な叫びも虚しく、重装備の負荷と痛みに耐えかねた歴戦の猛者たちは、我先にと空いているマッサージチェアへと群がっていった。次々と鎧を緩めて座席に倒れ込み、隙間に入り込むスライムの包容力とゴーレムの絶妙な揉みほぐしに身を委ねる。
ウィィィン、ギュムッ、という静かな駆動音と、厚いクッションが沈み込む音。
それに交じって、「あぁ……」「極楽だ……」という、戦士らしからぬ弛緩しきった呻き声が部屋中に満ちていく。
彼らはもう誰一人として剣を握ろうとはしなかった。
ただ「極上の物理的癒やし」を提供するだけで、王国が誇る精鋭部隊の残存戦力は完全に骨抜きにされ、無力な肉の塊へと成り果てた。
その異常な光景の真ん中でゼクスだけが新調されたミスリルの剣を構え、血走った目を大きく見開いてわめき散らしていた。
「お前ら、目を覚ませ!これは悪魔の罠だぞ!その座席は人間を喰う魔物だ!見えないか、お前らの骨が砕かれているんだぞ!」
ゼクスの脳内では『裏方の男が自分たちを殺すために仕掛けた凶悪な罠』というログが完全に固定化されている。
その狂信的な防衛機能のせいで部下たちが絶妙な力加減に癒やされて恍惚としている姿すらも「悪魔の魔法によって精神を破壊され、拷問器具で骨を砕かれている」という幻覚として処理されていた。
クッションの沈み込みがゼクスには肋骨を押し潰す顎の動きに見えた。
彼は虚空に向かって剣を振り回し口角に泡を溜めながら叫び続けた。
「罠だ!全部あいつの陰湿な攻撃なんだ!騙されるな!」
だが叫びは柔らかい座席に飲まれて部屋の奥へ伸びない。
快適さに酔いしれて完全に意識を飛ばしている部下たちの耳には、もはや何も届かなかった。
部下たちを置いてゼクスと騎士団長だけが重い鋼鉄の鎧を着たまま、その場に取り残された。
団長は自らの部隊が敵と剣を交えることすらなく「快適さ」という名のおもてなしによって完全に機能停止させられたという事実に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
彼の足元では全自動マッサージチェアの小型ゴーレムたちが設計された通りに、ただ黙々と騎士たちの筋肉をほぐし続けている。




